湊川の戦いは、南北朝時代の1336年((建武3年)5月25日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
○背景
この年の初め、足利尊氏は新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに敗れて京都を追われ九州へ落ち延びていた。ここで、正成が後醍醐天皇に、状況が宮方に有利な今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、後醍醐はこれを退け、義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。なお、正成は和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、この追討軍からは外され、国許での謹慎を命じられた。義貞は播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、この間に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して体制を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進した。尊氏軍の東上に遭い、撤退を始めた新田軍に赤松勢が追撃を仕掛け、新田軍は大量の寝返りや足利軍への投降者を出しながら敗走した。一気に陣営がやせ細ってしまった義貞は、兵庫まで兵を退いて体制の立て直しを図った。
○経緯
後醍醐天皇は正成に兵庫で足利軍と戦うよう命じ、援軍として差し向けた。水軍を用意できなかった新田軍は、本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも義貞配下の脇屋義助・大館氏明などの軍勢を配置して水軍の上陸に備えた。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に布陣した。合戦では、足利直義を司令官とする陸上軍の主力数万の大軍は西国街道を進み、少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森(神戸市三宮、御影付近)から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する。ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。楠木正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は壊滅。正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害した。建武の新政にて功績を上げた武士で安芸国有力在庁官人の石井末忠も戦死した。新田義貞は西宮から軍勢を返すと、生田の森を背にして足利軍と激しく激突した。合戦は「新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見えたりける」との激しさに及んだ。合戦の規模からすると、新田と足利の合戦が湊川の合戦の本戦と呼べる。しかし、兵力差は歴然であり宮方は敗北、義貞は求塚において源氏重代の鬼切、鬼丸の太刀を振るって奮戦し、大将みずから殿軍を務めて、味方を都へと退却させた。この際、窮地に陥ったところ配下の小山田高家が駆けつけ、身替わりとなって義貞の命を救ったという。高家は秩父平氏・小山田氏の系譜を引く武将と見られ、建武3年3月に播磨で刈田狼藉を行い軍令違反に問われていたが義貞に赦免され、その恩義から義貞の身代わりになったという。ただし、この逸話は『太平記』古本には見られず、後世の加筆である可能性が考えられている。当時の神戸市付近は、現在よりも海面が高かったこともあり、今以上に海が六甲山地に迫っていて平地が狭く、大軍の行動には適さなかった。そのため、宮方は水軍を全く持っていなかったことが決定的な敗因となった。
○後世への影響
湊川の戦いや、正成が出陣前に嫡子の楠木正行を本拠地の河内国へ帰した「桜井の別れ」などは、勝ち目のない戦と知りながら天皇のために忠義を尽くして死んだとして講談などで人気を博し、戦前の皇国史観教育や唱歌などでも盛んに取り上げられた。 現在の兵庫県神戸市中央区には、正成・正季兄弟終焉の地として楠木一族を祭神に祀った湊川神社があり、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。太平洋戦争末期の1945年3月21日の九州沖航空戦の際、神風特別攻撃隊第一神雷桜花隊、第一神雷攻撃隊(桜花とその母機である一式陸上攻撃機で編成された攻撃隊)は、九州南方沖に迫ったアメリカ海軍高速空母機動部隊に対する攻撃に出撃したものの、敵の艦上戦闘機部隊の迎撃により全滅した。この部隊の指揮官であった海軍少佐野中五郎は、鹿屋基地を出撃する際に、「これは湊川だよ(湊川の戦いのようなものだよ)」と嘆息したと言われている。また、正成は当初、京都から撤退し足利軍を京都に引き入れた後に挟撃する作戦を主張したのに対し、公家の坊門清忠がたびたびの動座(天皇の行在所への移動)は体面が悪いとしてこれを退け、結果として敗北に終わったことから、昭和の軍部における、内閣からの指揮を拒否する思潮の論拠のひとつともなった。
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