1932年1月28日、日中両軍が衝突した上海事変が起きた。事変の最中、大阪毎日新聞(現毎日新聞)学芸部に在籍していた西村真琴と、中国の文豪、魯との間に、1羽のハトを介した友情が生まれた。西村は事変が起きて間もない2月6日、戦いで負傷した人たちを治療する医療団を率いて、上海に渡った。市郊外の三義里で飢えて飛べなくなったハトを見つけ、「三義」と名づけて、日本に連れ帰って育てた。三義に二世が生まれたら、西村は日中友好のあかしとして、上海に送るつもりだった。残念ながら、三義は豊中市の自宅で、イタチの襲われて死んでしまった。西村は「三義塚」と刻んだ碑を建て、その思いを手紙にしたため、「西東国こそ異(たが)へ小鳩等は親善あへり一つ巣箱に」の歌と、三義の絵を添えて魯迅に送った。魯迅は感激し、漢詩「三義塔に題す」を作って西村に贈った。詩は「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」と結んである。「荒波を渡っていけば兄弟がいる。会って笑えば、恩讐は消える」という意味だ。1981年に兪啓慧・中国芸術学院教授が魯迅生誕100年を記念して、木版画集「度盡劫波兄弟在」を制作した。2002年には、豊中市立中央公民館の敷地に、豊中市日中友好協会が中心となり、石碑「三義塚」を設置した。戦火の下での友情は、今も語り継がれている。
所在地:〒561-0802大阪府豊中市曽根東町3丁目6
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