古墳とは、一般に日本史にて、3世紀後半から7世紀前半に築造された墳丘を持つ古い墓のことである。古代の東洋では位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。
日本史では、墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んでいるが、この内、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼んで区別している。
○古墳の概要
松本豊胤は、ため池造成や水田経営を積極的に進めた豪族たちが、自らが開発した地域を見渡せる場所に古墳を造営していった、と説明している。古墳は、規模や化粧方法の違いによって類別されるほか、その平面形状、さらに埋葬の中心施設である主体部の構造や形態によって細かく分類編年されている。墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める版築工法で築成されるものも多いこと、こうした工法は飛鳥や奈良時代に大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明している。
○古墳の発生
古墳は、規模・形状、およびその他の要素において、弥生時代の墓制にとって変わったものでなく、非常に変化した墓制としてあらわれた。それは、特定のわずかな人たちの埋葬法であり、同時代の集団構成員の墓と著しく隔絶したものである。さらに、地域的にも不均等に出現する。すなわち、古墳の発生は、墓制の単なる変化や葬送観念の変化にととどまらず、社会・政治の全般に関わる問題としてあらわれたのである。古墳発生の問題は、戦前から議論されていた。その中で、この問題を日本古代国家の形成途上における政治史の課題として位置づけたのは小林行雄であった。具体的には、伝世鏡論と同笵鏡論を展開した。この両論に疑問を表明したのは後藤守一、原田大六、森浩一、伝世鏡論に疑問や同笵鏡の分有関係の解釈について斎藤忠、系統的・理論的に批判した内藤晃、鏡の賜与だけをもって大和政権と地方首長との政治関係の成立を考察するのは困難とする西嶋定生などがいた。
○所在地・数
日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼる。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となる(平成13年3月末 文化庁調べ)。
○形・形状
日本の古墳には、基本的な形の円墳・方墳をはじめ、八角墳(天武・持統天皇陵)・双方中円墳(櫛山古墳・楯築古墳)などの種類がある。また、前方後円墳・前方後方墳・双円墳・双方墳などの山が二つある古墳もある。主要な古墳は、山が二つあるタイプの古墳であることが多い。死者が葬られる埋葬施設には、様々な形状が見られる。 前方後円墳の代表的な古墳は、大阪府堺市の大仙陵古墳(大山古墳・仁徳天皇陵)である。
多くの古墳は築かれてから長い時間が経過したため、上に木や植物が生え、あたかも自然丘陵のようになっている事が多いが、建造当時は木の無い状態で人工建造物であることがわかる状態であった。五色塚古墳や森将軍塚古墳のように建造当時の状態に復元された例もある。
○埋葬施設
古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。
竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はない。 ・竪穴式石槨 ・粘土槨 ・箱式石棺 ・木棺直葬 などがある。 このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものである。古墳時代前期から中期に盛行する。 粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされる。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行した。 箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので縄文時代以来の埋葬法である。 木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設をつくらずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法である。
横穴式系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が作られる。 ・横穴式石室 ・横口式石槨 などがある。 横穴式石室は、通路である羨道(せんどう)部と埋葬用の空間である玄室(げんしつ)部を持つ。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを両袖式、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを片袖式と呼ぶ。玄室内に安置される棺は、石棺・木棺・乾漆棺など様々である。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれるが、それを空ければ追葬が可能であった。古墳時代後期以降に盛行する。 横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られる。
○棺
古墳時代には、死者を棺に入れて埋葬した。棺の材料によって、木棺[5]、石棺、陶棺などがある。
木棺のうち刳りぬき式のものは、巨木を縦に二つに割って、それぞれ内部を刳りぬき、蓋と身とが作られたものと考えられ、「割竹式木棺」と呼び習わされている。しかし、巨木を二つに割るというが、竹を二つに割るように簡単にはいかないので用語として適切かどうかを指摘する向きもある。
つぎに「組合式」といわれる木棺は、蓋、底、左右の側板、計四枚の長方形の板と、前後の方形の小口板、時には別に仕切り板が付くこともあるが、二枚とを組み合わせて作った。
○薄葬と厚葬
中国には、埋葬に関して薄葬と厚葬という二つの対立する考え方があった。その考え方の違いの根底には異なった死生観が存在していた。墳丘を造っているかどうかで、薄葬(はくそう)か厚葬(こうそう)かの違いを区別することができる。つまり、死後、墓とした土地を永久に占有できるかどうかで区別する。
○薄葬令
646年(大化2年)に出された詔は、長文であり、内容から4部に分けられるが、その第一に述べられているのが、この「薄葬の詔」である。初めの部分は制定の意義を述べている。中国の文献を適当に混ぜ合わせて作文している。後半は、葬制の内容を具体的に記している。従来の墓の規模を遙かに縮小し、簡素化している。そこで一般にこの葬制を「薄葬制」という。この法令が出された背景には、「公地公民制」と関わりがあるのではないかという説がある。
○東アジアで
将軍塚(集安市)日本列島で大規模な古墳が築造された3世紀半ば過ぎから7世紀後半にかけての時期には、朝鮮半島でも墳丘をもつ古墳が盛んに造営された。中世では城郭として活用された古墳もあって、一部改変された古墳(黒塚古墳)などがもある。
高句麗で最大の古墳は中国集安(しゅうあん)の大王陵である。方形の積石塚で一辺63メートル、周りには一辺320メートルの土塁が巡らされている。また平壌の江西(こうせい)大墓は7世紀の壁画古墳として有名である。一辺60メートルの方墳。
○課題
日本では仁徳天皇陵など皇室の墓所と比定されている多くの古墳は現在宮内庁の管理下にあり発掘許可がなかなか下りない事が考古学研究が遅れる要因の一つとなっている。なお「○○天皇陵」といった呼称は、江戸時代の儒学者、国学者などの手による文献研究を踏襲し、明治時代に宮内省が比定したものである。その後のめざましい考古学研究の進展により緻密な編年作業が進展し、考古学者の比定と齟齬が生じているものも見られる。天皇陵の呼称はあくまで便宜的な名称であり、現在学問的に実証されたものではない。宮内庁は、陵墓の学術調査を規制していたが、2007年1月より陵墓管理の内規を改め、限定的な調査を認めている。
環境の影響という面でも高松塚古墳壁画劣化の例に顕著なように、外部から持ち込まれたもの(黴(カビ)類、細菌類など)が汚染を招くという事態が多くなっている。観光化に伴うこうした例は地域振興と密着しているため根絶を求めるのは難しく、古墳や景観の保護のためできるだけ環境負荷を最小限に留めるのが今後の課題となっている。
古墳の破壊も後を絶たない。古墳時代にすでに古墳が破壊されていたことが発掘などにより明らかになっているが、これらは政治的意図と思われる。しかし年月が経過すると、土地使用に供するために古墳を破壊するようになった。古くは、平城宮建設のために市庭古墳(平城天皇陵)の一部などが破壊された。農地のための破壊は歴史を通じて見られ、中世には城砦のために、近代(特に戦後)には宅地のために破壊されてきた。戦後に破壊された最大の古墳は、1949年に破壊された全長168mの百舌鳥大塚山古墳である。破壊の危機に瀕したいたすけ古墳の保存運動などをきっかけに、古墳は保存すべき文化財との認識が広まり、近年では大規模な破壊はない。しかし、工事の最中に発見された小さな古墳が公にされないまま破壊されている可能性があるほか、2005年には古江古墳が破壊されるなど、小規模の古墳の破壊は今もある。
○古墳の名前
一般に遺跡の名称は、その所在地の大字(おおあざ)や小字(こあざ)を付けることを原則にしている。例えば、登呂遺跡とか唐古・鍵遺跡などがそうである。古墳も例外ではないが、古墳自体に「○×塚」、「○×山」などの名称がもともと付いていることが多く、字名も同じである場合が多い。しかし、単に八幡山、稲荷山、大塚山、茶臼山、車塚、船山、宮山などと称する地名は各地にいくらでもみられ、時には同郡、同国内に複数存在する場合もあるので、どこの八幡山かを区別するために、井辺八幡山古墳、埼玉稲荷山古墳、江田船山古墳、百舌鳥大塚山古墳などと大字またはそれより上位の地名を付して呼称するのが通例である。壱岐市では掛木古墳や平山古墳など、元々の土地の所有者の苗字を古墳名につけると言う特殊な例も見られる。
○ゴーランドの研究
古墳研究において業績を残した外国人に、イギリス人ウィリアム・ゴーランド(William Gowland)がいる。彼は、造幣局の鎔銅担当技師として招聘され、後に局長顧問を兼ねた。彼は、1872(明治5)年から1888(明治21)年の16年間の滞日中に、本務の余暇をみてはこつこつと古墳研究を進めていた。彼の古墳研究のことは当時、日本人の間ではほとんど知られていなかった。彼が帰国してから『日本のドルメンと古墳』(The Dolmens and Burial Mounds in Japan,1897)と『日本のドルメンとその築造者』(The Dolmens of Japan and their Builders,1889)とを発表した。日本の古墳の中でも特に彼を引きつけたのは、巨石を使って構築された横穴式石室であった。彼が調査した横穴式石室は460で、そのうち実測図を作成してデータを計測したのは130である。調査地域は九州から関東の15府県に渡っている。
◎方墳
方墳とは墳丘の平面形が方形になる古墳のことで、古墳時代の全期間にわたって円墳についで数多く築かれている。
○概要
古墳時代初頭ないし前期に築かれるものは、弥生時代の大和風の方形周溝墓や出雲風の四隅突出型墳丘墓の延長と考えられ、性格自体もほとんど変わらないとみなされているが、最近は、前方後円墳や土師器出現の時期を画期として、「方墳」の一種とみなされている。そのため「前期群集墳」という造語まで発生している。弥生時代の四隅突出型墳墓は、すでに古墳時代に作られる技術が多様に用いられていることから、古代出雲の技術を物語る。
前期方墳の代表例は、島根県安来市の大成古墳、造山古墳(1辺60m)が全国最大の規模を誇り、その他方墳も出雲に集中しており、前方後方墳の魁もみられる。比較的小型のものが多いが、前方後円墳の築造が停止する7世紀には有力者の古墳の墳形に採用されている。例としては現在、用明天皇陵に指定されている大阪春日向山古墳(辺長63m×60m)や、推古天皇陵に指定されている山田高塚古墳(辺長63m×56m)、蘇我馬子の墓と考えられている石舞台古墳(上円下方墳との説あり)、千葉県の龍角寺岩屋古墳(辺長80m、高さ13m)などがある。また、島根県東部の出雲地方は方墳が特に多い地域として知られている。
◎上円下方墳
○概要
この形式の古墳は二段になっており、下段が方形、上段が円形となっている。極めて稀な形態であり、これまでに5例しか確認されていない。最初にこの形式が確認されたのは石のカラト古墳(カザハヒ古墳、風灰古墳とも。奈良県奈良市・京都府相楽郡木津町、7世紀末あるいは8世紀初頭築造と推定)で、1973年に発掘調査が行われている。次にこの形式の古墳が見つかったのは1985年で、静岡県沼津市にある愛鷹山の山麓である。この古墳は清水柳北一号墳(8世紀初頭築造と推定)と名付けられた。3例目は2003年に発見された武蔵府中熊野神社古墳(東京都府中市、7世紀中頃から後半)、4例目は2007年に確認調査が行われた天文台構内古墳(東京都三鷹市、7世紀中頃と推定)である。天文台構内古墳は1970年には発掘調査が行われていたが、2007年の再調査で上円下方墳であることが確認された。5例目は2008年に確認された野地久保古墳(福島県白河市、7世紀末から8世紀初)である。また埼玉県熊谷市宮塚古墳と、埼玉県川越市山王塚古墳が、墳丘の測量図から上円下方墳とされているが、発掘調査で墳丘の形態を確認しておらず、上円下方墳であるかどうか未確定である。
○近代に築造された上円下方墳
この陵墓の形式は近代以降の天皇家の陵墓にも採用されており、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵がこの形式である。
○広義の上円下方墳
下段を方形、上段を八角形とする古墳を上円下方墳に含める考え方も存在している。こうした広義の上円下方墳に含まれる陵墓の中でも最も有名なのは天智天皇の御廟野古墳である。また石舞台古墳も上円下方墳であった可能性が指摘されている。
◎八角墳
八角墳(はっかくふん)は古墳時代の終末期(7世紀中葉?)につくられた正八角形の古墳。京都市の御廟野古墳(現・天智天皇陵)や奈良県高市郡明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)などが有名。
○八角墳の意味
八角墳の意味については、広い意味での中国政治思想の八角形が天下八方の支配者にふさわしいという思想の影響が考えられる。八角墳は森浩一の提唱によると最終末古墳に含まれる。即位した大王が祭られている可能性を指摘する学者もあるが、奈良県だけではなく東京都多摩市の稲荷塚古墳をはじめ東日本など各地で少数ではあるが確認されていることから即位した大王だけを祭る為に造られている可能性に疑いを持つ学者も多い。八角墳は、舒明天皇の墓から始まっていると考えられ、日本の大王の墓に固有の型式の陵墓が考え出されたと捉えることができる。それは大王を他の有力豪族からも隔絶した支配者とみなし、中央集権国家の樹立を目指すものであった。
○最近の発掘
2006年4月19日、大阪府茨木市の桑原遺跡の桑原古墳群で7世紀の埋没群集墳24基を検出した中の1基が八角墳であり中臣鎌足の墓の可能性を指摘する学者がでてマスコミに取り上げられた。
◎双方中円墳
双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)とは、古墳の形のひとつ。
○特徴
円丘の両側に方形の突出部を持ち、比較的古墳時代前期に見られる。
◎前方後円墳
前方後円墳は、日本における古墳の一形式で3世紀から7世紀頃にかけて盛んに造成された。平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特の特徴であり、出現期より規模の大きさを特徴としている。墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が発達し墳丘と一体化したものであると考えられている。前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県から南は鹿児島県にまで及んでいる。かつては日本独特の墳墓とされていたが、近年、朝鮮半島西南部でも存在が確認されている。「前方後円」とは「前部が方形(四角形)、後部が円形」という形を意味している。
○概要
起源
日本が起源である前方後円墳についてこれまで幾つかの議論がおこなわれている。最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。それに対して梅原末治らは中国大陸からの影響があったとの説を提起していた。梅原は始皇帝陵などの前方に設けられていた祭壇などに由来するとしている。
○形状
前方後円墳の形状は、古くはヒョウタン形などとも形容されていた。「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めで使われた。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形部分が車の前だとした。しかし現在では古墳時代にそのような車は存在しなかったと考えられている。明治末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して、清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測した。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれた。現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための憤丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼ぶ。前方部は、弥生憤丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになった。しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われている。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥方をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられている。
◎前方後方墳
前方後方墳は、古墳の墳形の一種であり、特に東日本の前期古墳に多く存在する。その起源は、方形の墳丘墓への通路が変化し、突出部へと代わっていき成立したと推測されている。東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきた。
◎双円墳
双円墳とは、二基の円墳を連結した形の古墳のことで、別名を瓢形墳(ひょうけいふん)とも称する。
○概要
上から見れば瓢箪の形に見えないこともない双円墳は、全国的にも大変珍しい形で、代表的な金山古墳(大阪府南河内郡河南町芹生谷)の他には、夫婦塚古墳(東大阪市)や瓢箪山古墳(奈良市佐紀町衛門戸)などが知られる。しかし朝鮮半島の双墓との共通点も指摘されている。金山古墳の作られた年代は大体6世紀末から7世紀初頭にかけてであり、ちょうど前方後円墳が作られなくなる時期と重なる。
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