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2012年12月31日月曜日
2012年12月30日日曜日
龍光寺
曹洞宗。河内鑑名所記によると、敏達天皇(572 ~ 585 年)の開基、その後頼朝が建立したが度々兵火にあい荒れていると記されている。また別の記録によると正保二年(1645)僧玄光が再興したとあるが無住のため荒廃。往時をしのばせる地名として付近に「土堂(つちんどう)」「無念堂」が残る。
龍眼寺
大阪府大東市にある高野山真言宗の寺院。
□龍眼寺について
虚空つき 衆生つき 涅槃尽きなば、わが願いもつきなん
□龍の伝説
その昔、天下が大干ばつとなり聖武天皇は行基に雨乞いの祈祷を命じました。 行基が賢明に祈願していると若い龍が現れ「私はあなたの佛恩に報いたいと思います。しかし竜の王は怒って私を殺すに違いありません。そのとき、きっ と雨が降るでしょう。」竜王の怒りにふれた若い龍は体を三つに裂かれてしまいましたが雨は大地を潤しすべての命がよみがえりました。 龍の体は頭、胸、尾に分かれて空から落ちてきました。 天皇は深く感銘しそれぞれに寺を建てたと伝えられます。胸の落ちたところが「竜間」となりました。(大東市の民話より)
□龍眼寺の周辺
当山は生駒山系のほぼ北側に位置し、大阪と奈良をつなぐ重要な道として栄えた竜間の地にあります。 西に東高野街道があり南北朝時代の楠木正行と高師直の四条畷の合戦の地として今も名残をとどめており、多くの史跡に囲まれた地域です。殊に「竜間」の地名にもなっている龍の伝説は大東市の民話として親しまれています。
□龍眼寺の由来
当山の開基、妙久法尼は四国巡錫の砌、虚空蔵菩薩様が現れ、「生駒の山に龍の住む山あり。供養すべし」と霊示をうけ、生駒の山に登りこの竜間の地にたどり 着きました。そこで一心に三七日(二十一日間)護摩供養を修していると不思議に水が湧き出て、光明に包まれた八面六臂の三寳荒神様が現れ、「龍の眼をもっ て世の中を見渡し、衆生の苦悩を救わん」と説かれました。このことより、寺号を龍眼寺と号し、虚空蔵菩薩様をご本尊に、また三寳荒神様を鎮守とするように なりました。 現在では「生駒の荒神さん」として親しまれ、商売繁盛、厄難除に多数のご参詣を得ています。
所在地:大阪府大東市龍間37-3
□龍眼寺について
虚空つき 衆生つき 涅槃尽きなば、わが願いもつきなん
□龍の伝説
その昔、天下が大干ばつとなり聖武天皇は行基に雨乞いの祈祷を命じました。 行基が賢明に祈願していると若い龍が現れ「私はあなたの佛恩に報いたいと思います。しかし竜の王は怒って私を殺すに違いありません。そのとき、きっ と雨が降るでしょう。」竜王の怒りにふれた若い龍は体を三つに裂かれてしまいましたが雨は大地を潤しすべての命がよみがえりました。 龍の体は頭、胸、尾に分かれて空から落ちてきました。 天皇は深く感銘しそれぞれに寺を建てたと伝えられます。胸の落ちたところが「竜間」となりました。(大東市の民話より)
□龍眼寺の周辺
当山は生駒山系のほぼ北側に位置し、大阪と奈良をつなぐ重要な道として栄えた竜間の地にあります。 西に東高野街道があり南北朝時代の楠木正行と高師直の四条畷の合戦の地として今も名残をとどめており、多くの史跡に囲まれた地域です。殊に「竜間」の地名にもなっている龍の伝説は大東市の民話として親しまれています。
□龍眼寺の由来
当山の開基、妙久法尼は四国巡錫の砌、虚空蔵菩薩様が現れ、「生駒の山に龍の住む山あり。供養すべし」と霊示をうけ、生駒の山に登りこの竜間の地にたどり 着きました。そこで一心に三七日(二十一日間)護摩供養を修していると不思議に水が湧き出て、光明に包まれた八面六臂の三寳荒神様が現れ、「龍の眼をもっ て世の中を見渡し、衆生の苦悩を救わん」と説かれました。このことより、寺号を龍眼寺と号し、虚空蔵菩薩様をご本尊に、また三寳荒神様を鎮守とするように なりました。 現在では「生駒の荒神さん」として親しまれ、商売繁盛、厄難除に多数のご参詣を得ています。
所在地:大阪府大東市龍間37-3
役行者像
役行者は、奈良時代の修験者役小角(えんのおづぬ)のことである。葛城山で修行し、神通力をもつという伝説があり、修験者の祖とされている。飛翔に似た像は、「永禄十年三月七日」(1567 年)の銘あり、北河内最古。
一石十三仏板碑
慶長十一年(1606)龍間の逆修講の人々が建立したもの。一枚石に死者の初七日から三十三回忌まで13 回の供養をしてくれる仏を刻んだもの。逆修というのは、生きている間に往生菩提を願い供養することで、生前に行うと没後のそれより7倍の効果があるという。
菅原神社
菅原神社は、堺市堺区にある神社である。通称「堺天神」。地元では「天神さん」とよばれ親しまれている。堺北組(大小路・竪川以北)の氏神社。
○祭神
菅原道真、天穂日命、野見宿祢を祀る。
○歴史
997年に天神社として菅原大神を奉祀する。
明治5年天神社を菅原神社と改める。
明治40年宿屋町の薬祖神社を境内末社の地主神社合祀し、そして明治41年神明町の神明神社・宿屋町の事代主神社・熊野町の熊野神社・泉北郡三宝村の附島神社を夫々合祀した。
また、戎之町の事代主神社・戎島町の恵比須神社・境外飛地末社を遷座合祀した。
○祭事
歳旦祭 - 1月1日
とんど祭 - 1月15日
節分祭 - 2月3日
初午祭 - 2月最初の午の日
ホタル観賞会 - 6月中の2日間
自然発生したホタルを人工飼育している。期間中には、2日間だけ神社の庭が無料で一般公開され「ホタル観賞会」が行われる(※詳細はHP参照)。ゲンジボタルとヘイケボタル、約1000匹が見物人を魅了する。
大祓・茅の輪くぐり - 6月30日
八朔祭(例大祭) - 9月13日14日(ふとん太鼓の宮入)
大祓 - 12月31日
○摂社
堺戎神社 - 戎之町・戎島町の町名の由来にもなった戎社二社を合わせ祀る。
薬祖神社
稲荷神社
○文化財
大阪府文化財「楼門」
○交通
阪堺電気軌道阪堺線 大小路駅
○所在地
大阪府堺市堺区戎之町東2丁1-38
○祭神
菅原道真、天穂日命、野見宿祢を祀る。
○歴史
997年に天神社として菅原大神を奉祀する。
明治5年天神社を菅原神社と改める。
明治40年宿屋町の薬祖神社を境内末社の地主神社合祀し、そして明治41年神明町の神明神社・宿屋町の事代主神社・熊野町の熊野神社・泉北郡三宝村の附島神社を夫々合祀した。
また、戎之町の事代主神社・戎島町の恵比須神社・境外飛地末社を遷座合祀した。
○祭事
歳旦祭 - 1月1日
とんど祭 - 1月15日
節分祭 - 2月3日
初午祭 - 2月最初の午の日
ホタル観賞会 - 6月中の2日間
自然発生したホタルを人工飼育している。期間中には、2日間だけ神社の庭が無料で一般公開され「ホタル観賞会」が行われる(※詳細はHP参照)。ゲンジボタルとヘイケボタル、約1000匹が見物人を魅了する。
大祓・茅の輪くぐり - 6月30日
八朔祭(例大祭) - 9月13日14日(ふとん太鼓の宮入)
大祓 - 12月31日
○摂社
堺戎神社 - 戎之町・戎島町の町名の由来にもなった戎社二社を合わせ祀る。
薬祖神社
稲荷神社
○文化財
大阪府文化財「楼門」
○交通
阪堺電気軌道阪堺線 大小路駅
○所在地
大阪府堺市堺区戎之町東2丁1-38
方違神社
方違神社は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁2-1にある神社。近郷では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として知られる。
○祭神
方違幸大神
天神地祇
素盞嗚尊
住吉大神
神功皇后
○概要
社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この社を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほか御砂、ちまきがある。
○交通機関
南海高野線堺東駅から東へ徒歩5分 JR阪和線堺市駅より西へ徒歩10分 阪神高速15号堺線 堺出口より車で5分
○所在地
大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2-2-1
○例祭
5月31日、9月中旬
○祭神
方違幸大神
天神地祇
素盞嗚尊
住吉大神
神功皇后
○概要
社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この社を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほか御砂、ちまきがある。
○交通機関
南海高野線堺東駅から東へ徒歩5分 JR阪和線堺市駅より西へ徒歩10分 阪神高速15号堺線 堺出口より車で5分
○所在地
大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2-2-1
○例祭
5月31日、9月中旬
石津神社
石津神社は、大阪府堺市堺区にある神社である。式内社石津太神社に比定される。石津太神社については、同市西区浜寺石津町の石津太神社も論社となっており、元々はどちらかが本社、どちらかが御旅所か分社であったと考えられている。両社とも八重事代主神(戎神)降臨の地として、「日本最古の戎宮」を称している。えびす神は一般的に耳が遠いとされており、石津神社では、本殿横に木槌で叩いて願い事を唱える板が設置されている。大祓の時期には茅の輪が備えられる。
○祭神
八重事代主神、大己貴神、天穂日神を主祭神とする。境内社に、野見宿禰を祀る宿禰神社と菅原道真を祀る天満宮がある。なお、明治時代に六所神社を合祀したため、同社の祭神であった誉田別神、伊邪那美神、白山比賣神、水分神、高野神、高?神も祀っている。
○歴史
社伝では、八重事代主神が五色の石を携えてこの地に降臨したとしており、そこから石津の地名ができたという。孝昭天皇7年8月10日に勅願により創建され、垂仁天皇の時代に天穂日命の子孫である野見宿禰を神主としたとしている。八重事代主神が携えた石は神社の前に埋められており、天変地異のあるときには地面から出て浮き上がると伝えられる。蛭子命が漂着されたと伝承される御旅所は石津川北岸の元海岸の地にある。
○所在地
大阪府堺市堺区石津町1丁15-21
○例祭
10月初旬
○祭神
八重事代主神、大己貴神、天穂日神を主祭神とする。境内社に、野見宿禰を祀る宿禰神社と菅原道真を祀る天満宮がある。なお、明治時代に六所神社を合祀したため、同社の祭神であった誉田別神、伊邪那美神、白山比賣神、水分神、高野神、高?神も祀っている。
○歴史
社伝では、八重事代主神が五色の石を携えてこの地に降臨したとしており、そこから石津の地名ができたという。孝昭天皇7年8月10日に勅願により創建され、垂仁天皇の時代に天穂日命の子孫である野見宿禰を神主としたとしている。八重事代主神が携えた石は神社の前に埋められており、天変地異のあるときには地面から出て浮き上がると伝えられる。蛭子命が漂着されたと伝承される御旅所は石津川北岸の元海岸の地にある。
○所在地
大阪府堺市堺区石津町1丁15-21
○例祭
10月初旬
開口神社
開口神社は、堺市堺区にある神社である。通称「大寺」。地元では「大寺さん」とよばれ親しまれている。堺南組(大小路・竪川以南)の氏神社。式内社で、旧社格は府社。
○祭神
塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀る。塩土老翁神は住吉大社の住吉三神を一つにして神徳を現した神とされ、「住吉の奥の院」と呼ばれる。
○歴史
社伝には、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える。延喜式神名帳に和泉国大鳥郡24座のうちの一社として記載されている。932年(承平2年)には神階が正五位上まで昇った。古代から中世にかけて、当社付近は開口村と呼ばれていた。1113年(天永4年)、原村の素盞嗚命、木戸村の生国魂命を合祀し、「開口三村大明神」と呼ばれ、崇敬されるようになった。1873年(明治6年)に郷社に列し、1902年(明治35年)に府社に昇格した。1945年(昭和20年)7月10日未明の堺空襲により本殿と三重塔を含め悉く焼失した。現在の社殿は1961年(昭和36年)の再建である。通称の「大寺」はかつて存在した神宮寺の念仏寺に由来する。念仏寺の開山は744年(天平16年)で行基による。山号は密乗山。平安期には空海や空也とゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈したことから、大寺の通称が定着するに至った。
○祭事
元旦祭 - 1月1日
とんど祭 - 1月15日
節分祭 - 2月節分
初午祭 - 3月下旬午の日
さつき祭 - 5月5日
大祓・茅の輪くぐり・流鏑馬神事 - 6月30日
八朔祭(例祭) - 9月中旬(堺最古の歴史を持つふとん太鼓がかつぎだされる)9月12日に近い金~日曜日
三宝荒神祭 - 11月28日
○境内外社
豊竹稲荷神社
白髭神社
松風神社
金比羅神社
塞神社(庚申さん)
竈神社(荒神さん)
厳島神社(弁天さん)
舳松神社
北辰神社
楠本神社
三宅八幡神社
少彦名神社
恵比須神社(戎さん)
大国魂神社(大黒さん)
神明神社
豊受神社
熊野神社
薬師社
舟玉神社
菅原神社
産霊神社
兜神社
○文化財
重要文化財「大寺縁起」 土佐光起筆
重要文化財「短刀銘吉光」
○交通
阪堺電気軌道阪堺線 大小路駅
阪堺電気軌道阪堺線 宿院駅
○所在地
大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29
○祭神
塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀る。塩土老翁神は住吉大社の住吉三神を一つにして神徳を現した神とされ、「住吉の奥の院」と呼ばれる。
○歴史
社伝には、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える。延喜式神名帳に和泉国大鳥郡24座のうちの一社として記載されている。932年(承平2年)には神階が正五位上まで昇った。古代から中世にかけて、当社付近は開口村と呼ばれていた。1113年(天永4年)、原村の素盞嗚命、木戸村の生国魂命を合祀し、「開口三村大明神」と呼ばれ、崇敬されるようになった。1873年(明治6年)に郷社に列し、1902年(明治35年)に府社に昇格した。1945年(昭和20年)7月10日未明の堺空襲により本殿と三重塔を含め悉く焼失した。現在の社殿は1961年(昭和36年)の再建である。通称の「大寺」はかつて存在した神宮寺の念仏寺に由来する。念仏寺の開山は744年(天平16年)で行基による。山号は密乗山。平安期には空海や空也とゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈したことから、大寺の通称が定着するに至った。
○祭事
元旦祭 - 1月1日
とんど祭 - 1月15日
節分祭 - 2月節分
初午祭 - 3月下旬午の日
さつき祭 - 5月5日
大祓・茅の輪くぐり・流鏑馬神事 - 6月30日
八朔祭(例祭) - 9月中旬(堺最古の歴史を持つふとん太鼓がかつぎだされる)9月12日に近い金~日曜日
三宝荒神祭 - 11月28日
○境内外社
豊竹稲荷神社
白髭神社
松風神社
金比羅神社
塞神社(庚申さん)
竈神社(荒神さん)
厳島神社(弁天さん)
舳松神社
北辰神社
楠本神社
三宅八幡神社
少彦名神社
恵比須神社(戎さん)
大国魂神社(大黒さん)
神明神社
豊受神社
熊野神社
薬師社
舟玉神社
菅原神社
産霊神社
兜神社
○文化財
重要文化財「大寺縁起」 土佐光起筆
重要文化財「短刀銘吉光」
○交通
阪堺電気軌道阪堺線 大小路駅
阪堺電気軌道阪堺線 宿院駅
○所在地
大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29
宿院頓宮
宿院頓宮は、大阪府堺市堺区にある頓宮・神社である。
○由緒
住吉大社の御旅所として設置され(年代不詳)、住吉の「宿居」から転じて「宿院」と呼ばれるようになったと言われる。古くから夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われてきた。明治以降は大鳥大社からも神輿の渡御が行われるようになり、国境の町「堺」を象徴する、摂津国和泉国両一宮の頓宮となった。現在は、7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われている。神社としては、大正期に境内へ遷座された「波除住吉神社」と「大鳥井瀬神社」の二社がある。堺大空襲による焼失以前は二社殿が並んでいたが、以降は一社殿にて合わせ祀られている。
○祭神
住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命)
大鳥井瀬大神(弟橘媛命)
○歴史
年代不詳、住吉大社の御旅所となる。
706年(慶雲3年)、大鳥井瀬神社創建。
式内社。大鳥五社の一社。大鳥郡蜂田郷平岡もしくは堀上に鎮座。
1816年(文化13年)、波除住吉神社創建。
旧堺港の海上守護として、住吉大社の分霊を勧請した。当初は吾妻橋通(現在の堺駅付近)に鎮座。
1841年(天保12年)の勧請とする説もある。
1860年(万延元年)、波除住吉神社を旧堺港小波止へ遷座。
ただし、1851年(嘉永4年)の『嘉永改正堺大絵図』において、小波止に「新住吉」の記載が既に見られる。
現在の北波止緑地。菅原神社の御旅所の隣に神社跡碑が建てられ、対岸の大浜公園にあった龍女神像が2000年(平成12年)に移設された。
1875年(明治8年)、大鳥大社の御旅所となる。
1878年(明治11年)、大鳥井瀬神社を大鳥大社境内へ遷座。
1921年(大正10年)、波除住吉神社を宿院頓宮境内へ遷座。
1922年(大正11年)、大鳥井瀬神社を宿院頓宮境内へ遷座。
1945年(昭和20年)、堺大空襲により社殿焼失。
1949年(昭和24年)、社殿再建。
御用材は廣田神社から譲られたものを使用。
この間、フェニックス通り(宿院通り)の貫通・拡幅等によって、神域が六分の一程度に縮小された。以前の神域は東西84間・南北60間(旧間)で、フェニックス通り北側の大町にも及んでいた。フェニックス通りの分離帯に「住吉大鳥両大社頓宮」と書かれた石柱(山之口筋交差点)や旧宿院跡碑が建てられており、かつて神域であったことを表している。
○祭事
歳旦祭 - 1月1日
桜祭り - 4月上旬
大鳥大社渡御祭 - 7月31日
住吉大社渡御祭・荒和大祓神事 - 8月1日
除夜祭 - 12月31日
○境内
本殿
拝殿
飯匙堀 - 海幸山幸の神話に登場する潮干珠を埋めたところとされ、雨水が溜まらないと言われる。
兜神社旧蹟碑 - 現在は開口神社へ合祀されている。
白夜の兎群像
堺ふれあいサロン
○交通
阪堺電気軌道阪堺線宿院駅
○所在地
大阪府堺市堺区宿院町東2丁1-6
○由緒
住吉大社の御旅所として設置され(年代不詳)、住吉の「宿居」から転じて「宿院」と呼ばれるようになったと言われる。古くから夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われてきた。明治以降は大鳥大社からも神輿の渡御が行われるようになり、国境の町「堺」を象徴する、摂津国和泉国両一宮の頓宮となった。現在は、7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われている。神社としては、大正期に境内へ遷座された「波除住吉神社」と「大鳥井瀬神社」の二社がある。堺大空襲による焼失以前は二社殿が並んでいたが、以降は一社殿にて合わせ祀られている。
○祭神
住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命)
大鳥井瀬大神(弟橘媛命)
○歴史
年代不詳、住吉大社の御旅所となる。
706年(慶雲3年)、大鳥井瀬神社創建。
式内社。大鳥五社の一社。大鳥郡蜂田郷平岡もしくは堀上に鎮座。
1816年(文化13年)、波除住吉神社創建。
旧堺港の海上守護として、住吉大社の分霊を勧請した。当初は吾妻橋通(現在の堺駅付近)に鎮座。
1841年(天保12年)の勧請とする説もある。
1860年(万延元年)、波除住吉神社を旧堺港小波止へ遷座。
ただし、1851年(嘉永4年)の『嘉永改正堺大絵図』において、小波止に「新住吉」の記載が既に見られる。
現在の北波止緑地。菅原神社の御旅所の隣に神社跡碑が建てられ、対岸の大浜公園にあった龍女神像が2000年(平成12年)に移設された。
1875年(明治8年)、大鳥大社の御旅所となる。
1878年(明治11年)、大鳥井瀬神社を大鳥大社境内へ遷座。
1921年(大正10年)、波除住吉神社を宿院頓宮境内へ遷座。
1922年(大正11年)、大鳥井瀬神社を宿院頓宮境内へ遷座。
1945年(昭和20年)、堺大空襲により社殿焼失。
1949年(昭和24年)、社殿再建。
御用材は廣田神社から譲られたものを使用。
この間、フェニックス通り(宿院通り)の貫通・拡幅等によって、神域が六分の一程度に縮小された。以前の神域は東西84間・南北60間(旧間)で、フェニックス通り北側の大町にも及んでいた。フェニックス通りの分離帯に「住吉大鳥両大社頓宮」と書かれた石柱(山之口筋交差点)や旧宿院跡碑が建てられており、かつて神域であったことを表している。
○祭事
歳旦祭 - 1月1日
桜祭り - 4月上旬
大鳥大社渡御祭 - 7月31日
住吉大社渡御祭・荒和大祓神事 - 8月1日
除夜祭 - 12月31日
○境内
本殿
拝殿
飯匙堀 - 海幸山幸の神話に登場する潮干珠を埋めたところとされ、雨水が溜まらないと言われる。
兜神社旧蹟碑 - 現在は開口神社へ合祀されている。
白夜の兎群像
堺ふれあいサロン
○交通
阪堺電気軌道阪堺線宿院駅
○所在地
大阪府堺市堺区宿院町東2丁1-6
日部神社
日部神社は、大阪府堺市西区草部にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
○祭神
彦坐王・神武天皇・道臣命を主祭神とする。彦坐命は日下部首氏の祖神である。日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたという。当社は明治時代に鶴田村大字草部字輪之内にあった日部神社、同字寺山の八坂神社、大字原田の熊野神社、大字上の菅原神社を合祀したもので、社名と主祭神は式内社である旧日部神社のものを採用している。他に旧八坂神社の素盞嗚尊、旧熊野神社の伊弉冉尊、旧菅原神社の菅原道真を合せ祀る。
○歴史
日部神社の創建の由緒は不詳であるが、神武天皇が東征の際に上陸し、長髄彦と最初の戦いをした「日下の蓼津」はこの一帯であると『古事記伝』に記されている。明治44年に八坂神社・熊野神社・菅原神社が日部神社に合祀され、旧八坂神社の社地に遷座した。
○境内
社地および本殿・神門は旧八坂神社のものである。本殿前の石燈籠に製作日の記録として「正平二十四年卯月八日」と彫られていることから本殿は南北朝時代から室町時代にかけての建造とみられ、本殿・石灯籠は大正6年(1917年)、重要文化財に指定された。本殿の蟇股には、さまざまな彫刻が施されてある。拝殿は旧菅原神社のものを移築したものである。日部神社の旧社地は現在地の南300mの所で、道臣命が埋葬されていると伝えられる御山古墳の側にある。遷座後の旧社地は大正初年に民間に買却され、現在は住宅地となっている。
○祭事・年中行事
7月13日:夏祭
10月5日:五穀豊穣を祈願し地車祭がとり行われている。
○所在地
大阪府堺市西区草部262
○祭神
彦坐王・神武天皇・道臣命を主祭神とする。彦坐命は日下部首氏の祖神である。日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたという。当社は明治時代に鶴田村大字草部字輪之内にあった日部神社、同字寺山の八坂神社、大字原田の熊野神社、大字上の菅原神社を合祀したもので、社名と主祭神は式内社である旧日部神社のものを採用している。他に旧八坂神社の素盞嗚尊、旧熊野神社の伊弉冉尊、旧菅原神社の菅原道真を合せ祀る。
○歴史
日部神社の創建の由緒は不詳であるが、神武天皇が東征の際に上陸し、長髄彦と最初の戦いをした「日下の蓼津」はこの一帯であると『古事記伝』に記されている。明治44年に八坂神社・熊野神社・菅原神社が日部神社に合祀され、旧八坂神社の社地に遷座した。
○境内
社地および本殿・神門は旧八坂神社のものである。本殿前の石燈籠に製作日の記録として「正平二十四年卯月八日」と彫られていることから本殿は南北朝時代から室町時代にかけての建造とみられ、本殿・石灯籠は大正6年(1917年)、重要文化財に指定された。本殿の蟇股には、さまざまな彫刻が施されてある。拝殿は旧菅原神社のものを移築したものである。日部神社の旧社地は現在地の南300mの所で、道臣命が埋葬されていると伝えられる御山古墳の側にある。遷座後の旧社地は大正初年に民間に買却され、現在は住宅地となっている。
○祭事・年中行事
7月13日:夏祭
10月5日:五穀豊穣を祈願し地車祭がとり行われている。
○所在地
大阪府堺市西区草部262
大鳥大社
大鳥大社(正式名:大鳥神社)は、大阪府堺市西区鳳北町にある神社。式内社(名神大社)、和泉五社の一つで和泉国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は別表神社。埼玉県の鷲宮神社とともに全国の「大鳥信仰」の本社とされる。
○社名について
「大鳥大明神」「大鳥大神宮」などともいわれた。現在の正式な社名は大鳥神社であるが、一般には大鳥大社の社名の方が広く使用されている。
○概要
日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。神域は千種森と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。本殿は大鳥造という独自の古形式を保っている。日本武尊を守護神として信仰していたが、「おとりさま」と称されて開運・商売繁盛の神と信仰され、11月酉の日には熊手の酉の市が開かれる。
○祭神
日本武尊
大鳥連祖神
元来の祭神は大鳥連の祖神であるらしかったが、一時期天照大神が祭神とされるようになった。「和泉国大鳥五社大明神并府中惣社八幡宮縁起」によると本地仏は釈迦如来となっている。その後、日本武尊が祭神と考えられるようになり、これが定着した。これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合であると考えられる。以来、長い間にわたって日本武尊を祭神としてきたが、明治29年(1896年)に政府の祭神考証の結果を受け内務省の指示により、大鳥連祖神に祭神を変更した。その後、昭和36年(1961年)に大鳥連祖神にくわえて、日本武尊を祀った。大鳥連は中臣氏と同じく天児屋命を祖神としていたので、大鳥連祖神は天児屋命ということになる。
※各神の祭祀については、大鳥氏が単に一宮の神官であったというには、後世の倭武伝説を差し引いたにしても、その変遷ぶりには謎めいた部分も残っており、大鳥連の、領主あるいは神官という職業以外の何らかの役割を古代豪族社会で担った可能性も含め、今後も検証が必要と思われる。
○歴史
大鳥連が祖神を祀ったのが始まりだと考えられている。弘仁14年7月4日(ユリウス暦823年8月14日)に積川神社とともに朝廷の祈雨の奉幣を受ける(『日本後紀』)。承和9年10月9日(ユリウス暦842年11月15日)に和泉国泉穴師神社・積川神社とともに神階昇授を受け、従五位下から従五位上になる(『続日本後紀』)。貞観元年(859年)1月27日には全国諸神とともに神階昇授を受け、従五位上勲八等から従四位下になり、同年9月8日に朝廷より風雨のため、畿内諸神とともに奉幣を受ける(『三代実録』)。貞観3年(861年)に紀伊国御船神とともに神階昇授を受け、従三位となる(『三代実録』)。延喜22年(922年)の「大鳥大神宮五社流記帳」では神階は正一位勲八等とあり、祭神が天照大神となっている。延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では、和泉国唯一の名神大社となっている。別当寺は大鳥山勧学院神鳳寺。開山は和銅元年(708年)で行基によると言われる(『行基年譜』)が、天平12年(740年)とする説もある。鎌倉時代初期には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥濱神社とともに「大鳥五社」を形成する。また南北朝時代よりは泉穴師神社・聖神社・積川神社・日根神社とともに「当国五社大明神」を形成するにいたる。中世には和泉国一宮として国衙などから崇敬を受けるが、一方、従来、大鳥神社を祀ってきた大鳥氏は主導権を国衙勢力などに奪われて衰退していく。織田信長は天正3年(1575年)に所領1300石を安堵している。中世の兵火により、神鳳寺とともに焼失するが、片桐且元を奉行とした豊臣秀頼の一連の社寺造営で慶長7年(1602年)に再建されるが、大坂の役で十三重塔を残して再び灰燼に帰した。その後、寛文2年(1662年)に幕命により堺町奉行石河利政が大鳥神社及び神鳳寺を再建した。元禄14年(1701年)には幕命により柳沢保明が修営した。延宝-元禄年間になると、快円恵空が神鳳寺に入って勢力を拡大し、柳沢氏の保護を受けたこともあって、神鳳寺は全盛期を迎える。神鳳寺は「真言律宗南方一派」の本山となり、畿内を中心に76寺もの末寺を擁した。神鳳寺の繁栄を影に大鳥神社は衰退ていたが、幕末より国学の発展に連動して神社復権を求める声が高まった。社家である大鳥氏は断絶し、その後は和泉総社の神職が祭祀を引き継いだ。明治になると神仏分離により神鳳寺は廃寺となり、末寺であった光明院が仏像・記録などを引き継いだ。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)5月に官幣大社に列格された。明治9年(1876年)の政府の祭神考証の結果を受け、政府は大鳥連祖神(天児屋命)に祭神を変更した。神社側の反発があったが、明治29年(1896年)の内務省社寺局の通達により変更が確定した。神社側は祭神の日本武尊への復帰をたびたび求めたが、大鳥連祖神に加えて日本武尊を祀ることに至ったのは、国家管理を離れた戦後の昭和36年(1961年)になってからだった。 明治38年(1905年)8月15日、落雷により社殿は焼失し、明治42年(1909年)12月に再建されたのが現社殿である。戦後は神社本庁に所属し、別表神社に指定されている。
○摂末社
・境内摂社
大鳥美波比神社 - 式内社。大鳥五社の一社。明治12年(1879年)に境内に遷座した。明治42年(1909年)に式内社押別神社・菅原神社4社を合祀した。
祭神:天照大神
配神:菅原道真、押別命
・境外摂社
大鳥北濱神社 (堺市西区浜寺元町3丁) - 式内社。大鳥五社の一社、大鳥鍬靫神社。明治6年(1873年)に改称。
祭神:吉備穴戸武媛命
大鳥井瀬神社 (堺市堺区宿院町東2丁) - 式内社。大鳥五社の一社。大正11年(1922年)に住吉大社と大鳥大社の御旅所である宿院頓宮に遷座した。
祭神:弟橘姫命
大鳥羽衣濱神社 - 大阪府高石市羽衣5丁目。式内社。大鳥五社の一社、大鳥濱神社。羽衣濱神社とも。慶雲3年(706年)に鎮座した。
祭神:両道入姫命、井戸守稲荷大明神
○主な祭事
例祭は8月13日にとり行われる。増祀記念大祭は3月15日、4月13日には「花摘祭」、6月中旬には「菖蒲祭」が行われ、7月31日には宿院頓宮への「渡御祭」、10月第1土曜日にはだんじり宮入り(鳳だんじり祭り)が行われる。酉の市神事は、11月酉の日に行われる。毎月2日、12日、22日は「にいび」と呼ばれる縁日が開催されている。
○現地情報
・所在地
大阪府堺市西区鳳北町1-1-2
・交通アクセス(鉄道)
JR西日本阪和線 鳳駅 (小栗街道を北上、徒歩約5分)
南海本線 浜寺公園駅 (徒歩約15分)
阪堺線 浜寺駅前駅 (徒歩約15分) - 平日のみ南海バス「91 西区役所前 行」が運行(本数が少ないので事前に確認のこと)
○社名について
「大鳥大明神」「大鳥大神宮」などともいわれた。現在の正式な社名は大鳥神社であるが、一般には大鳥大社の社名の方が広く使用されている。
○概要
日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。神域は千種森と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。本殿は大鳥造という独自の古形式を保っている。日本武尊を守護神として信仰していたが、「おとりさま」と称されて開運・商売繁盛の神と信仰され、11月酉の日には熊手の酉の市が開かれる。
○祭神
日本武尊
大鳥連祖神
元来の祭神は大鳥連の祖神であるらしかったが、一時期天照大神が祭神とされるようになった。「和泉国大鳥五社大明神并府中惣社八幡宮縁起」によると本地仏は釈迦如来となっている。その後、日本武尊が祭神と考えられるようになり、これが定着した。これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合であると考えられる。以来、長い間にわたって日本武尊を祭神としてきたが、明治29年(1896年)に政府の祭神考証の結果を受け内務省の指示により、大鳥連祖神に祭神を変更した。その後、昭和36年(1961年)に大鳥連祖神にくわえて、日本武尊を祀った。大鳥連は中臣氏と同じく天児屋命を祖神としていたので、大鳥連祖神は天児屋命ということになる。
※各神の祭祀については、大鳥氏が単に一宮の神官であったというには、後世の倭武伝説を差し引いたにしても、その変遷ぶりには謎めいた部分も残っており、大鳥連の、領主あるいは神官という職業以外の何らかの役割を古代豪族社会で担った可能性も含め、今後も検証が必要と思われる。
○歴史
大鳥連が祖神を祀ったのが始まりだと考えられている。弘仁14年7月4日(ユリウス暦823年8月14日)に積川神社とともに朝廷の祈雨の奉幣を受ける(『日本後紀』)。承和9年10月9日(ユリウス暦842年11月15日)に和泉国泉穴師神社・積川神社とともに神階昇授を受け、従五位下から従五位上になる(『続日本後紀』)。貞観元年(859年)1月27日には全国諸神とともに神階昇授を受け、従五位上勲八等から従四位下になり、同年9月8日に朝廷より風雨のため、畿内諸神とともに奉幣を受ける(『三代実録』)。貞観3年(861年)に紀伊国御船神とともに神階昇授を受け、従三位となる(『三代実録』)。延喜22年(922年)の「大鳥大神宮五社流記帳」では神階は正一位勲八等とあり、祭神が天照大神となっている。延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では、和泉国唯一の名神大社となっている。別当寺は大鳥山勧学院神鳳寺。開山は和銅元年(708年)で行基によると言われる(『行基年譜』)が、天平12年(740年)とする説もある。鎌倉時代初期には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥濱神社とともに「大鳥五社」を形成する。また南北朝時代よりは泉穴師神社・聖神社・積川神社・日根神社とともに「当国五社大明神」を形成するにいたる。中世には和泉国一宮として国衙などから崇敬を受けるが、一方、従来、大鳥神社を祀ってきた大鳥氏は主導権を国衙勢力などに奪われて衰退していく。織田信長は天正3年(1575年)に所領1300石を安堵している。中世の兵火により、神鳳寺とともに焼失するが、片桐且元を奉行とした豊臣秀頼の一連の社寺造営で慶長7年(1602年)に再建されるが、大坂の役で十三重塔を残して再び灰燼に帰した。その後、寛文2年(1662年)に幕命により堺町奉行石河利政が大鳥神社及び神鳳寺を再建した。元禄14年(1701年)には幕命により柳沢保明が修営した。延宝-元禄年間になると、快円恵空が神鳳寺に入って勢力を拡大し、柳沢氏の保護を受けたこともあって、神鳳寺は全盛期を迎える。神鳳寺は「真言律宗南方一派」の本山となり、畿内を中心に76寺もの末寺を擁した。神鳳寺の繁栄を影に大鳥神社は衰退ていたが、幕末より国学の発展に連動して神社復権を求める声が高まった。社家である大鳥氏は断絶し、その後は和泉総社の神職が祭祀を引き継いだ。明治になると神仏分離により神鳳寺は廃寺となり、末寺であった光明院が仏像・記録などを引き継いだ。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)5月に官幣大社に列格された。明治9年(1876年)の政府の祭神考証の結果を受け、政府は大鳥連祖神(天児屋命)に祭神を変更した。神社側の反発があったが、明治29年(1896年)の内務省社寺局の通達により変更が確定した。神社側は祭神の日本武尊への復帰をたびたび求めたが、大鳥連祖神に加えて日本武尊を祀ることに至ったのは、国家管理を離れた戦後の昭和36年(1961年)になってからだった。 明治38年(1905年)8月15日、落雷により社殿は焼失し、明治42年(1909年)12月に再建されたのが現社殿である。戦後は神社本庁に所属し、別表神社に指定されている。
○摂末社
・境内摂社
大鳥美波比神社 - 式内社。大鳥五社の一社。明治12年(1879年)に境内に遷座した。明治42年(1909年)に式内社押別神社・菅原神社4社を合祀した。
祭神:天照大神
配神:菅原道真、押別命
・境外摂社
大鳥北濱神社 (堺市西区浜寺元町3丁) - 式内社。大鳥五社の一社、大鳥鍬靫神社。明治6年(1873年)に改称。
祭神:吉備穴戸武媛命
大鳥井瀬神社 (堺市堺区宿院町東2丁) - 式内社。大鳥五社の一社。大正11年(1922年)に住吉大社と大鳥大社の御旅所である宿院頓宮に遷座した。
祭神:弟橘姫命
大鳥羽衣濱神社 - 大阪府高石市羽衣5丁目。式内社。大鳥五社の一社、大鳥濱神社。羽衣濱神社とも。慶雲3年(706年)に鎮座した。
祭神:両道入姫命、井戸守稲荷大明神
○主な祭事
例祭は8月13日にとり行われる。増祀記念大祭は3月15日、4月13日には「花摘祭」、6月中旬には「菖蒲祭」が行われ、7月31日には宿院頓宮への「渡御祭」、10月第1土曜日にはだんじり宮入り(鳳だんじり祭り)が行われる。酉の市神事は、11月酉の日に行われる。毎月2日、12日、22日は「にいび」と呼ばれる縁日が開催されている。
○現地情報
・所在地
大阪府堺市西区鳳北町1-1-2
・交通アクセス(鉄道)
JR西日本阪和線 鳳駅 (小栗街道を北上、徒歩約5分)
南海本線 浜寺公園駅 (徒歩約15分)
阪堺線 浜寺駅前駅 (徒歩約15分) - 平日のみ南海バス「91 西区役所前 行」が運行(本数が少ないので事前に確認のこと)
石津太神社
石津太神社は、大阪府堺市西区にある神社である。旧社格は村社。同市堺区石津町の石津神社ととも、式内小社「和泉国大鳥郡 石津太神社」の論社であり、どちらも「日本最古の戎社」を称している。
○祭神
蛭子命・八重事代主命・天穂日命(石津連の祖神)を主祭神とし、天照大神(靱大神宮)を配祀する。神社合祀により建御名方富命を合わせ祀る。
○歴史
この地は元は浜辺であり、伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石を置いたという。蛭子命が漂着した場所を「石津の磐山」、「五色の石」を置いた場所を「石津」という。鳥居の前の交差点に「五色の石」を地下に埋めたとされる場所があり、その場所を示す地上部分に石が置かれている。孝昭天皇7年8月10日、勅命により蛭子命を祀る社殿を造営し、八重事代主命・天穂日命を合祀した。平安朝以後、朝廷の崇敬を受け、幾度の御幸の記録もある。かつては広大な社領を有していたが、元和年間以後、数度の兵火により社殿を焼失した。豊臣秀吉が大阪城を築城した際、裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金を寄進した。明和5年、神札頒布について係争していた西宮神社(西宮戎)と和解した。全国に崇敬者があり、明和6年には江戸湯島天神、坐摩神社で出開帳をしている。石津川北岸の大阪湾手前の河口には、葦舟に乗った蛭子命(戎大神)が漂着したと伝えられる場所があり、現在は御旅所として祀られている。明治5年(1872年)に村社に列格した。明治41年、近隣の諏訪神社を合祀した。鳥居の前には紀州街道が南北に走っている。
○社殿
江戸時代前期に造営された本殿が二殿あり、蛭子命・八重事代主命・天穂日命を祀る北殿は一間社流造、建御名方富命・天照大神を祀る南殿は一間社春日造である。宝暦年間に造営された両殿に共有する割拝殿は入母屋造となっている。境内末社に磐山稲荷社、八幡神社、白蛇社がある。境内には、蛭子命が腰を掛けたと言われる大石が存在する。蛭子命が漂着されたと伝承される御旅所は石津川北岸の元海岸の地にある。鳥居の扁額は三条実美が参拝時に書いたとされている。
○祭事
毎年、12月14日には「泉州の奇祭」と言われる「ヤッサイホッサイ祭り」と呼ばれる火祭が行われる。これは、往古蛭子命が漂着した際、付近の住民が篝火を炊いて迎えたと言う古儀に因む。108束の薪を参道に積んで点火し、戎神に火葬した神人を担ぎ、火渡りを3度繰り返し社地を3周する際に「やっさいほっさい」と言う掛声をする。
○所在地
大阪府堺市西区浜寺石津町中4丁12-7
○例祭
10月5日に近い土曜日
○主な神事
十日戎、初午、八幡祭、やっさいほっさい
○祭神
蛭子命・八重事代主命・天穂日命(石津連の祖神)を主祭神とし、天照大神(靱大神宮)を配祀する。神社合祀により建御名方富命を合わせ祀る。
○歴史
この地は元は浜辺であり、伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石を置いたという。蛭子命が漂着した場所を「石津の磐山」、「五色の石」を置いた場所を「石津」という。鳥居の前の交差点に「五色の石」を地下に埋めたとされる場所があり、その場所を示す地上部分に石が置かれている。孝昭天皇7年8月10日、勅命により蛭子命を祀る社殿を造営し、八重事代主命・天穂日命を合祀した。平安朝以後、朝廷の崇敬を受け、幾度の御幸の記録もある。かつては広大な社領を有していたが、元和年間以後、数度の兵火により社殿を焼失した。豊臣秀吉が大阪城を築城した際、裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金を寄進した。明和5年、神札頒布について係争していた西宮神社(西宮戎)と和解した。全国に崇敬者があり、明和6年には江戸湯島天神、坐摩神社で出開帳をしている。石津川北岸の大阪湾手前の河口には、葦舟に乗った蛭子命(戎大神)が漂着したと伝えられる場所があり、現在は御旅所として祀られている。明治5年(1872年)に村社に列格した。明治41年、近隣の諏訪神社を合祀した。鳥居の前には紀州街道が南北に走っている。
○社殿
江戸時代前期に造営された本殿が二殿あり、蛭子命・八重事代主命・天穂日命を祀る北殿は一間社流造、建御名方富命・天照大神を祀る南殿は一間社春日造である。宝暦年間に造営された両殿に共有する割拝殿は入母屋造となっている。境内末社に磐山稲荷社、八幡神社、白蛇社がある。境内には、蛭子命が腰を掛けたと言われる大石が存在する。蛭子命が漂着されたと伝承される御旅所は石津川北岸の元海岸の地にある。鳥居の扁額は三条実美が参拝時に書いたとされている。
○祭事
毎年、12月14日には「泉州の奇祭」と言われる「ヤッサイホッサイ祭り」と呼ばれる火祭が行われる。これは、往古蛭子命が漂着した際、付近の住民が篝火を炊いて迎えたと言う古儀に因む。108束の薪を参道に積んで点火し、戎神に火葬した神人を担ぎ、火渡りを3度繰り返し社地を3周する際に「やっさいほっさい」と言う掛声をする。
○所在地
大阪府堺市西区浜寺石津町中4丁12-7
○例祭
10月5日に近い土曜日
○主な神事
十日戎、初午、八幡祭、やっさいほっさい
野々宮神社
野々宮神社は大阪府堺市中区にある神社。深井だんじり祭りで有名。
○祭神
素盞嗚命
火産霊命
菅原道真公
火産霊命に因む発火と鎮火の神として「火の宮」とも称され、菅原道真公からは文字の神ともされる。
○由緒
創建は不詳だが約400年前と言われる。和泉国大鳥郡深井荘野々宮香林寺の略縁起によると、天正年間に細川氏の兵火に遭い、春日社領であった奥山(現深井清水町)に転座し、再建されたとされる。明治4年(1871年)までは中村(現深井中町)の香林寺(行基建立49院の1院)と併存していたが、神仏分離で同寺と離れ、翌5年に郷社に列した。1万平方メートルの境内には、稲荷社、春日社、八幡社、厳島社があり、明治42年に畑山の愛宕神社、東山の厳島神社、百済(現北条)の東山神社、八幡神社、楢葉の八阪神社、高揚(現深井北町)の菅原神社、八田(現東八田)の菅原神社を合祀した。
○神事
例祭では深井だんじり祭りも併せて行われ、だんじりの宮入等で賑わう。宮入は深井地域のほか、隣接する久世(くぜ)地域も行う。また、祭神(火産霊命)に因んで毎年10月5日と、12月12日に火祭りの神事が行われる。
○末社
稲荷神社、春日神社、八幡神社、厳島神社の4末社があり、伊勢神宮の遙拝所も設置されている。
○境内
境内には堺市指定保存樹林「常陵郷(とこはか)の森」がある。神紋は桜であり、野々宮神社に宮入する各町の紋も、この桜の紋を基本にデザインされている。
○所在地
大阪府堺市中区深井清水町3889番地
●深井だんじり祭り
深井だんじり祭りは、大阪府堺市中区深井周辺で行われる野々宮神社の秋祭り。
○概要
深井地域には各自治会に全部で8台のだんじりがあり、泉北1号線(大阪府道34号堺狭山線)を境に2つの地区に分かれる。
東部連合:深井水池町、深井東町、深井沢町、深井畑山町
西部連合:深井清水町、深井中町、深井北町、深井中町西
深井連合には平成10年まで深井阪和町が参加していたが、同年の事故以来、深井阪和町はだんじりの曳行を休止し平成23年に解体廃絶となった。
毎年10月の第一土曜日と翌日曜日(平成24年度は10月6日・7日)に行われる。2日間の祭礼には、早朝午前6時頃から一斉に各町のだんじりを各々のだんじり小屋から曳き出し、準備を始める。初日は「宵宮(よいみや)」、2日目は「本宮(ほんみや)」と呼び、大阪府堺市中区深井清水町にある野々宮神社に宮入する。両日とも深井地域内を曳行(えいこう)し、夜間は午後7時頃から午後10時頃までだんじりに100~150個ほどの提灯が装飾された「灯入れ曳行(ひいれえいこう)」を行う。また、本宮の2週間前の日曜日(平成24年度は9月23日)には、祭礼に先立って「試験曳き」と呼ばれる、曳行コースの路面状況確認や、だんじりの走行状態確認・調整が行われる。東部連合、西部連合共に、自地区内でそれぞれ東部連合パレード、西部連合パレードを行う。泉北高速鉄道深井駅周辺での八町連合パレードも行われ、駅前の下り坂を一気に駆け下りた後の、右方向へのやりまわしは最大の見せ場(通称「りそな前」)であり、多くの観客を集める。祭礼時には、管轄署である、堺南警察に曳行許可を取って曳行され、周辺道路は通行禁止、または交通規制が敷かれる。
○安全曳行祈願
試験曳きや宵宮の日の早朝には、野々宮神社にて神前に榊と玉串を奉納し安全曳行祈願を行い、御神酒を授かる。曳行関係者全員が出席する。
○出発式
出発に際して行われる。町内会長を始め、曳行責任者などが挨拶をし、安全曳行祈願で授かった御神酒で乾杯する。
○やりまわし
だんじり祭り最大の特徴にして見せ場である「やりまわし」は大阪弁の「やって回す」が転訛したものと「槍を廻す」を言い換えたものとがあると言われる。京都の祇園祭の鉾では、車輪の下に、割った竹を敷いて滑らせる「辻まわし」を行う。祇園祭発展系の、飛騨高山祭の山車は、「戻し車」という進行方向に対して横向きに付けられた車輪を使い、変則の三輪となって角を曲がる。だんじり祭りでは、慎重に角を曲がるのではなく、走りながら直角に向きを変える。その迫力とスピードにおいては、だんじり祭りを上回るものは無いと言える。だんじりを前へ曳く青年団、旋回のきっかけをつくる前梃子(まえでこ・まえてこ)、舵取り役の後梃子(うしろでこ・うしろてこ)、後梃子に合図を送る大工方(だいくがた)、それぞれのタイミングを合わせるのが難しく腕の見せどころである。転倒や衝突の事故が最も多い場面であり、高度な技術を要する事から、速く正確に「やりまわし」を行うには、それぞれの持ち場を受け持つ各団体の息が合うことが重要となる。このため、多くの地域や地区においては、夜間の灯入れ曳行時には合図の視認性が低いことや、路面の状況を把握しにくい等の理由から「やりまわし」を行わない。しかし、深井地区のだんじり祭りでは、夜間の灯入れ曳行時にも、「やりまわし」が行われ、宵宮の夜八町連合パレードは非常に有名で多くの観客が訪れる。他の地域、地区にはみられない深井だんじり祭りのみの特徴である。
○セレモニー
パレードの開始前に各町の青年団によって行われるセレモニー。数百発の大型クラッカーを使うなどしてパレードの雰囲気を盛り上げる。
○仕舞太鼓
祭りを終え、だんじりを小屋へしまうときに行われる普段とは違った太鼓の打ち方。夜遅くではあるが、2日間の嵐のような祭りを終えた人たちの喜びと別れがある。
○祭神
素盞嗚命
火産霊命
菅原道真公
火産霊命に因む発火と鎮火の神として「火の宮」とも称され、菅原道真公からは文字の神ともされる。
○由緒
創建は不詳だが約400年前と言われる。和泉国大鳥郡深井荘野々宮香林寺の略縁起によると、天正年間に細川氏の兵火に遭い、春日社領であった奥山(現深井清水町)に転座し、再建されたとされる。明治4年(1871年)までは中村(現深井中町)の香林寺(行基建立49院の1院)と併存していたが、神仏分離で同寺と離れ、翌5年に郷社に列した。1万平方メートルの境内には、稲荷社、春日社、八幡社、厳島社があり、明治42年に畑山の愛宕神社、東山の厳島神社、百済(現北条)の東山神社、八幡神社、楢葉の八阪神社、高揚(現深井北町)の菅原神社、八田(現東八田)の菅原神社を合祀した。
○神事
例祭では深井だんじり祭りも併せて行われ、だんじりの宮入等で賑わう。宮入は深井地域のほか、隣接する久世(くぜ)地域も行う。また、祭神(火産霊命)に因んで毎年10月5日と、12月12日に火祭りの神事が行われる。
○末社
稲荷神社、春日神社、八幡神社、厳島神社の4末社があり、伊勢神宮の遙拝所も設置されている。
○境内
境内には堺市指定保存樹林「常陵郷(とこはか)の森」がある。神紋は桜であり、野々宮神社に宮入する各町の紋も、この桜の紋を基本にデザインされている。
○所在地
大阪府堺市中区深井清水町3889番地
●深井だんじり祭り
深井だんじり祭りは、大阪府堺市中区深井周辺で行われる野々宮神社の秋祭り。
○概要
深井地域には各自治会に全部で8台のだんじりがあり、泉北1号線(大阪府道34号堺狭山線)を境に2つの地区に分かれる。
東部連合:深井水池町、深井東町、深井沢町、深井畑山町
西部連合:深井清水町、深井中町、深井北町、深井中町西
深井連合には平成10年まで深井阪和町が参加していたが、同年の事故以来、深井阪和町はだんじりの曳行を休止し平成23年に解体廃絶となった。
毎年10月の第一土曜日と翌日曜日(平成24年度は10月6日・7日)に行われる。2日間の祭礼には、早朝午前6時頃から一斉に各町のだんじりを各々のだんじり小屋から曳き出し、準備を始める。初日は「宵宮(よいみや)」、2日目は「本宮(ほんみや)」と呼び、大阪府堺市中区深井清水町にある野々宮神社に宮入する。両日とも深井地域内を曳行(えいこう)し、夜間は午後7時頃から午後10時頃までだんじりに100~150個ほどの提灯が装飾された「灯入れ曳行(ひいれえいこう)」を行う。また、本宮の2週間前の日曜日(平成24年度は9月23日)には、祭礼に先立って「試験曳き」と呼ばれる、曳行コースの路面状況確認や、だんじりの走行状態確認・調整が行われる。東部連合、西部連合共に、自地区内でそれぞれ東部連合パレード、西部連合パレードを行う。泉北高速鉄道深井駅周辺での八町連合パレードも行われ、駅前の下り坂を一気に駆け下りた後の、右方向へのやりまわしは最大の見せ場(通称「りそな前」)であり、多くの観客を集める。祭礼時には、管轄署である、堺南警察に曳行許可を取って曳行され、周辺道路は通行禁止、または交通規制が敷かれる。
○安全曳行祈願
試験曳きや宵宮の日の早朝には、野々宮神社にて神前に榊と玉串を奉納し安全曳行祈願を行い、御神酒を授かる。曳行関係者全員が出席する。
○出発式
出発に際して行われる。町内会長を始め、曳行責任者などが挨拶をし、安全曳行祈願で授かった御神酒で乾杯する。
○やりまわし
だんじり祭り最大の特徴にして見せ場である「やりまわし」は大阪弁の「やって回す」が転訛したものと「槍を廻す」を言い換えたものとがあると言われる。京都の祇園祭の鉾では、車輪の下に、割った竹を敷いて滑らせる「辻まわし」を行う。祇園祭発展系の、飛騨高山祭の山車は、「戻し車」という進行方向に対して横向きに付けられた車輪を使い、変則の三輪となって角を曲がる。だんじり祭りでは、慎重に角を曲がるのではなく、走りながら直角に向きを変える。その迫力とスピードにおいては、だんじり祭りを上回るものは無いと言える。だんじりを前へ曳く青年団、旋回のきっかけをつくる前梃子(まえでこ・まえてこ)、舵取り役の後梃子(うしろでこ・うしろてこ)、後梃子に合図を送る大工方(だいくがた)、それぞれのタイミングを合わせるのが難しく腕の見せどころである。転倒や衝突の事故が最も多い場面であり、高度な技術を要する事から、速く正確に「やりまわし」を行うには、それぞれの持ち場を受け持つ各団体の息が合うことが重要となる。このため、多くの地域や地区においては、夜間の灯入れ曳行時には合図の視認性が低いことや、路面の状況を把握しにくい等の理由から「やりまわし」を行わない。しかし、深井地区のだんじり祭りでは、夜間の灯入れ曳行時にも、「やりまわし」が行われ、宵宮の夜八町連合パレードは非常に有名で多くの観客が訪れる。他の地域、地区にはみられない深井だんじり祭りのみの特徴である。
○セレモニー
パレードの開始前に各町の青年団によって行われるセレモニー。数百発の大型クラッカーを使うなどしてパレードの雰囲気を盛り上げる。
○仕舞太鼓
祭りを終え、だんじりを小屋へしまうときに行われる普段とは違った太鼓の打ち方。夜遅くではあるが、2日間の嵐のような祭りを終えた人たちの喜びと別れがある。
陶荒田神社
陶荒田神社は、大阪府堺市中区に所在する神社で、和泉国大鳥郡の式内社。須恵器(日本の陶器の祖)の発祥地に鎮座しており、別名、陶器大宮と呼ばれている。陶器のえびす様として有名で、1月の初戎祭には、技術・製造業・商売にかかわる業者達でにぎわう神社である。
○祭神
高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)、八重事代主命、菅原道真公
摂社
戎殿 「八重事代主命」
弁天社 「市杵嶋姫命」
山田神社 「活玉依姫命」 (太田田根子命)
太田神社 「太田々弥古命」 (太田田根子の母)
玉の緒神社 「天御中主命」
○由緒 [編集]崇神8年(紀元前90年)、崇神天皇により、陶邑の大田の森(現在地)に住む太田田根子が神主として選ばれた。彼の祖霊を祀る目的で創建された神社が、当神社である。創建年は崇神8年前後であろうとされている。
当時大規模な疫病がはやり、国土が荒廃した。ある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げた。天皇は、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主神を祀らせた。
名前の由来は、同じ陶邑の大田の森に住む「荒田直」(あれたのあたひ)にあやかってつけられた。 荒田直は祭神である高魂命の直系の子孫だったとされている。
○祭神
高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)、八重事代主命、菅原道真公
摂社
戎殿 「八重事代主命」
弁天社 「市杵嶋姫命」
山田神社 「活玉依姫命」 (太田田根子命)
太田神社 「太田々弥古命」 (太田田根子の母)
玉の緒神社 「天御中主命」
○由緒 [編集]崇神8年(紀元前90年)、崇神天皇により、陶邑の大田の森(現在地)に住む太田田根子が神主として選ばれた。彼の祖霊を祀る目的で創建された神社が、当神社である。創建年は崇神8年前後であろうとされている。
当時大規模な疫病がはやり、国土が荒廃した。ある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げた。天皇は、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主神を祀らせた。
名前の由来は、同じ陶邑の大田の森に住む「荒田直」(あれたのあたひ)にあやかってつけられた。 荒田直は祭神である高魂命の直系の子孫だったとされている。
長栄寺
長栄寺は本尊は聖徳太子自らが刻んだと伝えられる十一面観世音菩薩で、大阪府指定文化財。中世にはたびたび戦火に見舞われ、荒廃したが、江戸中期に慈雲尊者が再興した。大阪が生んだ真言宗の高僧・慈雲尊者は享保3年(1718)、中之島の高松藩蔵屋敷にて誕生し、田辺の名刹・法楽寺にて出家。その後、河内の野中寺で修行し、22歳で法楽寺住職となったが同門へ譲った後、1744年(延享元)、この長栄寺を再興して住職となり、41歳の春までここで修行し、正法律(真言率)の復興を唱え、その道場とした。慈雲尊者はまた『十善法語』『方服図儀』『梵学律梁』などを著わし、仏教史上稀有な偉人として「日本の小釈迦」とも呼ばれている。文政8年(1825)、本堂が全焼したが同年に再建。境内の奥には、慈雲尊者が修禅研学をしたという双龍庵禅那台が残る。
○所在地
〒577-0054大阪府東大阪市高井田元町1-11-1
TEL:06-6781-0797 .交通アクセス近鉄奈良線「永和駅」より徒歩約200m
○植物サクラ
ウメ
イチョウ
ツバキ
○所在地
〒577-0054大阪府東大阪市高井田元町1-11-1
TEL:06-6781-0797 .交通アクセス近鉄奈良線「永和駅」より徒歩約200m
○植物サクラ
ウメ
イチョウ
ツバキ
大龍寺
1686年(貞亨3年)、この地域では干ばつが続き食糧難にみまわれた。苦しむ民の姿を見かねた僧侶が雨乞いを行った結果、にわかに空が暗くなり大雨が降ったそうだ。そのとき天に大きな龍が現れたという伝説があり、その龍を祀るため、このお寺が築かれたと言われ、それがこのお寺の名の由来になっている。
所在地:〒579-8003大阪府東大阪市日下町8-3-57
植物:サクラ、ウメ、紅葉、イチョウ、ツバキ、スイセン
文化財:市町村指定重要文化財
お問合わせ:072-981-5817
所在地:〒579-8003大阪府東大阪市日下町8-3-57
植物:サクラ、ウメ、紅葉、イチョウ、ツバキ、スイセン
文化財:市町村指定重要文化財
お問合わせ:072-981-5817
大西丹後守の馬乗石
地蔵堂の前にある自然石の生駒石です。昔、この付近に剛力で知られた大西丹後守という豪族が住んでいました。その大西丹後守は背が低かったため、「この石に立ってから馬に乗っていた」ということで、この名がつけられたそうです。
所在地:大阪府東大阪市東石切町1-8-3
所在地:大阪府東大阪市東石切町1-8-3
千手寺
役行者によって開かれ、その後、空海(弘法大師)が千手観音を本尊として中興したと伝えられています。惟喬(これたか)親王の乱で出火消失し、本尊の千手観音が深野池に飛入。池の中で光を放っているのを在原業平が発見して、寺を再建したといわれ、業平の腰掛石や五輪塔、業平廟などが残っています。また、境内には、大正時代に「そろり」という落語家が芭蕉の句をもじってつくった「業平と背中合わせのぬくさかな」という歌碑もあります。寺にある湛海作の不動明王坐像は大阪府の指定文化財です。また、本堂の裏に古墳時代後期の横穴式石室が保存され(弁天塚古墳)、見学することができます。
所在地:大阪府東大阪市東石切町3丁目3-16
所在地:大阪府東大阪市東石切町3丁目3-16
若江鏡神社
若江鏡神社は総面積二千坪の境内を有し、創立年代は不詳であるが、文禄実録等の古書に854年(斎衡元年)「河内之国大雷火明之神従五位下」と記されていることから見て、相当な古社であるといえる。その昔、近郷一帯の農作物が殆ど枯死寸前に至ったとき、神前で大般若経(東大阪市重要文化財)を唱読し祈願したところ、14日目に神社裏の淵より清水が湧き出し危機を救ったと言われている。「智力」・「健康」・「安産」の御利益があるといわれ、遠くからの参拝客も多い。
所在地:〒578-0943大阪府東大阪市若江南町2丁目3-9
文化財:市町村指定重要文化財
その他情報:ご利益 :智力・健康・安産
敷地面積 :6600平方m
お問合わせ:06-6721-2340
所在地:〒578-0943大阪府東大阪市若江南町2丁目3-9
文化財:市町村指定重要文化財
その他情報:ご利益 :智力・健康・安産
敷地面積 :6600平方m
お問合わせ:06-6721-2340
慈光寺
大和(奈良)から、河内を経て難波(大阪)に至る古道の国境に位置する暗峠。江戸時代には俳聖・松尾芭蕉をはじめ、多くの旅人が行き交ったというこの峠から近い髪切の里に、真言宗の古刹・慈光寺がある。1300年前、髪切の里には鬼の夫婦が住み、食べ物がなくなると暗峠越えの街道で旅人を襲い、喰っていた。しかし、役行者が密教の法力を使って鬼を捕らえ、仏法を説いて改心させたところ、鬼は非を悔いて髪を切り、行者に従ったとか。その場にお堂を建立したのが慈光寺といわれている。境内は府の名勝に指定。春の「戸開式」(3月18日)と秋の「戸閉式」(9月18日)には、青鬼と赤鬼に扮装した二人と修験者が石段を駆け上って開山堂の鍵を開け、千手観音が開帳される。
所在地:〒579-8032大阪府東大阪市東豊浦町1823
TEL:0729-81-8211
交通アクセス:近鉄奈良線「額田駅」または「枚岡駅」より徒歩約40分
所在地:〒579-8032大阪府東大阪市東豊浦町1823
TEL:0729-81-8211
交通アクセス:近鉄奈良線「額田駅」または「枚岡駅」より徒歩約40分
鴻池水みらいセンター
普段あまり意識することのない下水道だが、このセンターではそんな下水道のことが、わかりやすく説明されている。たとえば「下水はどこに行ってしまうか?」 当たり前だが下水も、海に流れ雲になって雨になっている。大切なのは海に流れるまでの過程。実は、下水の汚れは微生物が食べてくれているそうだ。人間の排出した汚れを、生き物が処理してくれてたとは、おどろき。ここでは身近だが案外知っていない知識が多く学べ、実物の下水管にも触ることもできる。ここに来たなら、下水道のこと、ひいては環境問題について考えてみたい。※要事前予約外国語対応:通訳同伴必要
所在地:大阪府寝屋川市東大阪市北鴻池町1-18
営業期間営業 : 9:00~17:00
定休日 : 土日祝日、年末年始(12/29~1/3)
料金 : 無料
お問合わせ:06-6911-9595
所在地:大阪府寝屋川市東大阪市北鴻池町1-18
営業期間営業 : 9:00~17:00
定休日 : 土日祝日、年末年始(12/29~1/3)
料金 : 無料
お問合わせ:06-6911-9595
玄清寺
古代河内で勢力をもった額田首の子孫といわれる高内正定が織田信長に従い大坂石山本願寺との戦いに参加した後、その戦没者の霊を弔うために慶長2年(1597年)に建立しました。高内正定の法名、浄翁玄清居士から玄清寺と名づけられました。
所在地大阪府東大阪市東山町11-17
所在地大阪府東大阪市東山町11-17
興法寺
舒明天皇の頃(629~641)に役行者が開基。行基・空海も修行したと伝えられる古刹で、本尊の十一面千手観音像は行基の作という。門前の案内板には「木造の立像で、左右に仏面が掘出されているのが特色の藤原時代初期の像」とあり、大阪府の文化財に指定されている。南北朝時代、南朝方の城塞となり、貞和~観応年間(1345~52)には一山焼失、その後、再建されたものの応仁の乱で再び焼失した。永禄年間(1558~70)に修復され、大正5年(1916)にも諸堂宇の大修理が行われている。境内は春の枝垂れ桜、秋の紅葉が美しい。本堂近くの高さ約8メートルの桜は神武天皇が東征のおり、にわか雨を避けて雨宿りをしたという伝えられることから「時雨桜」とも呼ばれている。
所在地:〒579-8012大阪府東大阪市上石切町2-1533
TEL:0729-81-2004
交通アクセス:近鉄奈良線「石切駅」から徒歩で
営業期間営業 : 8:00~16:30
文化財:都道府県指定重要文化財
所在地:〒579-8012大阪府東大阪市上石切町2-1533
TEL:0729-81-2004
交通アクセス:近鉄奈良線「石切駅」から徒歩で
営業期間営業 : 8:00~16:30
文化財:都道府県指定重要文化財
なるかわ園地
生駒山系に位置し、府民の森のひとつとされる自然公園。暗峠と鳴川峠の間に広がる160ヘクタールの園内には、生駒山の自然学習ができる「森のレストハウス」、360度のパノラマビューが楽しめる展望高原「ぼくらの広場」、昔懐かしい野草の展示園「ふるさと植物園」、眺望を楽しめる休憩所等が点在する。 楽しみ方は十人十色人と自然のふれあいの場。
所在地:〒579-8062大阪府東大阪市上六万寺町1748-2
交通アクセス近鉄奈良線枚岡駅よりなるかわ公園方面へ徒歩1時間
営業期間営業 : 10時~16時
定休日 : 火
休業 : 定休日が祝日の場合は翌日休
料金
大人 : 入場料無料
その他 : 入園無料
所在地:〒579-8062大阪府東大阪市上六万寺町1748-2
交通アクセス近鉄奈良線枚岡駅よりなるかわ公園方面へ徒歩1時間
営業期間営業 : 10時~16時
定休日 : 火
休業 : 定休日が祝日の場合は翌日休
料金
大人 : 入場料無料
その他 : 入園無料
2012年12月29日土曜日
出雲大社大阪分祠
出雲大社大阪分祠とは、大阪府堺市にある南海高野線初芝駅の南西約800mの市街地に鎮座する神社である。 別名「初芝さん」 島根県の出雲大社からの分祠で、縁結び・悪因縁解除などの神様として有名である。
○由緒・歴史
1946年(昭和21年):創建、愛宕神社と命名。主祭神火之迦具土神
1948年(昭和23年):島根県の出雲大社より分祀、祭神大國主大神を拝領合祀して、出雲大社に改名。
1958年(昭和33年):出雲大社大阪分祠に昇格。
1962年(昭和37年):本殿完成。
○施設・その他
本殿・拝殿のほか、祖霊社、神楽殿を持ち、神楽殿には御神水が湧いており、万病に利益があるとされる。 その他、出雲大社大阪分祠は一般の神社と異なり、独立した宗教法人である。
夜間の参拝などは許されていない。
ご朱印帳への記帳は、大阪分祠では実施していない
○所在地
大阪府堺市東区日置荘西町7丁1-1
○例祭
4月15日:春季例大祭・渡御・稚児行列
10月15日:秋季例大祭・えんむすび市
○由緒・歴史
1946年(昭和21年):創建、愛宕神社と命名。主祭神火之迦具土神
1948年(昭和23年):島根県の出雲大社より分祀、祭神大國主大神を拝領合祀して、出雲大社に改名。
1958年(昭和33年):出雲大社大阪分祠に昇格。
1962年(昭和37年):本殿完成。
○施設・その他
本殿・拝殿のほか、祖霊社、神楽殿を持ち、神楽殿には御神水が湧いており、万病に利益があるとされる。 その他、出雲大社大阪分祠は一般の神社と異なり、独立した宗教法人である。
夜間の参拝などは許されていない。
ご朱印帳への記帳は、大阪分祠では実施していない
○所在地
大阪府堺市東区日置荘西町7丁1-1
○例祭
4月15日:春季例大祭・渡御・稚児行列
10月15日:秋季例大祭・えんむすび市
布施戎神社
1954年(昭和29年)、西宮神社から戎大神の御霊代を勧請申し上げ、布施戎神社の祭祀がはじまった。周辺地域が商業地として発展するに伴い、さらに1988年(昭和63年)には、大阪の今宮戎神社から事代主命(ことしろぬしのみこと)を勧請申し上げ、以来厳粛な祭祀を執行し、広大な御神徳を仰いでいる。
所在地:〒577-0841大阪府東大阪市足代1-16-5
TEL:06-6728-8234
交通アクセス:近鉄「布施駅」より南へ約500m
ご利益 :商売繁盛、家内安全
年間利用者数 :100000人
所在地:〒577-0841大阪府東大阪市足代1-16-5
TEL:06-6728-8234
交通アクセス:近鉄「布施駅」より南へ約500m
ご利益 :商売繁盛、家内安全
年間利用者数 :100000人
東大阪市立郷土博物館
生駒山麓には230基の古墳があるとされているが、その中の70基ほどが集まる山畑古墳群の中に位置するこの博物館は、「かわちのくに」とよばれていた東大阪界隈の人々の暮らしを、約2万年前から昭和にかけて時代順に紹介している。小展示室では、旧石器時代から弥生時代に使われていたとされる土器や石器など、大展示室では、古墳時代の埴輪や装飾品などが展示され、さらに特産品だった河内木綿に関する道具から、市民の協力で集められた生活の道具などまで、数万点にのぼる所蔵品の中から多彩な民俗資料が紹介されている。敷地内には、直径15mの円墳・山畑22号古墳の横穴式石室があり、見学できる。
所在地:〒579-8052大阪府東大阪市上四条町18-12
営業期間営業 : 9:30~16:30
定休日 : 月曜日(祝日のときは翌日)、祝日の翌日(土日祝は開館)、年末年始(12月29日~1月6日)、展示準備のため休館する場合あり
料金備考 : 一般50円、高大生30円、小中学生20円※特別展は別料金になる場合あり
植物:サクラ、ウメ、紅葉
その他駐車場(5台収容)
その他情報敷地面積 :3850平方m
年間利用者数 :8000人
収容人数 :120人
お問合わせ:072-984-6341
所在地:〒579-8052大阪府東大阪市上四条町18-12
営業期間営業 : 9:30~16:30
定休日 : 月曜日(祝日のときは翌日)、祝日の翌日(土日祝は開館)、年末年始(12月29日~1月6日)、展示準備のため休館する場合あり
料金備考 : 一般50円、高大生30円、小中学生20円※特別展は別料金になる場合あり
植物:サクラ、ウメ、紅葉
その他駐車場(5台収容)
その他情報敷地面積 :3850平方m
年間利用者数 :8000人
収容人数 :120人
お問合わせ:072-984-6341
瓢箪山稲荷神社
○概要
いわゆる日本三稲荷の一つであり、辻占総本社である。 祭神は若宇迦乃賣命(保食神)、ほか。創建は天正11年(1584年)。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。 現在の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。神社本殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、古墳時代後期・6世紀末ごろに作られた双円墳で、山畑古墳群の中で最大・最古のもの。 そのヒョウタンに似た形状から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった。江戸時代から近くの東高野街道において辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに宮司が「辻占」を創始し、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として日本全国に知られるようになった。
○境内社
戸川神社
本殿裏側の墳丘上にある境内社。祭神は保食大神。
三柱神社
拝殿北側にある。祭神は天照大神、月夜見命、素盞嗚尊
宮比神社
祭神は天宇受売命
菅原神社
祭神は菅原道真
水分神社
祭神は水分神
○祭事
2月1日・初午の日
7月17日、18日:夏季大祭
○所在地・アクセス
大阪府東大阪市瓢箪山町8-1
近鉄奈良線 瓢箪山駅から徒歩(南側の商店街アーケード南端の辻を東へ)約5分。
いわゆる日本三稲荷の一つであり、辻占総本社である。 祭神は若宇迦乃賣命(保食神)、ほか。創建は天正11年(1584年)。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。 現在の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。神社本殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、古墳時代後期・6世紀末ごろに作られた双円墳で、山畑古墳群の中で最大・最古のもの。 そのヒョウタンに似た形状から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった。江戸時代から近くの東高野街道において辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに宮司が「辻占」を創始し、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として日本全国に知られるようになった。
○境内社
戸川神社
本殿裏側の墳丘上にある境内社。祭神は保食大神。
三柱神社
拝殿北側にある。祭神は天照大神、月夜見命、素盞嗚尊
宮比神社
祭神は天宇受売命
菅原神社
祭神は菅原道真
水分神社
祭神は水分神
○祭事
2月1日・初午の日
7月17日、18日:夏季大祭
○所在地・アクセス
大阪府東大阪市瓢箪山町8-1
近鉄奈良線 瓢箪山駅から徒歩(南側の商店街アーケード南端の辻を東へ)約5分。
鴻池新田会所
鴻池新田会所は江戸時代、大阪の豪商として知られる三代目鴻池善右衛門宗利は、大和川の付け替え工事と新しい農耕地(新田)の整備を請け負い、各地に新田を開発した。中でも、宝永2年(1705)に開発された鴻池新田は約200haあり、最大のもの。宝永4年(1707)に建てられたこの鴻池新田会所は、新田の農民から小作料を徴収して幕府へ年貢を納入するほか、新田内の田畑、水路、橋などの維持補修、改帳(現在の住民票にあたるもの)の作成、老人への孝養米(現在の年金にあたるもの)の支給、さらには幕府や鴻池家からの連絡を農民たちへの伝達、もめごとの仲介などといった、いまでいう市役所、警察などの機能が与えられていた。生駒山を借景にした回遊式庭園や、本屋/米蔵(国の重要文化財)など当時の様子を思わせる家屋は、時代劇のロケに使われたこともあり、現在でもときおり特別展示や講演会などが催されている。
所在地:〒578-0974大阪府東大阪市鴻池元町2-30
営業期間営業 : 10:00~16:00
定休日 : 月曜日(祝日の場合、開館)、祝日の翌日(土日は開館)、年末年始(12/29~1/4)*展示準備・保全の為の臨時休館有。
料金備考 : 大人300円、小中生200円*20人以上の団体は50円引き/1人
植物:ショウブ
敷地面積 :10661.925平方m
延床面積 :1740.611平方m
年間利用者数 :12000人
収容人数 :410人
お問合わせ:06-6745-6409
所在地:〒578-0974大阪府東大阪市鴻池元町2-30
営業期間営業 : 10:00~16:00
定休日 : 月曜日(祝日の場合、開館)、祝日の翌日(土日は開館)、年末年始(12/29~1/4)*展示準備・保全の為の臨時休館有。
料金備考 : 大人300円、小中生200円*20人以上の団体は50円引き/1人
植物:ショウブ
敷地面積 :10661.925平方m
延床面積 :1740.611平方m
年間利用者数 :12000人
収容人数 :410人
お問合わせ:06-6745-6409
往生院
往生院は、大阪府東大阪市にある仏教寺院で、単立寺院。山号は岩瀧山。寺号は六萬寺。本尊は阿弥陀如来。
○歴史
寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基によって創建されたと伝えられる。もとは6世紀末頃に建てられ、その後荒廃した桜井寺の跡に建立された。天慶年間(938年~947年)に焼失して衰退したが、長暦年間(1037年~1040年)安助によって中興されたという。1348年(正平3年)には四條畷の戦いにおいて南朝方の武将・楠木正行の城塞(本陣)となり、戦いに巻き込まれて焼失、承応三年(1654年)に鷹司信房によって復興され、正成公・正行公の供養塔も建立された。しかし明治時代になって四條畷神社創立の影響を恐れた往生院が自ら二石の供養塔を隠蔽、古文献を処分し、往生院は破壊された。その後鷹司家が復興を試みるも進展せず、太平洋戦争終結後しばらくして立誡和尚により復興された。
日本書紀によれば、崇峻天皇3年(590)、百済に留学した善信尼ら一行が帰国後、桜井寺に入山。その後、天平17年(745)、行基が荒廃した桜井寺の跡へ六萬寺を再建し、薬師如来を本尊としたと伝えられる。往時は50を数える坊があったといわれるが、時代と共に盛衰を繰り返し、今から1000年余り前、安助上人が荒廃していた六萬寺を再建、往生院として開いたという。正平3年(1348)、四條縄手の戦いで、楠木正成の子の正行(まさつら)が往生院に本陣を構えたが、北朝方に敗北し、往生院も焼け落ちた。現在の伽藍の大半は明治以降に復興されたもので、楠木正行の墓や楠木正成の供養塔をはじめ、墓苑、鐘楼堂、歴史館、民具館などが建つ。
○文化財
大阪府指定有形文化財
木造阿弥陀如来坐像及両脇侍立像 附:阿弥陀如来像内納入文書
木造阿弥陀如来坐像
木造十一面観音立像
柊形小札鋲留眉庇付冑 附:三角板鋲留短甲残闕(ひいらぎがたこざねびょうどめ まびさしつきかぶと つけたり さんかくいたびょうどめ たんこうざんけつ)
所在地 大阪府東大阪市六万寺町1-22-36
○歴史
寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基によって創建されたと伝えられる。もとは6世紀末頃に建てられ、その後荒廃した桜井寺の跡に建立された。天慶年間(938年~947年)に焼失して衰退したが、長暦年間(1037年~1040年)安助によって中興されたという。1348年(正平3年)には四條畷の戦いにおいて南朝方の武将・楠木正行の城塞(本陣)となり、戦いに巻き込まれて焼失、承応三年(1654年)に鷹司信房によって復興され、正成公・正行公の供養塔も建立された。しかし明治時代になって四條畷神社創立の影響を恐れた往生院が自ら二石の供養塔を隠蔽、古文献を処分し、往生院は破壊された。その後鷹司家が復興を試みるも進展せず、太平洋戦争終結後しばらくして立誡和尚により復興された。
日本書紀によれば、崇峻天皇3年(590)、百済に留学した善信尼ら一行が帰国後、桜井寺に入山。その後、天平17年(745)、行基が荒廃した桜井寺の跡へ六萬寺を再建し、薬師如来を本尊としたと伝えられる。往時は50を数える坊があったといわれるが、時代と共に盛衰を繰り返し、今から1000年余り前、安助上人が荒廃していた六萬寺を再建、往生院として開いたという。正平3年(1348)、四條縄手の戦いで、楠木正成の子の正行(まさつら)が往生院に本陣を構えたが、北朝方に敗北し、往生院も焼け落ちた。現在の伽藍の大半は明治以降に復興されたもので、楠木正行の墓や楠木正成の供養塔をはじめ、墓苑、鐘楼堂、歴史館、民具館などが建つ。
○文化財
大阪府指定有形文化財
木造阿弥陀如来坐像及両脇侍立像 附:阿弥陀如来像内納入文書
木造阿弥陀如来坐像
木造十一面観音立像
柊形小札鋲留眉庇付冑 附:三角板鋲留短甲残闕(ひいらぎがたこざねびょうどめ まびさしつきかぶと つけたり さんかくいたびょうどめ たんこうざんけつ)
所在地 大阪府東大阪市六万寺町1-22-36
石切剣箭神社
石切劔箭神社は、大阪府東大阪市にある神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社。「石切劔箭命神社二座」。
○歴史・概要
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。 創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、 代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。 現在確認できる文献では、日本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。 宮山の地にあった祭祀の場は、いつの頃か現上之社の場所に遷され、さらに明治38年には現在の本社本殿に合祀された。 その後も、上之社のあった土地は、奥の院として信仰を集め、いよいよ再興の気運が高まり、昭和7年に解体保存されていた本社の旧本殿を上之社に移し、昭和47年に往古の姿を取り戻した。昭和50年には東京都文京区に分祀され「石切東京分祀」が鎮座している。
○祭神
饒速日尊(にぎはやひのみこと)
可美真手命(うましまでのみこと):饒速日尊の御子
「石切大明神」と総称される。
○摂末社
水神社
亀の池が有名。祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)と天水分神。
五社明神社
祭神は恵比須大神、大国主大神、住吉大神、稲荷大神、八幡大神。
神武社
祭神は神武天皇。
穂積神霊社
乾明神社
祭神は應壅乾幸護彦(おうよういぬいこうごのみこと)。應壅乾幸護大明神とされる。
穂積地蔵尊
神宮寺であった法通寺の地蔵尊を祀ったもの。
他に上之社神苑に「婦道神社」「八代龍王社」、上之社に隣接して「登美霊社」(祭神は饒速日尊の妃神である「三炊屋媛」)がある。
○所在地
東大阪市東石切町1-1-1(本社)
東大阪市上石切町2丁目(上之社)
○例祭
4月15日、4月16日(春季大祭)
8月3日、8月4日(夏季大祭)
10月21日、10月22日(秋季大祭)
参道
○歴史・概要
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。 創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、 代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。 現在確認できる文献では、日本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。 宮山の地にあった祭祀の場は、いつの頃か現上之社の場所に遷され、さらに明治38年には現在の本社本殿に合祀された。 その後も、上之社のあった土地は、奥の院として信仰を集め、いよいよ再興の気運が高まり、昭和7年に解体保存されていた本社の旧本殿を上之社に移し、昭和47年に往古の姿を取り戻した。昭和50年には東京都文京区に分祀され「石切東京分祀」が鎮座している。
○祭神
饒速日尊(にぎはやひのみこと)
可美真手命(うましまでのみこと):饒速日尊の御子
「石切大明神」と総称される。
○摂末社
水神社
亀の池が有名。祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)と天水分神。
五社明神社
祭神は恵比須大神、大国主大神、住吉大神、稲荷大神、八幡大神。
神武社
祭神は神武天皇。
穂積神霊社
乾明神社
祭神は應壅乾幸護彦(おうよういぬいこうごのみこと)。應壅乾幸護大明神とされる。
穂積地蔵尊
神宮寺であった法通寺の地蔵尊を祀ったもの。
他に上之社神苑に「婦道神社」「八代龍王社」、上之社に隣接して「登美霊社」(祭神は饒速日尊の妃神である「三炊屋媛」)がある。
○所在地
東大阪市東石切町1-1-1(本社)
東大阪市上石切町2丁目(上之社)
○例祭
4月15日、4月16日(春季大祭)
8月3日、8月4日(夏季大祭)
10月21日、10月22日(秋季大祭)
参道
枚岡神社
枚岡神社は、大阪府東大阪市にある神社。式内社(名神大社)、河内国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は別表神社。当社から春日大社への勧請が行われたので、元春日の別称がある。社紋は春日大社と同じく下がり藤。
○概要
枚岡梅林でも有名であり、一帯はかおり風景100選(枚岡神社の社叢)に選定されている。鳥居から、坂道を上り、さらに46段ほどの階段を登ると拝殿に着く。駅前の1853年(嘉永6年)に建てられた社名標には「元春日平岡大社」とあり「平岡」の表記や大社号もかつて使われていたことがわかる。一の鳥居は神社からは線路の向こう側となる枚岡駅の西側にある。駅から少し石段を登ったところにある木の鳥居は二の鳥居である。二の鳥居脇にある社名標は日露戦争戦勝を記念して1907年(明治40年)に建てられたもので、字は三条実美の書物から拾ったものである。
○祭神
第一殿 天児屋根大神
第二殿 比売大神 - 天児屋根大神の后神
第三殿 武甕槌大神
第四殿 斎主大神(経津主神)
天児屋根大神・比売大神が元々の祭神で、春日大社に当社から勧請されたので「元春日社」と称される。後に春日大社から武甕槌大神・斎主大神を勧請し、春日大社と同じ神(春日神)を祀ることとなった。
○歴史
社伝によれば、神武天皇紀元前3年(神武天皇即位の3年前)、神武天皇の侍臣で中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのに始まると伝えられる。神津岳の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれたという。中臣氏の支流の平岡連(ひらおかのむらじ)の氏神として信仰された。白雉2年(650年)、平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。神津岳山頂には現在も奥宮がある。神護景雲2年(768年)、奈良に春日大社を創建するにあたり、当社の祭神二柱を分祀したことから、元春日社と呼ばれることになる。宝亀9年(778年)には春日大社から武甕槌命と斎主命の二神の分霊を奉斎した。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、中世には河内国一宮と呼ばれるようになった。明治4年(1871年)、官幣大社に列せられた。
○主な祭事
1月15日 - 粥占神事(一部公開)
2月1日 - 例祭
8月第4日曜 - 枚岡灯明祭
10月14日-10月15日 - 秋郷祭:ふとん太鼓と呼ばれる太鼓台で知られる。14日が宵宮、15日が本宮。
12月25日 - 注連縄掛神事(別名:お笑い神事)
○所在地
大阪府東大阪市出雲井町7番16号
○交通アクセス
最寄駅:近鉄奈良線 枚岡駅 (駅の東側からすぐ)
○概要
枚岡梅林でも有名であり、一帯はかおり風景100選(枚岡神社の社叢)に選定されている。鳥居から、坂道を上り、さらに46段ほどの階段を登ると拝殿に着く。駅前の1853年(嘉永6年)に建てられた社名標には「元春日平岡大社」とあり「平岡」の表記や大社号もかつて使われていたことがわかる。一の鳥居は神社からは線路の向こう側となる枚岡駅の西側にある。駅から少し石段を登ったところにある木の鳥居は二の鳥居である。二の鳥居脇にある社名標は日露戦争戦勝を記念して1907年(明治40年)に建てられたもので、字は三条実美の書物から拾ったものである。
○祭神
第一殿 天児屋根大神
第二殿 比売大神 - 天児屋根大神の后神
第三殿 武甕槌大神
第四殿 斎主大神(経津主神)
天児屋根大神・比売大神が元々の祭神で、春日大社に当社から勧請されたので「元春日社」と称される。後に春日大社から武甕槌大神・斎主大神を勧請し、春日大社と同じ神(春日神)を祀ることとなった。
○歴史
社伝によれば、神武天皇紀元前3年(神武天皇即位の3年前)、神武天皇の侍臣で中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのに始まると伝えられる。神津岳の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれたという。中臣氏の支流の平岡連(ひらおかのむらじ)の氏神として信仰された。白雉2年(650年)、平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。神津岳山頂には現在も奥宮がある。神護景雲2年(768年)、奈良に春日大社を創建するにあたり、当社の祭神二柱を分祀したことから、元春日社と呼ばれることになる。宝亀9年(778年)には春日大社から武甕槌命と斎主命の二神の分霊を奉斎した。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、中世には河内国一宮と呼ばれるようになった。明治4年(1871年)、官幣大社に列せられた。
○主な祭事
1月15日 - 粥占神事(一部公開)
2月1日 - 例祭
8月第4日曜 - 枚岡灯明祭
10月14日-10月15日 - 秋郷祭:ふとん太鼓と呼ばれる太鼓台で知られる。14日が宵宮、15日が本宮。
12月25日 - 注連縄掛神事(別名:お笑い神事)
○所在地
大阪府東大阪市出雲井町7番16号
○交通アクセス
最寄駅:近鉄奈良線 枚岡駅 (駅の東側からすぐ)
若江城
若江城は南北朝時代(1382年)から安土桃山時代(1583年)の約200年間にわたって河内国若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)にあった平城。畠山氏の河内経営の拠点で、河内国の経営を担当した守護代遊佐氏が歴代城主となった。
○城名の由来
若江という名称の由来は河内国若江郡に由来する。若江郡の若江は神功皇后の4年6月に大旱魃があり、この地域の農作物が大被害を受ける可能性が高まった際に、大般若経を唱和し雨乞いの祈願をしたところ、14日目に雨乞いは叶わなかったもののこの地に清水が滾々と湧き出し農作物が大被害を受ける危機から救われた。このことから、大般若経の『若』と清水の源という意味の『江』をとり、若江郡と称せられたという。また、一説に、古代の新開池は河内湖というほど大きく、その入り江のひとつが『若江』という名であったともいう。
○築城
1382年(永徳2年・弘和2年)に河内国守護となった畠山基国の命で築城された。当初は守護所としての政治機能のみの城であったが、時は南北朝の戦乱の時代であり、河内国南部には南朝の勢力が及んでいた。また、基国が河内国守護となった理由が、南朝から北朝に帰順していた楠木正儀(楠木正成の三男)が1379年の康暦の政変により支援者の細川頼之が失脚したことから再び南朝に帰参したことからそれに備えるためであった。さらに、楠木正儀と失脚し四国の領地に戻った細川頼之が連絡をとって反幕府の軍事行動を掣肘するためでもあった。そのため、基国は実力派の重臣、遊佐長護を築城の責任者に任命し、守護所設置に続いて、防衛施設としての城郭を計画させた。畠山基国は遊佐長護ともに守護所を定める時点で河内国に下向し、防衛に適してなお、河内国の政治を統括し、周辺の経済活動の中心としての将来性、周辺事態に対しての軍事行動が容易であるなど観点から、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神とし、神社に射す朝日を遮らぬようにその西側に城の中心を定めた。遊佐長護は近隣の村落に檄をとばして農夫を集め、築城を開始した。若江の地は西方1.5キロメートルほどに大和川本流(旧大和川、現在の長瀬川)があり、東方1.5キロメートルほどに大和川支流玉串川があり、二つの大河を東西の天然の外堀として、玉串川が若江の北東で吉田川と菱江川に分かれ、そのうちの菱江川が分かれた後、西向きに流れを変え、新開池を経由して大和川本流と合流しており、この菱江川が北方の天然の外堀となっていた。また、大和川本流と支流である玉串川との中間には両大河ほどではないが、楠根川(現在は第二寝屋川に移設され、若干流れが異なっており、跡地は公園などになっている)があり、楠根川が内堀へ水を供給し、若江城内への水運の便を提供していて、それらの河川の整備と街道の整備が築城と並行して行われた。この時に整備された街道が後の、河内街道、十三街道(俊徳道)である。それらの街道は若江城の城下町で交差するように設計され、この街道の交差部を中心に若江城の城下町は計画された。全体計画は遊佐長護が担当し、城郭などの現場指揮は、長護の子息とされる遊佐国長が執った。河川の整備および治水対策などは畠山氏譜代の斎藤基則、斎藤利宗(次郎左衛門尉利宗か)、門真小三郎(国康か)、在地の河内国人の萱振氏(名称不詳)などが担当した。また、城下町の整備や街道の整備は畠山氏譜代の遊佐五郎(家国か)、稲生平左(平左衛門尉基宗か)、稲沢小四郎(貞行か)、吹田孫太郎(国道か)、三宅四郎(家村か)らなどが担当した。また、増援として遊佐基光、神保肥前守、誉田氏、槇嶋氏などが派遣されたが、時期や担当は不詳。1385年(至徳2年・元中2年)ごろには一応完成をみたが、その後も改修を加えた記録もあり、また、城下町の繁栄や水害などの理由で大きな改修が数度にわたって行われた。
○歴史
年 月日 事柄
1382年 畠山基国、若江城の築城開始。
1385年 一応の完成。
1398年 畠山基国、管領就任。
1406年 畠山基国、薨去。長男、畠山満家、将軍足利義満の嫌忌のため、次男、畠山満慶が家督継承。
1408年 将軍、足利義満、薨去。畠山満慶、当主の座を兄、満家に譲る。満家、弟に能登国を与え、河内国などの守護となる。
1410年 畠山満家、管領就任。
1412年 畠山満家、管領退任。
1421年 畠山満家、管領に再就任。
1429年 畠山満家、管領退任。
1433年 畠山満家、薨去。
1457年 河内土一揆、若江城付近にも騒擾が及ぶ。
1460年 2月 畿内に大地震。若江城に被害があったと伝う。
1460年 大雨で洪水が起こり、若江城にも洪水の被害があった。
1460年 10月 大和の筒井順永が若江城の畠山義就を攻め、義就、嶽山城に撤退。
1461年 2月 河内で馬借が蜂起し、若江城下で騒擾。
1462年 4月 畠山政長、細川成之とともに畠山義就を攻める為に出陣、若江城に立ち寄る。
1464年 正月 畠山政長、若江城で河内国人たちの年賀を受ける。
1465年 夏 大暴風雨があり、河川が氾濫。若江城も水害を受ける。
1467年 1月18日 畠山政長と畠山義就が上御霊社で戦い、応仁の乱が始まる。
1471年 7月 筒井順永が若江城を攻略。
1473年 12月19日 畠山政長、管領就任。
1475年 8月 台風が畿内を直撃。大和川などが氾濫。若江城に甚大な被害。
1475年 12月 蓮如が若江城下で布教。
1477年 10月9日 畠山政長の配下の遊佐長直が守る若江城が畠山義就の攻撃を受けて落城。畠山義就が入城。
1477年 12月25日 畠山政長が管領就任。
1483年 8月22日 河内十七箇所の戦いで畠山義就が畠山政長を水攻めにした。そのため、若江城近隣も水害がおよぶ。この戦いの結果、畠山義就が河内の支配権を確固たるものにした。
1485年 8月 河内に土一揆が起こり、若江城か近隣でも騒擾。
1486年 8月1日 畠山政長が管領就任。
1490年 12月12日 河内で畠山義就が薨去。若江城または高屋城で薨去か。
1492年 5月 河内で国一揆がおこり、若江城周辺の国人なども参加し、若江城の守備が強化された。
1493年 閏4月25日 明応の政変。畠山政長、河内国正覚寺で自害。
1497年 冬 畠山政長の遺児、畠山尚順が紀州から和泉を経て、河内国の高屋城を攻めて、畠山義就の子、畠山基家を駆逐し、勢いに乗って大和でも勝利し、若江城を奪還。
1499年 1月 畠山尚順、若江城より出陣し、河内十七箇所で畠山基家を撃破し、自害させる。
1499年 9月 畠山尚順、若江城より出陣し、摂津国に侵攻。
1499年 10月 河内で土一揆。畠山尚順方の守護代遊佐氏が鎮圧に失敗。
1499年 12月20日 畠山尚順、摂津天王寺に細川政元に敗れ、紀州に敗走。若江城孤立。
1500年 9月 畠山尚順、紀州より和泉国へ侵攻し、岸和田城を攻略し、和泉半国守護、細川元有を撃つ。続いて、河内誉田城に畠山基家の遺児、畠山義英を攻めるが、細川政元が派遣した赤沢朝経、薬師寺国経らの援軍に敗れ、紀伊へ撤退し、若江城の奪回に失敗。
1504年 畠山尚順と畠山義英和睦。高屋城に尚順、誉田城に義英が入城。若江城は史料に見えず。遊佐順盛が城主ともいわれる。
1506年 両畠山氏の高屋城、誉田城が細川政元の家臣、赤沢朝経の攻撃を受け落城。
1507年 12月 畠山尚順、畠山義英の和睦が破綻。河内国嶽山で合戦。
(この間の状況は不明)
1537年 若江城主であった若江兼俊に謀反ありとして六角義賢はこれを高野山へ追放し、その跡に堀江時秀を入れて守らせた。
1546年 若江城主の河内守護代、遊佐長教、若江城より出陣し、堺に三好義賢の軍を撃破。
1548年 若江城主の河内守護代、遊佐長教と高屋城主の河内守護、畠山政国の連合軍と、三好長慶が戦い、和睦。
1549年 若江城主で河内守護代の遊佐長教が出陣。三好長慶と連合して細川晴元派の三好政長を摂津江口に撃破し、細川晴元政権崩壊。
1551年 5月5日 若江城主、遊佐長教が暗殺される。
1560年 7月3日 畠山高政方の守る若江城が三好長慶方の猛攻で陥落。畠山方の救援軍も若江城の南方で撃破される。
1569年 1月4日 堺に三好三人衆の軍勢が上陸し、京へ向って進撃を開始したため、反三好三人衆の若江城主三好義継が若江城より出陣。
1569年 1月6日 若江城に若江城主の三好義継が討ち死にとの誤報があり、混乱する。
1570年 6月19日 摂津池田氏の内紛があり、池田勝正が追放され、若江城に入城する。
1571年 9月22日 若江城で松永久秀の家臣、竹内秀勝が死亡。
1573年 7月20日 15代将軍足利義昭が京を追放され、羽柴秀吉の警固を受けてながら三好義継の若江城に入城する。
1573年 11月5日 足利義昭が和泉堺に移るため、若江城を発つ。
1573年 11月10日 織田信長が佐久間信盛に若江城攻略を命じ、佐久間信盛軍が三好義継を若江城に攻める。
1573年 11月16日 若江三人衆の多羅尾右近、池田教正、野間長前らが謀反し、佐久間信盛らを導きいれ、若江城は落城。追い詰められた三好義継は自刃して果てた。その後、若江城は教正を筆頭として若江三人衆が支配した。
1574年 9月8日 河内門徒に攻略されていた、若江城を織田軍が攻撃し、陥落する。
1576年 5月6日 大坂での苦戦の報告を受けた織田信長が5日に京都を発ち、若江城に入城する。翌日、天王寺砦に入る。
1577年 2月16日 雑賀攻めのため織田信長が京都を発ち、この日、若江城に入城する。
1581年 閏3月5日 織田信長と本願寺が和睦し、織田方の前線であった若江城も厳戒態勢を解く。
1583年 破却。
○キリシタン
三好義継の死後、若江城主となった池田教正は熱心なキリシタンであり、シメアンという洗礼名を持つほどであった。池田教正は若江城下に司祭館が附属した教会を設置するなど若江城下にはキリシタンが多くいたことがフロイスの『日本史』に記されている。しかし、その後、若江などの河内のキリシタンの支援者であったサンチョの洗礼名をもつ三箇頼照が本能寺の変後に明智光秀に味方したことから没落し、池田教正も豊臣秀次が処断されると改易され没落した。また、若江城自体が豊臣秀吉の大坂城築城に伴い城が破却されるなどしたために衰退したことから、キリシタンも衰退した。
○水害
築城の項でも述べたが、大河に挟まれたデルタ地帯にある城であり、後に大和川が付け替えられたことでもわかるように水害が多く、その対策として川浚いや堤防の増築などが繰り返し行われた。しかし、発掘調査でもあるように、水害によって城下町が押し流されたこともあった。
○廃城
天正8年閏3月5日 に織田信長と顕如との和議が成立したため、織田方の前線拠点のひとつであった若江城は近隣の八尾城に統合されて、廃城となったとされるが、1583年(天正10年)に始まった大坂城の築城の際の記録に若江城を破却し、その石垣および一部の残存建築物を移したとあることから、この頃に廃城になったとも考えられている。
○構造
本丸などの主要部は東西が約130メートル、南北が約150メートルの20,000平方メートルほど。
○発掘調査
若江城跡は、1972年(昭和47年)から発掘調査が行なわれている。判明している部分では若江公民分館を中心としていたこと。周辺から二重の堀。土塁跡や櫓などの建物の遺構、井戸跡が発掘され、漆黒の瓦などが出土しており若江城の建物が瓦葺であったことも判明している。また、土器類・武器類などが多数出土している。
○所在
大阪府東大阪市若江南町2丁目9番2号ほか
○城名の由来
若江という名称の由来は河内国若江郡に由来する。若江郡の若江は神功皇后の4年6月に大旱魃があり、この地域の農作物が大被害を受ける可能性が高まった際に、大般若経を唱和し雨乞いの祈願をしたところ、14日目に雨乞いは叶わなかったもののこの地に清水が滾々と湧き出し農作物が大被害を受ける危機から救われた。このことから、大般若経の『若』と清水の源という意味の『江』をとり、若江郡と称せられたという。また、一説に、古代の新開池は河内湖というほど大きく、その入り江のひとつが『若江』という名であったともいう。
○築城
1382年(永徳2年・弘和2年)に河内国守護となった畠山基国の命で築城された。当初は守護所としての政治機能のみの城であったが、時は南北朝の戦乱の時代であり、河内国南部には南朝の勢力が及んでいた。また、基国が河内国守護となった理由が、南朝から北朝に帰順していた楠木正儀(楠木正成の三男)が1379年の康暦の政変により支援者の細川頼之が失脚したことから再び南朝に帰参したことからそれに備えるためであった。さらに、楠木正儀と失脚し四国の領地に戻った細川頼之が連絡をとって反幕府の軍事行動を掣肘するためでもあった。そのため、基国は実力派の重臣、遊佐長護を築城の責任者に任命し、守護所設置に続いて、防衛施設としての城郭を計画させた。畠山基国は遊佐長護ともに守護所を定める時点で河内国に下向し、防衛に適してなお、河内国の政治を統括し、周辺の経済活動の中心としての将来性、周辺事態に対しての軍事行動が容易であるなど観点から、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神とし、神社に射す朝日を遮らぬようにその西側に城の中心を定めた。遊佐長護は近隣の村落に檄をとばして農夫を集め、築城を開始した。若江の地は西方1.5キロメートルほどに大和川本流(旧大和川、現在の長瀬川)があり、東方1.5キロメートルほどに大和川支流玉串川があり、二つの大河を東西の天然の外堀として、玉串川が若江の北東で吉田川と菱江川に分かれ、そのうちの菱江川が分かれた後、西向きに流れを変え、新開池を経由して大和川本流と合流しており、この菱江川が北方の天然の外堀となっていた。また、大和川本流と支流である玉串川との中間には両大河ほどではないが、楠根川(現在は第二寝屋川に移設され、若干流れが異なっており、跡地は公園などになっている)があり、楠根川が内堀へ水を供給し、若江城内への水運の便を提供していて、それらの河川の整備と街道の整備が築城と並行して行われた。この時に整備された街道が後の、河内街道、十三街道(俊徳道)である。それらの街道は若江城の城下町で交差するように設計され、この街道の交差部を中心に若江城の城下町は計画された。全体計画は遊佐長護が担当し、城郭などの現場指揮は、長護の子息とされる遊佐国長が執った。河川の整備および治水対策などは畠山氏譜代の斎藤基則、斎藤利宗(次郎左衛門尉利宗か)、門真小三郎(国康か)、在地の河内国人の萱振氏(名称不詳)などが担当した。また、城下町の整備や街道の整備は畠山氏譜代の遊佐五郎(家国か)、稲生平左(平左衛門尉基宗か)、稲沢小四郎(貞行か)、吹田孫太郎(国道か)、三宅四郎(家村か)らなどが担当した。また、増援として遊佐基光、神保肥前守、誉田氏、槇嶋氏などが派遣されたが、時期や担当は不詳。1385年(至徳2年・元中2年)ごろには一応完成をみたが、その後も改修を加えた記録もあり、また、城下町の繁栄や水害などの理由で大きな改修が数度にわたって行われた。
○歴史
年 月日 事柄
1382年 畠山基国、若江城の築城開始。
1385年 一応の完成。
1398年 畠山基国、管領就任。
1406年 畠山基国、薨去。長男、畠山満家、将軍足利義満の嫌忌のため、次男、畠山満慶が家督継承。
1408年 将軍、足利義満、薨去。畠山満慶、当主の座を兄、満家に譲る。満家、弟に能登国を与え、河内国などの守護となる。
1410年 畠山満家、管領就任。
1412年 畠山満家、管領退任。
1421年 畠山満家、管領に再就任。
1429年 畠山満家、管領退任。
1433年 畠山満家、薨去。
1457年 河内土一揆、若江城付近にも騒擾が及ぶ。
1460年 2月 畿内に大地震。若江城に被害があったと伝う。
1460年 大雨で洪水が起こり、若江城にも洪水の被害があった。
1460年 10月 大和の筒井順永が若江城の畠山義就を攻め、義就、嶽山城に撤退。
1461年 2月 河内で馬借が蜂起し、若江城下で騒擾。
1462年 4月 畠山政長、細川成之とともに畠山義就を攻める為に出陣、若江城に立ち寄る。
1464年 正月 畠山政長、若江城で河内国人たちの年賀を受ける。
1465年 夏 大暴風雨があり、河川が氾濫。若江城も水害を受ける。
1467年 1月18日 畠山政長と畠山義就が上御霊社で戦い、応仁の乱が始まる。
1471年 7月 筒井順永が若江城を攻略。
1473年 12月19日 畠山政長、管領就任。
1475年 8月 台風が畿内を直撃。大和川などが氾濫。若江城に甚大な被害。
1475年 12月 蓮如が若江城下で布教。
1477年 10月9日 畠山政長の配下の遊佐長直が守る若江城が畠山義就の攻撃を受けて落城。畠山義就が入城。
1477年 12月25日 畠山政長が管領就任。
1483年 8月22日 河内十七箇所の戦いで畠山義就が畠山政長を水攻めにした。そのため、若江城近隣も水害がおよぶ。この戦いの結果、畠山義就が河内の支配権を確固たるものにした。
1485年 8月 河内に土一揆が起こり、若江城か近隣でも騒擾。
1486年 8月1日 畠山政長が管領就任。
1490年 12月12日 河内で畠山義就が薨去。若江城または高屋城で薨去か。
1492年 5月 河内で国一揆がおこり、若江城周辺の国人なども参加し、若江城の守備が強化された。
1493年 閏4月25日 明応の政変。畠山政長、河内国正覚寺で自害。
1497年 冬 畠山政長の遺児、畠山尚順が紀州から和泉を経て、河内国の高屋城を攻めて、畠山義就の子、畠山基家を駆逐し、勢いに乗って大和でも勝利し、若江城を奪還。
1499年 1月 畠山尚順、若江城より出陣し、河内十七箇所で畠山基家を撃破し、自害させる。
1499年 9月 畠山尚順、若江城より出陣し、摂津国に侵攻。
1499年 10月 河内で土一揆。畠山尚順方の守護代遊佐氏が鎮圧に失敗。
1499年 12月20日 畠山尚順、摂津天王寺に細川政元に敗れ、紀州に敗走。若江城孤立。
1500年 9月 畠山尚順、紀州より和泉国へ侵攻し、岸和田城を攻略し、和泉半国守護、細川元有を撃つ。続いて、河内誉田城に畠山基家の遺児、畠山義英を攻めるが、細川政元が派遣した赤沢朝経、薬師寺国経らの援軍に敗れ、紀伊へ撤退し、若江城の奪回に失敗。
1504年 畠山尚順と畠山義英和睦。高屋城に尚順、誉田城に義英が入城。若江城は史料に見えず。遊佐順盛が城主ともいわれる。
1506年 両畠山氏の高屋城、誉田城が細川政元の家臣、赤沢朝経の攻撃を受け落城。
1507年 12月 畠山尚順、畠山義英の和睦が破綻。河内国嶽山で合戦。
(この間の状況は不明)
1537年 若江城主であった若江兼俊に謀反ありとして六角義賢はこれを高野山へ追放し、その跡に堀江時秀を入れて守らせた。
1546年 若江城主の河内守護代、遊佐長教、若江城より出陣し、堺に三好義賢の軍を撃破。
1548年 若江城主の河内守護代、遊佐長教と高屋城主の河内守護、畠山政国の連合軍と、三好長慶が戦い、和睦。
1549年 若江城主で河内守護代の遊佐長教が出陣。三好長慶と連合して細川晴元派の三好政長を摂津江口に撃破し、細川晴元政権崩壊。
1551年 5月5日 若江城主、遊佐長教が暗殺される。
1560年 7月3日 畠山高政方の守る若江城が三好長慶方の猛攻で陥落。畠山方の救援軍も若江城の南方で撃破される。
1569年 1月4日 堺に三好三人衆の軍勢が上陸し、京へ向って進撃を開始したため、反三好三人衆の若江城主三好義継が若江城より出陣。
1569年 1月6日 若江城に若江城主の三好義継が討ち死にとの誤報があり、混乱する。
1570年 6月19日 摂津池田氏の内紛があり、池田勝正が追放され、若江城に入城する。
1571年 9月22日 若江城で松永久秀の家臣、竹内秀勝が死亡。
1573年 7月20日 15代将軍足利義昭が京を追放され、羽柴秀吉の警固を受けてながら三好義継の若江城に入城する。
1573年 11月5日 足利義昭が和泉堺に移るため、若江城を発つ。
1573年 11月10日 織田信長が佐久間信盛に若江城攻略を命じ、佐久間信盛軍が三好義継を若江城に攻める。
1573年 11月16日 若江三人衆の多羅尾右近、池田教正、野間長前らが謀反し、佐久間信盛らを導きいれ、若江城は落城。追い詰められた三好義継は自刃して果てた。その後、若江城は教正を筆頭として若江三人衆が支配した。
1574年 9月8日 河内門徒に攻略されていた、若江城を織田軍が攻撃し、陥落する。
1576年 5月6日 大坂での苦戦の報告を受けた織田信長が5日に京都を発ち、若江城に入城する。翌日、天王寺砦に入る。
1577年 2月16日 雑賀攻めのため織田信長が京都を発ち、この日、若江城に入城する。
1581年 閏3月5日 織田信長と本願寺が和睦し、織田方の前線であった若江城も厳戒態勢を解く。
1583年 破却。
○キリシタン
三好義継の死後、若江城主となった池田教正は熱心なキリシタンであり、シメアンという洗礼名を持つほどであった。池田教正は若江城下に司祭館が附属した教会を設置するなど若江城下にはキリシタンが多くいたことがフロイスの『日本史』に記されている。しかし、その後、若江などの河内のキリシタンの支援者であったサンチョの洗礼名をもつ三箇頼照が本能寺の変後に明智光秀に味方したことから没落し、池田教正も豊臣秀次が処断されると改易され没落した。また、若江城自体が豊臣秀吉の大坂城築城に伴い城が破却されるなどしたために衰退したことから、キリシタンも衰退した。
○水害
築城の項でも述べたが、大河に挟まれたデルタ地帯にある城であり、後に大和川が付け替えられたことでもわかるように水害が多く、その対策として川浚いや堤防の増築などが繰り返し行われた。しかし、発掘調査でもあるように、水害によって城下町が押し流されたこともあった。
○廃城
天正8年閏3月5日 に織田信長と顕如との和議が成立したため、織田方の前線拠点のひとつであった若江城は近隣の八尾城に統合されて、廃城となったとされるが、1583年(天正10年)に始まった大坂城の築城の際の記録に若江城を破却し、その石垣および一部の残存建築物を移したとあることから、この頃に廃城になったとも考えられている。
○構造
本丸などの主要部は東西が約130メートル、南北が約150メートルの20,000平方メートルほど。
○発掘調査
若江城跡は、1972年(昭和47年)から発掘調査が行なわれている。判明している部分では若江公民分館を中心としていたこと。周辺から二重の堀。土塁跡や櫓などの建物の遺構、井戸跡が発掘され、漆黒の瓦などが出土しており若江城の建物が瓦葺であったことも判明している。また、土器類・武器類などが多数出土している。
○所在
大阪府東大阪市若江南町2丁目9番2号ほか
弥刀神社
弥刀神社は、平安時代927年(延長5年)に出された「延喜式」の神名帳に、河内国若江郡22座の中に記載されていて、室町時代からは市場の神としても崇敬され繁栄してきた神社だ。江戸時代にはこの辺りの集落が発展するに伴い、土地の神として村人の崇敬を集め、長瀬川右岸堤防に続く広大な神社用地を有していた。延喜式内の古社であるここの神殿は、1874年(明治7年)に新たに造営された。境内には合祀された摂社・八坂神社、末社・常世神社もみられる。
所在地:〒577-0817大阪府東大阪市近江堂1丁目12-15
TEL:06-6722-0591
交通アクセス近鉄大阪線「長瀬駅」から徒歩で
所在地:〒577-0817大阪府東大阪市近江堂1丁目12-15
TEL:06-6722-0591
交通アクセス近鉄大阪線「長瀬駅」から徒歩で
美多彌神社
美多彌神社は、大阪府堺市南区にある神社である。式内社で、旧社格は村社。天兒屋根命・須佐之男命を主祭神とし、明治の神社合祀により菅原道真・天水分大神・大国主命・熊野大神を合せ祀る。
○歴史
南北朝時代以前の歴史は不詳であるが、延喜式神名帳に「美多彌神社」の名が記載されている。社名は民直(みたみのあたい)の祖神を祀ったことによるものである。南北朝時代、楠木正成の守護神とされた。戦国時代の天正5年(1577年)、織田信長の雑賀衆制圧の際に近くの放光寺とともに焼かれた。文禄元年(1592年)、楠木一族の和田道讃により再建された。江戸時代には「牛頭天王社」と称され、得泉寺を神宮寺とし、神官と社僧が社務を行っていた。明治の神仏分離の際に得泉寺を廃し、八坂神社に改称した。1907年、近隣の村社5社・無格社3社を合祀し、延喜式神名帳に記載される美多彌神社に改称した。
○施設
本殿は明治時代に新しく建てられたもので、拝殿などは1972年に改築されたものである。境内の鎮守の森は8,250m2あり、シリブカガシ(尻深樫)、アラカシ(粗樫)、サカキ(榊)、クス(樟)などの照葉樹が繁る。特にシリブカガシは樹林を形成するのは稀であり、樹林の東限に近いことから、1973年に大阪府の天然記念物に指定された。
○例祭
10月第1日曜日
○所在地
大阪府堺市南区鴨谷台一丁49番1号
○歴史
南北朝時代以前の歴史は不詳であるが、延喜式神名帳に「美多彌神社」の名が記載されている。社名は民直(みたみのあたい)の祖神を祀ったことによるものである。南北朝時代、楠木正成の守護神とされた。戦国時代の天正5年(1577年)、織田信長の雑賀衆制圧の際に近くの放光寺とともに焼かれた。文禄元年(1592年)、楠木一族の和田道讃により再建された。江戸時代には「牛頭天王社」と称され、得泉寺を神宮寺とし、神官と社僧が社務を行っていた。明治の神仏分離の際に得泉寺を廃し、八坂神社に改称した。1907年、近隣の村社5社・無格社3社を合祀し、延喜式神名帳に記載される美多彌神社に改称した。
○施設
本殿は明治時代に新しく建てられたもので、拝殿などは1972年に改築されたものである。境内の鎮守の森は8,250m2あり、シリブカガシ(尻深樫)、アラカシ(粗樫)、サカキ(榊)、クス(樟)などの照葉樹が繁る。特にシリブカガシは樹林を形成するのは稀であり、樹林の東限に近いことから、1973年に大阪府の天然記念物に指定された。
○例祭
10月第1日曜日
○所在地
大阪府堺市南区鴨谷台一丁49番1号
多治速比売神社
多治速比売神社は大阪府堺市南区宮山台2-3-1にある神社。延喜式神名帳に記載されている和泉国大鳥郡の式内社である。荒山公園に囲まれている。
○概要
6世紀頃に建てられたと言われ、厄除け・安産・縁結びの神、多治速比売命を祭る。近世では総福寺という神宮寺が併存していたが、明治維新後に神仏分離された。1916年(大正5年)9月18日郷社に列した。現在の本殿は室町時代になってから再建されたものである。1953年(昭和28年)に国の重要文化財に指定されている。
○交通
泉北高速鉄道 泉ヶ丘駅から南海バス「宮山台回り」か「堺東行き」または「(泉北2号線経由)津久野駅行き」に乗り、「宮山台2丁」下車。
○例祭
10月5日に近い日曜日
○所在地
堺市南区宮山台2-3-1
○概要
6世紀頃に建てられたと言われ、厄除け・安産・縁結びの神、多治速比売命を祭る。近世では総福寺という神宮寺が併存していたが、明治維新後に神仏分離された。1916年(大正5年)9月18日郷社に列した。現在の本殿は室町時代になってから再建されたものである。1953年(昭和28年)に国の重要文化財に指定されている。
○交通
泉北高速鉄道 泉ヶ丘駅から南海バス「宮山台回り」か「堺東行き」または「(泉北2号線経由)津久野駅行き」に乗り、「宮山台2丁」下車。
○例祭
10月5日に近い日曜日
○所在地
堺市南区宮山台2-3-1
桜井神社
桜井神社は、大阪府堺市南区片蔵にある神社。延喜式神名帳に記載されている和泉国大鳥郡の式内社であり、国宝に指定された割拝殿がある。上神谷八幡宮ともいう。
○歴史
伝承によると、創立は悠遠の時代で、この地方に住居していた桜井朝臣の一族がその祖先である武内宿禰命を奉斎したと伝わっている。推古天皇5年(597年)に八幡宮を合祀、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を奉斎している。天正5年(1588年)、織田信長の根来攻めのため拝殿以外を焼失するが、その後、再建される。 明治5年(1872年)郷社に列し、昭和17年(1942年)には府社に昇格。
○祭神
誉田別命
足仲彦命
息長帯比売命
○文化財
・国宝
(拝殿)
鎌倉時代の建築。切妻造、本瓦葺き。寺院建築風の簡素な意匠の拝殿である。柱間は桁行(正面)5間、梁間(側面)3間。桁行5間のうち中央の間を馬道(めどう、通路の意)とし、左右を部屋とする。このような形式の拝殿を割拝殿という。ただし、これは当初からの形式ではなく、建立当初は全面に床を張り、建物周囲には縁をめぐらせていたことが痕跡からわかる。正面は馬道部分を除いて桟唐戸を吊り、側面は二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)とする。内部は天井を張らず、梁、垂木などの構造材をそのまま見せた「化粧屋根裏」とする。神社の拝殿は建築年代の古いものが少なく、桜井神社拝殿は鎌倉時代にさかのぼる例として貴重である。大正6年(1917年)に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定され、昭和28年(1953年)に文化財保護法に基づく国宝に指定された。なお、背面の向拝部分は国宝指定外である。
○祭礼
10月第一日曜日の秋祭に「上神谷のこおどり」が奉納され、これは国の選択無形民俗文化財である。
○所在地・アクセス
大阪府堺市南区片蔵645
泉北高速鉄道 泉ヶ丘駅から南海バス乗車(23系統・「畑」方面)桜井神社前で下車すぐ、または(24系統・「鉢ケ峯」方面)片蔵で下車、徒歩約5分。
○歴史
伝承によると、創立は悠遠の時代で、この地方に住居していた桜井朝臣の一族がその祖先である武内宿禰命を奉斎したと伝わっている。推古天皇5年(597年)に八幡宮を合祀、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を奉斎している。天正5年(1588年)、織田信長の根来攻めのため拝殿以外を焼失するが、その後、再建される。 明治5年(1872年)郷社に列し、昭和17年(1942年)には府社に昇格。
○祭神
誉田別命
足仲彦命
息長帯比売命
○文化財
・国宝
(拝殿)
鎌倉時代の建築。切妻造、本瓦葺き。寺院建築風の簡素な意匠の拝殿である。柱間は桁行(正面)5間、梁間(側面)3間。桁行5間のうち中央の間を馬道(めどう、通路の意)とし、左右を部屋とする。このような形式の拝殿を割拝殿という。ただし、これは当初からの形式ではなく、建立当初は全面に床を張り、建物周囲には縁をめぐらせていたことが痕跡からわかる。正面は馬道部分を除いて桟唐戸を吊り、側面は二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)とする。内部は天井を張らず、梁、垂木などの構造材をそのまま見せた「化粧屋根裏」とする。神社の拝殿は建築年代の古いものが少なく、桜井神社拝殿は鎌倉時代にさかのぼる例として貴重である。大正6年(1917年)に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定され、昭和28年(1953年)に文化財保護法に基づく国宝に指定された。なお、背面の向拝部分は国宝指定外である。
○祭礼
10月第一日曜日の秋祭に「上神谷のこおどり」が奉納され、これは国の選択無形民俗文化財である。
○所在地・アクセス
大阪府堺市南区片蔵645
泉北高速鉄道 泉ヶ丘駅から南海バス乗車(23系統・「畑」方面)桜井神社前で下車すぐ、または(24系統・「鉢ケ峯」方面)片蔵で下車、徒歩約5分。
菅生神社
菅生神社は、大阪府堺市美原区(旧南河内郡美原町)にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。菅生天満宮ともいう。
○祭神
菅原道真と天児屋根命を主祭神とする。ほかに神社合祀により天照大神・素盞嗚尊・安閑天皇・誉田別命を併せ祀る。
○歴史
創建の由緒は不詳である。一帯は中臣氏の出身の者が多数住んでおり、地名から菅生氏を名乗るようになり、豪族として当地を支配していた。その菅生氏が祖神の天児屋根命を祀って氏神としたものとみられる。文献の初出は『新抄格勅符』の「孝謙天皇、天平宝字八年(759年)本国封一戸を充て奉る」という記述である。延喜式神名帳には「河内国丹比郡 菅生神社」と記載され、大社に列している。中世、天神信仰が広まると、当社の神宮寺・高松山天門寺の社僧が「菅公は境内の菅沢の畔で生まれた」という説を唱え、天神を勧請して配祀した。その菅沢は現在も境内に存在する。そのうちに「菅生天満宮」と呼ばれるようになり、江戸時代には天神の方が主祭神とされるようになった。明治5年(1872年)に郷社に列格した。
○例祭
4月5日・10月10日
○所在地
大阪府堺市美原区菅生178-1
○祭神
菅原道真と天児屋根命を主祭神とする。ほかに神社合祀により天照大神・素盞嗚尊・安閑天皇・誉田別命を併せ祀る。
○歴史
創建の由緒は不詳である。一帯は中臣氏の出身の者が多数住んでおり、地名から菅生氏を名乗るようになり、豪族として当地を支配していた。その菅生氏が祖神の天児屋根命を祀って氏神としたものとみられる。文献の初出は『新抄格勅符』の「孝謙天皇、天平宝字八年(759年)本国封一戸を充て奉る」という記述である。延喜式神名帳には「河内国丹比郡 菅生神社」と記載され、大社に列している。中世、天神信仰が広まると、当社の神宮寺・高松山天門寺の社僧が「菅公は境内の菅沢の畔で生まれた」という説を唱え、天神を勧請して配祀した。その菅沢は現在も境内に存在する。そのうちに「菅生天満宮」と呼ばれるようになり、江戸時代には天神の方が主祭神とされるようになった。明治5年(1872年)に郷社に列格した。
○例祭
4月5日・10月10日
○所在地
大阪府堺市美原区菅生178-1
川上神社
川上神社は大阪府河内長野市にある神社。当初は鳩原神社という名前で素盞嗚尊を祭神としていたが、明治時代に近隣の神社を合祀し川上神社に改称した。10月の秋祭りでは、「稚児相撲」という満1歳の子供の泣き相撲が行われる。また、境内の裏の石塚は長慶天皇の陵墓と言われている。
○所在地
大阪府河内長野市鳩原788
○所在地
大阪府河内長野市鳩原788
青賀原神社
青賀原神社とは、大阪府河内長野市にある神社。祭神は丹生大明神、高野大明神、久爾津神、稲荷大明神と伝えられている。この丹生大明神は、延暦3年(784年)、紀州かつらぎ(現在の和歌山県かつらぎ町)天野の里より奉還安置され、月読之尊と同一神と伝えられている。創建は(伝)治承4年(1180年)、本社殿は江戸時代初期と推定されている。
○所在地
大阪府河内長野市下里町933
○所在地
大阪府河内長野市下里町933
西代神社
西代神社とは大阪府河内長野市にある神社。祭神は元々は国常立尊。現在は、素盞嗚尊、足仲彦命(仲哀天皇)、息長足比売姫命(神功皇后)、品陀別命(応神天皇)、武内宿禰命、菅原道真公も祭神に加わっている。創建年は不詳であるが、南北朝時代に南側の諸将に崇敬されていた神社である。江戸時代には西代大名神といわれていたが、明治時代に名前を西代神社に改め、その後、近隣の神社を合祀して現在の祭神となった。
○所在地
大阪府河内長野市西代町16-5
○所在地
大阪府河内長野市西代町16-5
地蔵寺
地蔵寺とは大阪府河内長野市清水111にある真言宗御室派の寺院。別名・清水地蔵寺。山号は九華山。大阪府指定名勝、河泉二十四地蔵霊場 第一番。創建は不詳であるが、元禄4年(1691年)蓮体により再興される。
○所在地
大阪府河内長野市清水111
○所在地
大阪府河内長野市清水111
神服神社
神服神社は、大阪府高槻市宮之川原元町に鎮座する神社。現在は、”しんぷくじんじゃ”と呼ばれている。延喜式神名帳にある摂津国島上郡三座の一つで小社。
○祭神
樋之速日命・麻羅宿爾・素盞鳴尊
○歴史
神社の北西、塚脇にある古墳群の「服部連塚」と「御女塚」が服部連の夫婦墓とされ、この地の服部連が祖神を祀って服部神社と称していたが、延喜年間(901年~923年)に神服神社と改めた。 維新まで安岡寺の僧侶が社務をとっていた。、
明治5年(1872年)郷社に列す。
明治40年(1907年)11月に宮之原河原の春日神社・稲荷神社を境内に移す。
明治41年(1908年)、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀。。
○境内社
春日神社 天児屋根命
稲荷神社 宇賀御魂神
上宮神社 服部大連公
若宮神社 天児屋根命
神明神社 天照大神・豊受大神
○交通アクセス
JR京都線高槻駅高槻市営バス原大橋行き服部下車徒歩3分
○所在地
大阪府高槻市宮之川原元町2-25
○例祭
5月5日
○祭神
樋之速日命・麻羅宿爾・素盞鳴尊
○歴史
神社の北西、塚脇にある古墳群の「服部連塚」と「御女塚」が服部連の夫婦墓とされ、この地の服部連が祖神を祀って服部神社と称していたが、延喜年間(901年~923年)に神服神社と改めた。 維新まで安岡寺の僧侶が社務をとっていた。、
明治5年(1872年)郷社に列す。
明治40年(1907年)11月に宮之原河原の春日神社・稲荷神社を境内に移す。
明治41年(1908年)、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀。。
○境内社
春日神社 天児屋根命
稲荷神社 宇賀御魂神
上宮神社 服部大連公
若宮神社 天児屋根命
神明神社 天照大神・豊受大神
○交通アクセス
JR京都線高槻駅高槻市営バス原大橋行き服部下車徒歩3分
○所在地
大阪府高槻市宮之川原元町2-25
○例祭
5月5日
磐手杜神社
磐手杜神社は、大阪府高槻市にある神社である。
○歴史
この神社は、666年に創建されたと伝えられ、当初は安満神社と称されたが、その後春日神社と改められた。建久6年(1195年)には後鳥羽天皇が訪れたという記録が残っており、社殿は見事であったとされる。戦国時代には兵火にあって焼失、江戸時代に入った元和8年(1622年)に社殿が再建された。
○祭神
武甕槌命
天児屋根命
経津主命
姫大神
安閑天皇
○境内社
戎神社・弁天神社 蛭子大神・市杵島姫命
鶴尾八幡神社・千観神社 本多知気命(応神天皇の幼名・夜泣之大神)・大加幸豆美命
稲荷神社 白髭大明神・重盛大明神
大将軍社 八衢比古神・八衢比売神・久那度神
○文化財
神輿渡御神事 通称「馬祭」 高槻市指定無形民俗文化財(平成18年2月21日指定)
○その他
磐手の杜-鎮守の森の名称。歌枕として有名。
○所在地
大阪府高槻市安満磐手町5-6
○例祭
5月5日
○歴史
この神社は、666年に創建されたと伝えられ、当初は安満神社と称されたが、その後春日神社と改められた。建久6年(1195年)には後鳥羽天皇が訪れたという記録が残っており、社殿は見事であったとされる。戦国時代には兵火にあって焼失、江戸時代に入った元和8年(1622年)に社殿が再建された。
○祭神
武甕槌命
天児屋根命
経津主命
姫大神
安閑天皇
○境内社
戎神社・弁天神社 蛭子大神・市杵島姫命
鶴尾八幡神社・千観神社 本多知気命(応神天皇の幼名・夜泣之大神)・大加幸豆美命
稲荷神社 白髭大明神・重盛大明神
大将軍社 八衢比古神・八衢比売神・久那度神
○文化財
神輿渡御神事 通称「馬祭」 高槻市指定無形民俗文化財(平成18年2月21日指定)
○その他
磐手の杜-鎮守の森の名称。歌枕として有名。
○所在地
大阪府高槻市安満磐手町5-6
○例祭
5月5日
畑山神社
畑山神社は、大阪府高槻市梶原に鎮座する神社。
○祭神
天児屋根命
菅原道真
○歴史
元亀年中(1570年代)丹波守が金仙寺の鎮守三十番神を合祀し、新たに殿舎を造営して、二重宝塔を建て、精舎に改めて立源山永福寺と号した。 三十番神は郷士理元入道、社職高兵衛介が日蓮上人を迎えて開眼したという。 慶長年中の火災で焼失。村民協議して再建したのが現在の社殿で、多宝塔の棟札に宝永3年(1706年)7月13日大工喜右営門の名がある。明治元年(1868年)の神仏分離令により、明治5年(1872年)畑山神社に改める。
○境内
五輪塔 寛永13年10月7日妙法蓮華経龍源院宗雲霊 林丹波守供養塔。
多宝塔跡 多宝塔は昭和35年に埼玉県のユネスコ村に移築され、その後に多宝殿が造られた。
楠 高槻市保護樹木(平成2年6月11日指定)
○交通
JR京都線高槻駅高槻市営バス梶原バス停すぐ
○所在地
大阪府高槻市梶原1丁目5-12
○例祭
10月14日
○祭神
天児屋根命
菅原道真
○歴史
元亀年中(1570年代)丹波守が金仙寺の鎮守三十番神を合祀し、新たに殿舎を造営して、二重宝塔を建て、精舎に改めて立源山永福寺と号した。 三十番神は郷士理元入道、社職高兵衛介が日蓮上人を迎えて開眼したという。 慶長年中の火災で焼失。村民協議して再建したのが現在の社殿で、多宝塔の棟札に宝永3年(1706年)7月13日大工喜右営門の名がある。明治元年(1868年)の神仏分離令により、明治5年(1872年)畑山神社に改める。
○境内
五輪塔 寛永13年10月7日妙法蓮華経龍源院宗雲霊 林丹波守供養塔。
多宝塔跡 多宝塔は昭和35年に埼玉県のユネスコ村に移築され、その後に多宝殿が造られた。
楠 高槻市保護樹木(平成2年6月11日指定)
○交通
JR京都線高槻駅高槻市営バス梶原バス停すぐ
○所在地
大阪府高槻市梶原1丁目5-12
○例祭
10月14日
三輪神社
三輪神社は大阪府高槻市富田町に鎮座する神社。
○祭神
大己貴命
味祖高彦根命
田心姫命
○歴史
元普門寺の鎮守で、大和三諸山より勧請したと伝えられる。『摂津名所図会』に祠の棟札に寛永年中(1624年~1645年)龍渓禅師再興とある。 三宝院福寿院が別当として、天正以後維新まで社務を行っていた。
明治5年(1872年)村社に列す。
明治40年(1907年)1月、神饌幣帛料供進社に指定される。
明治41年(1908年)2月、天神山の天神社、西富田町の八幡神社を合祀す。
○境内社
春日神社
厳島神社
金比羅神社
八阪神社
稲荷神社
○文化財
社殿 附 棟札2枚・奉加帳序1巻
絵馬所
末社春日社 附 玉垣
高槻市指定文化財(平成17年6月14日指定)
○交通アクセス
阪急京都本線阪急富田駅から徒歩15分
○所在地
大阪府高槻市富田町4-14-14
○例祭
5月5日・10月10日
○祭神
大己貴命
味祖高彦根命
田心姫命
○歴史
元普門寺の鎮守で、大和三諸山より勧請したと伝えられる。『摂津名所図会』に祠の棟札に寛永年中(1624年~1645年)龍渓禅師再興とある。 三宝院福寿院が別当として、天正以後維新まで社務を行っていた。
明治5年(1872年)村社に列す。
明治40年(1907年)1月、神饌幣帛料供進社に指定される。
明治41年(1908年)2月、天神山の天神社、西富田町の八幡神社を合祀す。
○境内社
春日神社
厳島神社
金比羅神社
八阪神社
稲荷神社
○文化財
社殿 附 棟札2枚・奉加帳序1巻
絵馬所
末社春日社 附 玉垣
高槻市指定文化財(平成17年6月14日指定)
○交通アクセス
阪急京都本線阪急富田駅から徒歩15分
○所在地
大阪府高槻市富田町4-14-14
○例祭
5月5日・10月10日
八阪神社
八阪神社は、大阪府高槻市原にある神社。
○祭神
素戔嗚尊
○歴史
社記によれば、清和天皇の頃(9世紀後半)、疫病が流行したため、牛頭天王を迎えたのがはじまり。
明治5年(1872年)村社に列す。
大正3年(1914年)6月城山の勝手神社を合祀。
○境内社
琴平神社
多賀神社・春日神社
稲荷神社
○交通アクセス
JR京都線高槻駅高槻市営バス原大橋行き原立石下車徒歩10分
○文化財
石槽 大阪府有形文化財(昭和49年3月29日指定)
長さ1.6m、幅1.2mの平面楕円形の花崗岩製自然石に、楕円形の深さ48cmの槽穴を掘り込み、底に径10.5cmの水抜孔がある。
春祭歩射神事(通称・大蛇祭) 高槻市無形民俗文化財(平成18年2月21日指定)4月の第1日曜日。
「弓引きの神事」と「綱掛けの神事」とが習合したもの。
○所在地
大阪府高槻市原804
○主な神事
春祭:歩射神事
○祭神
素戔嗚尊
○歴史
社記によれば、清和天皇の頃(9世紀後半)、疫病が流行したため、牛頭天王を迎えたのがはじまり。
明治5年(1872年)村社に列す。
大正3年(1914年)6月城山の勝手神社を合祀。
○境内社
琴平神社
多賀神社・春日神社
稲荷神社
○交通アクセス
JR京都線高槻駅高槻市営バス原大橋行き原立石下車徒歩10分
○文化財
石槽 大阪府有形文化財(昭和49年3月29日指定)
長さ1.6m、幅1.2mの平面楕円形の花崗岩製自然石に、楕円形の深さ48cmの槽穴を掘り込み、底に径10.5cmの水抜孔がある。
春祭歩射神事(通称・大蛇祭) 高槻市無形民俗文化財(平成18年2月21日指定)4月の第1日曜日。
「弓引きの神事」と「綱掛けの神事」とが習合したもの。
○所在地
大阪府高槻市原804
○主な神事
春祭:歩射神事
一乗寺
一乗寺は大阪府高槻市にある日蓮宗の仏教寺院。山号は昌林山。本尊は題目宝塔、釈迦多宝二仏。
○歴史
詳しい創建年月は不詳だが、元々は千観が草創し、当初は金仙寺と称して真言宗に属する寺院であったが、その後は荒廃し、毘沙門天2体を残すだけの無住寺となっていた。応永34年(1427年)に宇野・西山氏という地元の住人が、京都の一条戻り橋のたもとで辻説法をしていた日親上人の話を聞き感激し、日親上人に請い建立されたと伝えられている。そのときに寺名も一乗寺と改称したという。寛永年間(1624~1643年)に堂宇を焼失したが、慶安3年(1650年)に徳川頼宣の生母・養珠院の寄進により、本堂・庫裏・開山堂などの諸堂が再建された。また、頼宣の息女松姫の病気平癒祈願に、1万石の寺領を寄進されるなど歴代紀州徳川家の崇敬が厚かったと伝えられている。現在の本堂は平成10年に再建されたもので、その他にも山門や開山堂等が再建されている。
○その他
境内にある開山堂の横には、「弁慶の駒つなぎ」と言われ、弁慶が馬をつないだという伝説のあるクスノキの大木がある。高さが29m、樹齢は約800年、市の保護樹木にも指定されている。
○所在地・交通アクセス
〒569-0091 大阪府高槻市梶原2-9-12
JR高槻駅南口または、阪急高槻市駅6番から、高槻市営バス「梶原東」行き、「梶原東」バス停下車、徒歩2分。
○歴史
詳しい創建年月は不詳だが、元々は千観が草創し、当初は金仙寺と称して真言宗に属する寺院であったが、その後は荒廃し、毘沙門天2体を残すだけの無住寺となっていた。応永34年(1427年)に宇野・西山氏という地元の住人が、京都の一条戻り橋のたもとで辻説法をしていた日親上人の話を聞き感激し、日親上人に請い建立されたと伝えられている。そのときに寺名も一乗寺と改称したという。寛永年間(1624~1643年)に堂宇を焼失したが、慶安3年(1650年)に徳川頼宣の生母・養珠院の寄進により、本堂・庫裏・開山堂などの諸堂が再建された。また、頼宣の息女松姫の病気平癒祈願に、1万石の寺領を寄進されるなど歴代紀州徳川家の崇敬が厚かったと伝えられている。現在の本堂は平成10年に再建されたもので、その他にも山門や開山堂等が再建されている。
○その他
境内にある開山堂の横には、「弁慶の駒つなぎ」と言われ、弁慶が馬をつないだという伝説のあるクスノキの大木がある。高さが29m、樹齢は約800年、市の保護樹木にも指定されている。
○所在地・交通アクセス
〒569-0091 大阪府高槻市梶原2-9-12
JR高槻駅南口または、阪急高槻市駅6番から、高槻市営バス「梶原東」行き、「梶原東」バス停下車、徒歩2分。
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