2012年10月15日月曜日

東海道

○律令時代
律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の物より広く、直線的に建設された。中世に大半が廃れたため、正確な道筋については議論されているが、以下の箇所を除いては近世の東海道とおおむね同様の径路と考えられている。平城京(奈良)から東に伊賀国府を経由して鈴鹿関に至る経路。近江朝時代と平安時代初期には近江国を通り現在の杣街道から伊賀国に入る経路がとられたが、886年(仁和2年)に現在のように鈴鹿峠を通り関へ至る経路に変更された。現在の浜松付近から静岡市付近に至る経路。旧東海道よりも海岸線に沿ったルートを通っていたとみられ、国道150号や東海道新幹線、東名高速道路に沿った経路を辿っていたと思われる。特に焼津市と静岡市の境は日本坂峠と呼ばれ、日本武尊の東征伝説や万葉集の歌にも詠まれている。沼津から御殿場を経由して足柄峠を越え、関本に至る足柄路。元々足柄路(矢倉沢往還)は「東海道」の本筋であった。800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって「箱根路」が拓かれた。しかし箱根路は急峻なため、足柄路が復興されると、中世までは主要な街道筋であった。相模国では、多摩川を渡る地点までは現在の国道246号に近い矢倉沢往還の経路にあたり、律令時代の東海道の道筋がそのまま現在でも用いられている箇所がある。相模国府以東。海を渡ってから房総半島を北上し、常陸国から菊多関を経由して陸奥国に入り、今の宮城県中部の名取郡で東山道に合する。武蔵国と下総国の境の中川低地付近は古代には陸化が進んでおらず低湿地で通行に適しなかったこと、元来武蔵国が北隣の上野国の豪族の影響下にありその関係が密接であった(武蔵国造の乱を参照のこと)ため、当初の東海道は相模国の三浦半島から海路で房総半島の上総国(安房国分立は718年)に渡るルートとなっており、武蔵国は東山道に属していた。現・千葉県にある安房国(房総半島先端)はともかくとして、上総国(房総半島中部)と下総国(房総半島根本部)の位置が「現代感覚から見て逆転している」のはこのためである。武蔵国はその後、各道に派遣された官人が諸国を巡察する際、上野国新田驛から武蔵国府(この間5驛)を経た後に下野国へと逆戻りする旅程(東山道武蔵路)より相模国から武蔵国を経て下総国府(この間4驛)へと周る旅程の方が便利であり公私に亘り都合良いとの判断から、太政官の奏上を天皇が許可することによって771年(宝亀2年)旧10月27日に東海道経路に組み入れられた(続日本紀)。当書の中で「東海道」と呼ばれており、呼称の由来については、同書に「東海道に属する諸国の往来の大道を海道と称す」とある。常陸国の北側に在った古代石背国と石城国は当初陸奥国に属しておらず、東海道に属していたため、当時の海道は常陸国府に達してからもさらに北上し、菊多関から石背国石城国に入り、石城・石瀬・菊多・岩崎等4郡に至る 陸奥海道(弘仁2年4月に廃止)があった。この道はさらに現・福島県浜通り地方を経て宮城県岩沼市あたりで東山道に合流したという。陸奥は東山道に属するので、陸奥の「海道」は「山道」に対する副線と捉える場合もある。それより北にも各地に東海道と呼ばれる道が断片的に存在し、それが古代の名残りだとすると、さらに北でも支線として存在した可能性が高い。史料に山道に対する海道として現れるものは、「海沿いの地域」の意味で用いられたと推定されるが、また多賀城の国府から海側の牡鹿郡・桃生郡へ向かう支路があったとの見方もある。また奥州との境に位置した下野国は、令制国時代一貫して東山道に属していたが、現・栃木県内には「海道」や「東海」を冠する地名等が多く残されている。律令制が定され毛野国が二分されて下野国が出来たばかりの頃は「山道」に属していたが、平安時代になると上野国や常陸国、上総国など関東地方の周縁部に在る国々は親王任国化された。
○鎌倉時代
鎌倉時代の東海道は、実質で鎌倉までであり、鎌倉から北の国へは鎌倉街道が整備された。
○江戸時代
徳川家康が、1590年(天正18年)に江戸に入城する。この頃の江戸と平塚の間は、中原街道が実質の東海道として機能しており、徳川家康もここを往来していた。
・道としての東海道が誕生
徳川家康は、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道と「宿」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。又、箱根と新居に関所を設けた。その後、1603年(慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備する。慶長9年2月に大久保長安その他に命じて街道の幅員を5間とし、路傍に榎樹を植え、1里=36町と決め、1里ごとに里?を設け、各駅の駄賃を定めた。寛永10年に伝馬、継飛脚の制が定められた。各宿駅に人夫100人、ウマ100匹を常備し(百人百匹の制)、幕府、大名などの往来に供した。寛永以後も行なわれたが、天明3年に品川駅吏からの建議を納れて、各宿駅に人馬七八遣の法と言って100人100匹の定員のなかから公用その他の臨時の準備として人夫30人、駄馬20匹を除き置き、70人、80匹を平時行人(武家その他)に供した。この人馬は御朱印伝馬のみで、彼らは各宿駅で徴発し得た。この他に、一般庶民が傭役し得る駄賃伝馬があり、各宿駅人夫250人と駄馬200匹を常備する定めであったが、実際には員数は規定どおりではなかった。ほかに飛脚の制もあった。幕府は各宿駅で、田租を免除し、飼馬の地を与え、継飛脚給米および問屋給米を支給し、宿手代に手当を与え、ときに金銭を貸与し、保護した。元禄年間に定助郷、加助郷の制を定め、宿駅の人馬を助けたが、負担は小さくなかった。酒匂、興津、安倍、大井の4河川は舟を置かずに、徒渉させた。脇街道には相模国の内陸部を通って直線的に結ぶ中原街道、見附宿より浜名湖の今切の渡しと新居関所を迂回し、気賀関所を通り、本坂峠を越し、吉田宿ないし御油宿へ抜ける道である姫街道、宮から桑名迄の七里の渡しを避けて結ぶ佐屋街道があった。京都から延長して大坂に至る大坂街道(京街道)(宿場4箇所)を加えて東海道五十七次とする説もある。江戸方面から大坂へ向かう場合は、大津宿から京都市街には入らずに追分駅付近から分岐する伏見街道を通り、大坂へ向かった。
・東海道を扱った作品
歌川広重作「東海道五十三次」(浮世絵)
十返舎一九作「東海道中膝栗毛」
○明治時代以後
明治政府は、地方制度としての令制国を廃止、五街道に代わる国道を制定した。東海道としての実質的機能と位置は現在の国道15号及び国道1号に受け継がれ、東日本と西日本(関東地方と近畿地方)を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では磯原、江戸時代以後は東京(江戸)ということになる。

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