台風17号が本州に直撃するらしい。それも来週の月曜日(早ければ日曜日くらい)から近畿にも影響が出るらしい。
2012年9月28日金曜日
五日市街道
五日市街道は、東京都の北多摩・西多摩地域を通る街道。現在の東京都道7号杉並あきる野線の本線とほぼ一致する。
○概要
徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。
○旧道
都道7号とほぼ一致するとはいえ、新道に変更された区間も一部に存在している。
○起点付近
現在は高円寺駅の南にある「五日市街道入口」交差点を起点とし青梅街道から分岐しているが、これは1999年(平成11年)に開通した新道で、それまでは100mほど西の交差点が起点であった。大法寺前で新旧道が合流する。
○七曲り [編集]杉並区成田東二丁目から高井戸東四丁目にかけての善福寺川付近を通る区間は、かつて「七曲り」と呼ばれた難所で、蛇行する旧道の真ん中を緩いカーブを描く現道が貫いている。細切れになった旧道は生活道路として残されている。
○千川上水・玉川上水
武蔵野市から小平市にかけての千川上水・玉川上水沿いは、水路の両岸に道がある。そのうちどちらが街道本線であったかは時代によって異なる。現道は小平十小北交差点で左に折れて玉川上水から離れるが、旧道は300mほど直進してからクランクを描いて合流する。
○概要
徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。
○旧道
都道7号とほぼ一致するとはいえ、新道に変更された区間も一部に存在している。
○起点付近
現在は高円寺駅の南にある「五日市街道入口」交差点を起点とし青梅街道から分岐しているが、これは1999年(平成11年)に開通した新道で、それまでは100mほど西の交差点が起点であった。大法寺前で新旧道が合流する。
○七曲り [編集]杉並区成田東二丁目から高井戸東四丁目にかけての善福寺川付近を通る区間は、かつて「七曲り」と呼ばれた難所で、蛇行する旧道の真ん中を緩いカーブを描く現道が貫いている。細切れになった旧道は生活道路として残されている。
○千川上水・玉川上水
武蔵野市から小平市にかけての千川上水・玉川上水沿いは、水路の両岸に道がある。そのうちどちらが街道本線であったかは時代によって異なる。現道は小平十小北交差点で左に折れて玉川上水から離れるが、旧道は300mほど直進してからクランクを描いて合流する。
岩城街道
岩城街道は、陸奥国南部の奥州街道沿いの地域(現在の中通り地方中部)と同国の磐城平を結ぶ街道である。磐城街道とも呼ばれる。また、陸前浜街道の水戸以北を同名で呼ぶことがある。
○概要
現在の福島県中通り地方中部と浜通り地方南部を結ぶ。阿武隈高地を東西に横断する。現在の交通路では磐越東線がほぼ近い経路をとって地域同士を結ぶほか、磐越自動車道、国道49号も経路が異なる箇所があるものの、中通り中部の中心都市、郡山市と浜通り南部の中心都市、いわき市を結んでいる。また、当街道は、奥州街道沿いの起点が複数あった。
○宿場
・郡山起点
郡山宿(福島県郡山市)
三春(福島県田村郡三春町)
・日和田起点
日和田宿(福島県郡山市)
三春(福島県田村郡三春町)
・須賀川起点
須賀川宿(福島県須賀川市)
守山宿(福島県郡山市)
赤沼宿(福島県郡山市)
三春(福島県田村郡三春町)
・本宮起点
本宮宿(福島県本宮市)
三春(福島県田村郡三春町)
○その他
本街道と陸前浜街道の交差する御厩宿付近(現在の福島県いわき市好間町)には、岩城氏の本拠地、大館城があった 。1885年、当街道の区間が当時の仮定県道二等路線に指定され、1920年には福島県道郡山小野新町線と同小野新町平線に指定された。これらは現在の国道49号の前身である。
○概要
現在の福島県中通り地方中部と浜通り地方南部を結ぶ。阿武隈高地を東西に横断する。現在の交通路では磐越東線がほぼ近い経路をとって地域同士を結ぶほか、磐越自動車道、国道49号も経路が異なる箇所があるものの、中通り中部の中心都市、郡山市と浜通り南部の中心都市、いわき市を結んでいる。また、当街道は、奥州街道沿いの起点が複数あった。
○宿場
・郡山起点
郡山宿(福島県郡山市)
三春(福島県田村郡三春町)
・日和田起点
日和田宿(福島県郡山市)
三春(福島県田村郡三春町)
・須賀川起点
須賀川宿(福島県須賀川市)
守山宿(福島県郡山市)
赤沼宿(福島県郡山市)
三春(福島県田村郡三春町)
・本宮起点
本宮宿(福島県本宮市)
三春(福島県田村郡三春町)
○その他
本街道と陸前浜街道の交差する御厩宿付近(現在の福島県いわき市好間町)には、岩城氏の本拠地、大館城があった 。1885年、当街道の区間が当時の仮定県道二等路線に指定され、1920年には福島県道郡山小野新町線と同小野新町平線に指定された。これらは現在の国道49号の前身である。
浦賀道
浦賀道は、浦賀へと到る東海道の脇往還(街道)である。保土ヶ谷宿と戸塚宿より延びる2本の道があり、三浦半島各地へ向かうための交通路として利用されていた。浦賀街道とも呼ばれる。
○歴史
771年(宝亀2年)に武蔵国を編入するまで東海道は三浦半島から対岸の上総国へ抜けており、鎌倉~馬掘付近の経路は後の浦賀道(鎌倉道)と重なる。鎌倉時代には鎌倉から三浦半島へ通じる唯一の道として重要視されていた。また保土ヶ谷からの道は鎌倉時代に開かれたとされる。江戸時代に入ると江戸湾口に位置する浦賀が発展し、街道の重要度も増していく。江戸湾に入る船舶の監視を行っていた下田奉行が享保5年(1720年)に浦賀へ移転すると、幹線道路として整備された。特に黒船来航など外国船がしばしば来訪した幕末は人馬の往来が盛んであった。明治に入ると横須賀が軍港として発展し、横須賀鎮守府などへのアクセスに利用されるようになる。横須賀市街から北の区間は1879年(明治12年)に県道、1887年には国道45号に指定された。この道は1920年(大正9年)に国道31号、1952年(昭和27年)には現在の国道16号となっている。また1897年には横須賀から浦賀へ到る乗合馬車、1913年には乗合バス路線が開通した。しかし海岸線が複雑な横須賀市内の区間では険しい山道となるなど不便であり、金沢と横須賀や浦賀を結ぶ海運も利用されていた。軍港が拡張されると横須賀が航路から外れるが、1889年に横須賀駅へ至る鉄道(現横須賀線)が開通し、主要な交通路となる。さらに1891年には地元の有力者により吉倉トンネル(現在の新逸見トンネル)が開通、大正期に入ると船越・浦郷・田浦と現在国道16号となっている道路トンネルの開通が相次ぎ、浦賀道はその役割を失っていった。現在も幹線道路となっている区間はほとんどない。ただ横須賀市はかつて道筋の一部に「横須賀古道散歩」と称する案内版を設置している。
○地理
保土ヶ谷宿から東京湾側の六浦湊、横須賀を経由する道と戸塚宿から相模湾側の鎌倉、葉山を経由する道があり、前者の六浦以北は金沢道、また後者は鎌倉道とも呼ばれた。
・保土ヶ谷より
保土ヶ谷宿からは東京湾側を南下する。金沢までは並行する京急本線や国道16号より内陸部を通過していた。なお、この付近の国道16号は現在横須賀街道と呼ばれている。六浦では鎌倉へ向けて朝比奈切通しを越え半島の付け根を横断する六浦道が接続した。六浦から横須賀へは海岸線近くまで山地が迫る急峻な地形で、十三峠などの険しい峠道や尾根筋を越えて民家が並ぶ谷戸の間を結んだ。現在では国道が何本ものトンネルを抜けて走り、かつての道は宅地造成などで消滅している箇所も見られる。現在の横須賀市中心街近くを過ぎると、県立大学駅付近から京急本線沿いに平地を進むようになる。このあたりは埋立てが行われる以前の海岸線近くであり、陣屋が設けられていた大津で戸塚・鎌倉方面からの道が合流する。馬堀から最後の難所となる矢の津坂を越えると浦賀へと到り、さらに三崎へと続く三浦往還が延びていた。
・戸塚より
戸塚からは東海道本線、横須賀線と並行する経路をとり、鎌倉へと南下する。鎌倉の雪下(鶴岡八幡宮付近)では六浦道や藤沢宿、江ノ島へ向かう道が接続し、名越切通しを抜けて葉山方面へと進む。葉山大道では引き続き相模湾側を南下し三崎へ向かう三崎道が分岐し、東へと進路を変える。その後は半島を横断し、衣笠駅付近を経由して大津で上記の経路に合流する。鎌倉前後の切通しや半島中央部の三浦丘陵を越える道のりとなるものの、横須賀以北の山道を避けてかこちらの道が一般的だったようである。浦賀奉行も江戸との往来に利用したとされる。
○宿場
宿場に相当する施設として人馬の継立てを行う継立場が設置されており、近隣の村は助郷に指定されていた。
・保土ヶ谷から
町屋村(横浜市金沢区)
横須賀村
・戸塚から
雪下村(鎌倉市)
小坪村(逗子市)
下平作村(横須賀市平作付近)
○歴史
771年(宝亀2年)に武蔵国を編入するまで東海道は三浦半島から対岸の上総国へ抜けており、鎌倉~馬掘付近の経路は後の浦賀道(鎌倉道)と重なる。鎌倉時代には鎌倉から三浦半島へ通じる唯一の道として重要視されていた。また保土ヶ谷からの道は鎌倉時代に開かれたとされる。江戸時代に入ると江戸湾口に位置する浦賀が発展し、街道の重要度も増していく。江戸湾に入る船舶の監視を行っていた下田奉行が享保5年(1720年)に浦賀へ移転すると、幹線道路として整備された。特に黒船来航など外国船がしばしば来訪した幕末は人馬の往来が盛んであった。明治に入ると横須賀が軍港として発展し、横須賀鎮守府などへのアクセスに利用されるようになる。横須賀市街から北の区間は1879年(明治12年)に県道、1887年には国道45号に指定された。この道は1920年(大正9年)に国道31号、1952年(昭和27年)には現在の国道16号となっている。また1897年には横須賀から浦賀へ到る乗合馬車、1913年には乗合バス路線が開通した。しかし海岸線が複雑な横須賀市内の区間では険しい山道となるなど不便であり、金沢と横須賀や浦賀を結ぶ海運も利用されていた。軍港が拡張されると横須賀が航路から外れるが、1889年に横須賀駅へ至る鉄道(現横須賀線)が開通し、主要な交通路となる。さらに1891年には地元の有力者により吉倉トンネル(現在の新逸見トンネル)が開通、大正期に入ると船越・浦郷・田浦と現在国道16号となっている道路トンネルの開通が相次ぎ、浦賀道はその役割を失っていった。現在も幹線道路となっている区間はほとんどない。ただ横須賀市はかつて道筋の一部に「横須賀古道散歩」と称する案内版を設置している。
○地理
保土ヶ谷宿から東京湾側の六浦湊、横須賀を経由する道と戸塚宿から相模湾側の鎌倉、葉山を経由する道があり、前者の六浦以北は金沢道、また後者は鎌倉道とも呼ばれた。
・保土ヶ谷より
保土ヶ谷宿からは東京湾側を南下する。金沢までは並行する京急本線や国道16号より内陸部を通過していた。なお、この付近の国道16号は現在横須賀街道と呼ばれている。六浦では鎌倉へ向けて朝比奈切通しを越え半島の付け根を横断する六浦道が接続した。六浦から横須賀へは海岸線近くまで山地が迫る急峻な地形で、十三峠などの険しい峠道や尾根筋を越えて民家が並ぶ谷戸の間を結んだ。現在では国道が何本ものトンネルを抜けて走り、かつての道は宅地造成などで消滅している箇所も見られる。現在の横須賀市中心街近くを過ぎると、県立大学駅付近から京急本線沿いに平地を進むようになる。このあたりは埋立てが行われる以前の海岸線近くであり、陣屋が設けられていた大津で戸塚・鎌倉方面からの道が合流する。馬堀から最後の難所となる矢の津坂を越えると浦賀へと到り、さらに三崎へと続く三浦往還が延びていた。
・戸塚より
戸塚からは東海道本線、横須賀線と並行する経路をとり、鎌倉へと南下する。鎌倉の雪下(鶴岡八幡宮付近)では六浦道や藤沢宿、江ノ島へ向かう道が接続し、名越切通しを抜けて葉山方面へと進む。葉山大道では引き続き相模湾側を南下し三崎へ向かう三崎道が分岐し、東へと進路を変える。その後は半島を横断し、衣笠駅付近を経由して大津で上記の経路に合流する。鎌倉前後の切通しや半島中央部の三浦丘陵を越える道のりとなるものの、横須賀以北の山道を避けてかこちらの道が一般的だったようである。浦賀奉行も江戸との往来に利用したとされる。
○宿場
宿場に相当する施設として人馬の継立てを行う継立場が設置されており、近隣の村は助郷に指定されていた。
・保土ヶ谷から
町屋村(横浜市金沢区)
横須賀村
・戸塚から
雪下村(鎌倉市)
小坪村(逗子市)
下平作村(横須賀市平作付近)
碓氷関所
碓氷関所は、上野国の中山道の松井田宿と坂本宿の間にあった関所である。江戸時代、箱根関所とともに最も重要な関所とされた。現在の群馬県安中市松井田町にある。その跡地は、群馬県指定文化財に指定されている。
○沿革
関所のおこりは、昌泰2年(899年)醍醐天皇の時代、盗賊を取り締まるために碓氷坂に設けられたのが初見である。江戸期における関所は、もともと中世に関長原(現・安中市松井田横川関長)に関所が置かれていた場所の近くに仮番所が作られた。より地形的に堅固な上横川に関所が作られ、宝永5年(1708年)7月に碓氷関所と称した。関所の警固は、元和2年(1616年)井伊直勝が任命されたのが始まりで、代々安中藩主が務めていた。番頭2名、平番3名、同心5名、中間4名、箱番4名、女改め1名が詰めていた。街道東西にそれぞれ門があり、東門を安中藩が、西門は幕府所轄であり「天下門」と呼ばれた。1869年(明治2年)の太政官布告により他の関所とともに廃止された。
○史跡指定
1955年(昭和30年)1月14日、群馬県指定文化財に指定された。1959年(昭和34年)1月、東京大学教授工学博士藤島亥治郎設計により柱や門など当時の部材を使って東門が復元された。ただし、当時の場所ではなく、番所の跡に復元された。当時の関所の建物は現存しない。域内に碓氷関史料館がある(見学要予約、平日のみ)。
おじぎ石-ここで旅人が役人におじきをして通行手形を差し出して通行の許可を受けたところ。
○所在地
群馬県安中市松井田町横川
JR信越本線横川駅徒歩5分。
碓氷峠鉄道文化むらのぶんかむら駅を出たトロッコ列車は、関所前に停車し、テープにより関所のアナウンスがある。
○催事
毎年5月第2日曜日、「安政の遠足」が行われる日に、同時に関所祭りが催される。
○沿革
関所のおこりは、昌泰2年(899年)醍醐天皇の時代、盗賊を取り締まるために碓氷坂に設けられたのが初見である。江戸期における関所は、もともと中世に関長原(現・安中市松井田横川関長)に関所が置かれていた場所の近くに仮番所が作られた。より地形的に堅固な上横川に関所が作られ、宝永5年(1708年)7月に碓氷関所と称した。関所の警固は、元和2年(1616年)井伊直勝が任命されたのが始まりで、代々安中藩主が務めていた。番頭2名、平番3名、同心5名、中間4名、箱番4名、女改め1名が詰めていた。街道東西にそれぞれ門があり、東門を安中藩が、西門は幕府所轄であり「天下門」と呼ばれた。1869年(明治2年)の太政官布告により他の関所とともに廃止された。
○史跡指定
1955年(昭和30年)1月14日、群馬県指定文化財に指定された。1959年(昭和34年)1月、東京大学教授工学博士藤島亥治郎設計により柱や門など当時の部材を使って東門が復元された。ただし、当時の場所ではなく、番所の跡に復元された。当時の関所の建物は現存しない。域内に碓氷関史料館がある(見学要予約、平日のみ)。
おじぎ石-ここで旅人が役人におじきをして通行手形を差し出して通行の許可を受けたところ。
○所在地
群馬県安中市松井田町横川
JR信越本線横川駅徒歩5分。
碓氷峠鉄道文化むらのぶんかむら駅を出たトロッコ列車は、関所前に停車し、テープにより関所のアナウンスがある。
○催事
毎年5月第2日曜日、「安政の遠足」が行われる日に、同時に関所祭りが催される。
羽州浜街道
羽州浜街道は、出羽国の沿岸部を南北に連絡する街道である。酒田宿より南では越後街道、北では酒田街道とも呼ばれる。北国街道鼠ヶ関から延長する形で北上し、羽州街道久保田宿に到る。現在の国道7号にほぼ相当する。参勤交代に利用した藩はなく、商人や出羽三山参詣者などが主な利用者だった。松尾芭蕉も「奥の細道」行脚時に利用している。
○宿場
鼠ヶ関宿(山形県鶴岡市鼠ヶ関)
温海宿(山形県鶴岡市温海)
大山宿(山形県鶴岡市大山)
浜中宿(山形県酒田市浜中)
酒田宿(山形県酒田市)
吹浦宿(山形県飽海郡遊佐町吹浦)
金浦宿(秋田県にかほ市金浦)
本荘宿(秋田県由利本荘市)
亀田宿(秋田県由利本荘市)
久保田宿(秋田県秋田市)
○峠
笠取峠-温海・大山間
矢引峠(矢引坂)-温海・大山間
三崎峠-吹浦・金浦間
○宿場
鼠ヶ関宿(山形県鶴岡市鼠ヶ関)
温海宿(山形県鶴岡市温海)
大山宿(山形県鶴岡市大山)
浜中宿(山形県酒田市浜中)
酒田宿(山形県酒田市)
吹浦宿(山形県飽海郡遊佐町吹浦)
金浦宿(秋田県にかほ市金浦)
本荘宿(秋田県由利本荘市)
亀田宿(秋田県由利本荘市)
久保田宿(秋田県秋田市)
○峠
笠取峠-温海・大山間
矢引峠(矢引坂)-温海・大山間
三崎峠-吹浦・金浦間
羽州街道
羽州街道は江戸時代に整備された脇往還の1つである。
○概要
奥州街道の延長である仙台道から陸奥国の桑折宿(福島県伊達郡桑折町)で分かれ、小坂峠を越えて仙台藩南西部の山中に入り、奥羽山脈の金山峠を越えて出羽国(山形県・秋田県)に入る。ここから出羽国(羽州)を縦断し、矢立峠を越えて再び陸奥国に入って、油川宿(青森県青森市)で仙台道の延長である松前道に合流する街道である。現在の国道113号・国道13号・国道7号などに相当する。途中、六郷宿から綴子宿にかけて、久保田を経由する下街道と角館・阿仁を経由する上街道(角館街道、大覚野街道)に分岐しており、下街道がより重要とされていた。参勤交代の際に利用した藩は13藩(上山藩、山形藩、天童藩、長瀞藩、新庄藩、庄内藩、出羽松山藩、矢島藩、本荘藩、亀田藩、久保田藩、黒石藩、弘前藩)。他の多くの街道と同様、江戸時代には統一された名称は無く、地域や進行方向によって「小坂通り」「最上道」「秋田道」「下筋街道」「碇ヶ関街道」など様々な呼び方をされていた。 また、久保田藩主の佐竹氏が特に整備に注力した事から、「佐竹道」と称された地域もあった。
○宿場
本宿58駅(62駅という説もある)。宿場の名が地名に残っている場合、市町村名以下も記載する。
・福島県内
桑折宿(伊達郡桑折町)-仙台道追分
小坂宿(伊達郡国見町小坂)
・宮城県内
仙台藩(現・宮城県)内の羽州街道は奥羽山脈の谷筋や高原地帯を通り、かつ、沿道に7つの宿場町があったため、同藩内では「山中通小坂越」「山中七ヶ宿街道」「七ヶ宿街道」と呼ばれた。沿道にある現・七ヶ宿町は同街道名に由来する。福島藩から小坂峠を越えて仙台藩に入ると最初にある宿場町・上戸沢宿の辺りは仙台平と呼ばれ、現在は白石市小原字仙台平として地名が残る。「七ヶ宿街道」の現在の道筋は、下戸沢宿までが宮城県道・福島県道46号白石国見線にあたり、その先で国道113号となり、湯原宿を過ぎると七ヶ宿町追分で山形県道・宮城県道13号上山七ヶ宿線となって、金山峠を越えて上山藩に入る。なお、七ヶ宿町追分で国道113号をそのまま行って二井宿峠を越えると米沢藩に入る。
上戸沢宿(白石市小原上戸沢)-仙台平にある
下戸沢宿(白石市小原下戸沢)
渡瀬宿(刈田郡七ヶ宿町)-七ヶ宿ダム建設により水没
関宿(刈田郡七ヶ宿町関)
滑津宿(刈田郡七ヶ宿町滑津)
峠田宿(刈田郡七ヶ宿町峠田)
湯原宿(刈田郡七ヶ宿町湯原)
〈間宿〉干蒲宿(刈田郡七ヶ宿町干蒲)
・山形県内
〈間宿〉金山宿(上山市金山)
楢下宿(上山市楢下)
上山宿(上山市)
〈間宿〉黒沢宿(山形市黒沢)
松原宿(山形市松原)
山形宿(山形市)
天童宿(天童市)-土生田宿までを村山六ヶ宿と称する
〈間宿〉六田宿(東根市六田)
〈間宿〉宮崎宿(東根市宮崎)
楯岡宿(村山市楯岡)
〈間宿〉本飯田宿(村山市本飯田)-土生田宿との合宿(21日から月末まで担当)
〈間宿〉土生田宿(村山市土生田)-本飯田宿との合宿(月初から20日まで担当)
尾花沢宿(尾花沢市)
名木沢宿(尾花沢市名木沢)
舟形宿(最上郡舟形町)
新庄宿(新庄市)
金山宿(最上郡金山町)
〈間宿〉中田宿(最上郡金山町中田下中田)
及位宿(最上郡真室川町及位旧及位)
秋田県内 [編集]下院内宿(湯沢市下院内)
横堀宿(湯沢市横堀)
湯沢宿(湯沢市)
岩崎宿(湯沢市岩崎)-沼館街道追分
横手宿(横手市)
金沢宿(横手市金沢本町、一部仙北郡美郷町金沢)
六郷宿(仙北郡美郷町六郷)-上街道分岐
大曲宿(大仙市大曲)-花館宿との合宿(半月交替)、沼館街道追分
花館宿(大仙市花館)-大曲宿との合宿(半月交替)
神宮寺宿(大仙市神宮寺)-北楢岡宿との合宿(上半月担当)
北楢岡宿(大仙市北楢岡)-神宮寺宿との合宿(下半月担当)
刈和野宿(大仙市刈和野)
上淀川宿(大仙市協和上淀川)
境宿(大仙市協和境)
和田宿(秋田市河辺和田)-豊島宿との合宿(半月交替)
豊島宿(秋田市河辺戸島)-和田宿との合宿(半月交替)
久保田宿(秋田市)
土崎湊宿(秋田市土崎港)
大久保宿(潟上市昭和大久保)-下虻川宿との合宿(半月交替)
下虻川宿(潟上市飯田川下虻川)-大久保宿との合宿(半月交替)
大川宿(南秋田郡五城目町大川大川)-一日市宿との合宿(半月交替)
一日市宿(南秋田郡八郎潟町一日市)-大川宿との合宿(半月交替)
鹿渡宿(山本郡三種町鹿渡)
森岡宿(山本郡三種町森岳)-豊岡宿との合宿(半月交替)
豊岡宿(山本郡三種町豊岡金田)-森岡宿との合宿(半月交替)
檜山宿(能代市檜山)
鶴形宿(能代市鶴形)
飛根宿(能代市二ツ井町飛根)
荷上場宿(能代市二ツ井町荷上場)
小繋宿(能代市二ツ井町小繋)
今泉宿(北秋田市今泉)
前山宿(北秋田市前山)
坊沢宿(北秋田市坊沢)
綴子宿(北秋田市綴子)-上街道合流
川口宿(大館市川口)
大館宿(大館市)
釈迦内宿(大館市釈迦内)
白沢宿(大館市白沢)
・青森県内
碇ヶ関宿(平川市碇ヶ関)
大鰐宿(南津軽郡大鰐町)
弘前宿(弘前市)
藤崎宿(南津軽郡藤崎町)
浪岡宿(青森市浪岡)
新城宿(青森市新城)
油川宿(青森市油川) - 松前道合流
○関所
戸沢関
及位関
院内関
碇ヶ関
○一里塚
名称 所在地 植えられていた樹 現存 備考
滑津 宮城県 刈田郡七ヶ宿町 樟
金山 山形県上山市
楢下 山形県上山市 槐 再現
皆沢 山形県上山市
長清水 山形県上山市
漆山 山形県山形市
天童 山形県天童市
猿羽根山 山形県最上郡舟形町 片側 舟形町史跡
紫山 山形県最上郡舟形町 片側 舟形町史跡
鳥越 山形県新庄市 ? 片側 新庄市史跡
主寝坂 山形県最上郡真室川町 栗、漆
沓懸 秋田県湯沢市
上院内 秋田県湯沢市
吹張 秋田県湯沢市 槻 片側 秋田県史跡
杉沢 秋田県湯沢市
古内 秋田県横手市
大橋 秋田県横手市 梨
美砂古 秋田県横手市 栗
横手 秋田県横手市
杉目杉沢 秋田県横手市 欅
金沢 秋田県横手市 桜、漆
野荒町 秋田県仙北郡美郷町
六郷 秋田県仙北郡美郷町 欅、?莢 片側 美郷町史跡
角間川追分 秋田県大仙市
大曲 秋田県大仙市 ?莢
花館 秋田県大仙市
小豆沢 秋田県大仙市
三本杉 秋田県大仙市 ?莢 両側 秋田県史跡
刈和野 秋田県大仙市
善知鳥坂 秋田県大仙市
淀川 秋田県大仙市
船岡 秋田県大仙市
船沢 秋田県大仙市
神内 秋田県秋田市
二ノ渡(中の渡)秋田県秋田市
牛島 秋田県秋田市
八橋 秋田県秋田市 榎
土崎 秋田県秋田市
追分 秋田県秋田市
大清水 秋田県秋田市
大久保 秋田県潟上市
岡飯塚 秋田県潟上市
夜叉袋 秋田県南秋田郡八郎潟町
天瀬川 秋田県山本郡三種町 榎 標石 江戸から152里
山谷 秋田県山本郡三種町 松 標柱
赤坂新屋敷 秋田県山本郡三種町 標石
林崎 秋田県山本郡三種町
金光寺 秋田県山本郡三種町 標柱
大森柏原 秋田県能代市
檜山 秋田県能代市 標柱 松は近年の植樹
鴨巣 秋田県能代市 黒松、黒松 両側 秋田県史跡
芹沢(造り坂) 秋田県能代市 松
飛根(駒形) 秋田県能代市
切石 秋田県能代市 千手
荷上場(諏訪森) 秋田県能代市
小繋(六文坂) 秋田県能代市
坊沢 秋田県北秋田市 標柱
綴子(大堤)秋田県北秋田市 杉 片側 秋田県史跡
長坂 秋田県大館市 松 片側
岩瀬 秋田県大館市
立花(うわばみ沢) 秋田県大館市
片山 秋田県大館市
釈迦内(立子石) 秋田県大館市
冷水 秋田県大館市
松原向? 秋田県大館市
たもぎ沢 秋田県大館市
馬殺坂 秋田県大館市 片側
松木平 青森県弘前市 標柱
○峠
小坂峠-小坂・上戸沢間
金山峠-干蒲・金山間
花立峠-上山・黒沢間
猿羽根峠-名木沢・舟形間
上台峠-新庄・金山間
森合峠-金山・中田間
主寝坂峠-中田・及位間
院内峠 - 及位・院内間
善知鳥坂、二丁坂 - 境・和田間
諸見峠(諸見坂、物見坂)-鶴形・飛根間
烏峠-飛根・荷上場間
郭公坂、馬上坂、畜生坂-荷上場・小繋間
薬師峠-小繋・綴子間
矢立峠-白沢・碇ヶ関間
山ノ神峠-大鰐・弘前間
大釈迦峠(津軽坂、鶴賀坂)-浪岡・新城間
○上街道
草峠
大覚野峠
○史跡指定
羽州街道の楢下宿(山形県上山市大字楢下小)および金山越(山形県上山市大字金山)は、1997年(平成9年)9月11日、国の史跡に指定されている。
○別経路
米沢藩は羽州街道を使わず、ほぼ現在の奥羽本線に沿い板谷峠を越えて福島市に出る経路をとっていた。この経路は米沢街道と呼ばれ、米沢から江戸に到るにはより近道であるが、羽州街道を使用しなかった理由を仙台藩との折り合いが悪さに求める説もある。享保16年(1731年)の地震で小原の材木岩(下戸沢宿・渡良瀬宿間)が崩落した際、出羽各藩は一時期奥州街道の宮宿(宮城県刈田郡蔵王町)から分岐し笹谷峠を越え山形宿に至る経路を利用したことがある(笹谷越え出羽街道)。
○概要
奥州街道の延長である仙台道から陸奥国の桑折宿(福島県伊達郡桑折町)で分かれ、小坂峠を越えて仙台藩南西部の山中に入り、奥羽山脈の金山峠を越えて出羽国(山形県・秋田県)に入る。ここから出羽国(羽州)を縦断し、矢立峠を越えて再び陸奥国に入って、油川宿(青森県青森市)で仙台道の延長である松前道に合流する街道である。現在の国道113号・国道13号・国道7号などに相当する。途中、六郷宿から綴子宿にかけて、久保田を経由する下街道と角館・阿仁を経由する上街道(角館街道、大覚野街道)に分岐しており、下街道がより重要とされていた。参勤交代の際に利用した藩は13藩(上山藩、山形藩、天童藩、長瀞藩、新庄藩、庄内藩、出羽松山藩、矢島藩、本荘藩、亀田藩、久保田藩、黒石藩、弘前藩)。他の多くの街道と同様、江戸時代には統一された名称は無く、地域や進行方向によって「小坂通り」「最上道」「秋田道」「下筋街道」「碇ヶ関街道」など様々な呼び方をされていた。 また、久保田藩主の佐竹氏が特に整備に注力した事から、「佐竹道」と称された地域もあった。
○宿場
本宿58駅(62駅という説もある)。宿場の名が地名に残っている場合、市町村名以下も記載する。
・福島県内
桑折宿(伊達郡桑折町)-仙台道追分
小坂宿(伊達郡国見町小坂)
・宮城県内
仙台藩(現・宮城県)内の羽州街道は奥羽山脈の谷筋や高原地帯を通り、かつ、沿道に7つの宿場町があったため、同藩内では「山中通小坂越」「山中七ヶ宿街道」「七ヶ宿街道」と呼ばれた。沿道にある現・七ヶ宿町は同街道名に由来する。福島藩から小坂峠を越えて仙台藩に入ると最初にある宿場町・上戸沢宿の辺りは仙台平と呼ばれ、現在は白石市小原字仙台平として地名が残る。「七ヶ宿街道」の現在の道筋は、下戸沢宿までが宮城県道・福島県道46号白石国見線にあたり、その先で国道113号となり、湯原宿を過ぎると七ヶ宿町追分で山形県道・宮城県道13号上山七ヶ宿線となって、金山峠を越えて上山藩に入る。なお、七ヶ宿町追分で国道113号をそのまま行って二井宿峠を越えると米沢藩に入る。
上戸沢宿(白石市小原上戸沢)-仙台平にある
下戸沢宿(白石市小原下戸沢)
渡瀬宿(刈田郡七ヶ宿町)-七ヶ宿ダム建設により水没
関宿(刈田郡七ヶ宿町関)
滑津宿(刈田郡七ヶ宿町滑津)
峠田宿(刈田郡七ヶ宿町峠田)
湯原宿(刈田郡七ヶ宿町湯原)
〈間宿〉干蒲宿(刈田郡七ヶ宿町干蒲)
・山形県内
〈間宿〉金山宿(上山市金山)
楢下宿(上山市楢下)
上山宿(上山市)
〈間宿〉黒沢宿(山形市黒沢)
松原宿(山形市松原)
山形宿(山形市)
天童宿(天童市)-土生田宿までを村山六ヶ宿と称する
〈間宿〉六田宿(東根市六田)
〈間宿〉宮崎宿(東根市宮崎)
楯岡宿(村山市楯岡)
〈間宿〉本飯田宿(村山市本飯田)-土生田宿との合宿(21日から月末まで担当)
〈間宿〉土生田宿(村山市土生田)-本飯田宿との合宿(月初から20日まで担当)
尾花沢宿(尾花沢市)
名木沢宿(尾花沢市名木沢)
舟形宿(最上郡舟形町)
新庄宿(新庄市)
金山宿(最上郡金山町)
〈間宿〉中田宿(最上郡金山町中田下中田)
及位宿(最上郡真室川町及位旧及位)
秋田県内 [編集]下院内宿(湯沢市下院内)
横堀宿(湯沢市横堀)
湯沢宿(湯沢市)
岩崎宿(湯沢市岩崎)-沼館街道追分
横手宿(横手市)
金沢宿(横手市金沢本町、一部仙北郡美郷町金沢)
六郷宿(仙北郡美郷町六郷)-上街道分岐
大曲宿(大仙市大曲)-花館宿との合宿(半月交替)、沼館街道追分
花館宿(大仙市花館)-大曲宿との合宿(半月交替)
神宮寺宿(大仙市神宮寺)-北楢岡宿との合宿(上半月担当)
北楢岡宿(大仙市北楢岡)-神宮寺宿との合宿(下半月担当)
刈和野宿(大仙市刈和野)
上淀川宿(大仙市協和上淀川)
境宿(大仙市協和境)
和田宿(秋田市河辺和田)-豊島宿との合宿(半月交替)
豊島宿(秋田市河辺戸島)-和田宿との合宿(半月交替)
久保田宿(秋田市)
土崎湊宿(秋田市土崎港)
大久保宿(潟上市昭和大久保)-下虻川宿との合宿(半月交替)
下虻川宿(潟上市飯田川下虻川)-大久保宿との合宿(半月交替)
大川宿(南秋田郡五城目町大川大川)-一日市宿との合宿(半月交替)
一日市宿(南秋田郡八郎潟町一日市)-大川宿との合宿(半月交替)
鹿渡宿(山本郡三種町鹿渡)
森岡宿(山本郡三種町森岳)-豊岡宿との合宿(半月交替)
豊岡宿(山本郡三種町豊岡金田)-森岡宿との合宿(半月交替)
檜山宿(能代市檜山)
鶴形宿(能代市鶴形)
飛根宿(能代市二ツ井町飛根)
荷上場宿(能代市二ツ井町荷上場)
小繋宿(能代市二ツ井町小繋)
今泉宿(北秋田市今泉)
前山宿(北秋田市前山)
坊沢宿(北秋田市坊沢)
綴子宿(北秋田市綴子)-上街道合流
川口宿(大館市川口)
大館宿(大館市)
釈迦内宿(大館市釈迦内)
白沢宿(大館市白沢)
・青森県内
碇ヶ関宿(平川市碇ヶ関)
大鰐宿(南津軽郡大鰐町)
弘前宿(弘前市)
藤崎宿(南津軽郡藤崎町)
浪岡宿(青森市浪岡)
新城宿(青森市新城)
油川宿(青森市油川) - 松前道合流
○関所
戸沢関
及位関
院内関
碇ヶ関
○一里塚
名称 所在地 植えられていた樹 現存 備考
滑津 宮城県 刈田郡七ヶ宿町 樟
金山 山形県上山市
楢下 山形県上山市 槐 再現
皆沢 山形県上山市
長清水 山形県上山市
漆山 山形県山形市
天童 山形県天童市
猿羽根山 山形県最上郡舟形町 片側 舟形町史跡
紫山 山形県最上郡舟形町 片側 舟形町史跡
鳥越 山形県新庄市 ? 片側 新庄市史跡
主寝坂 山形県最上郡真室川町 栗、漆
沓懸 秋田県湯沢市
上院内 秋田県湯沢市
吹張 秋田県湯沢市 槻 片側 秋田県史跡
杉沢 秋田県湯沢市
古内 秋田県横手市
大橋 秋田県横手市 梨
美砂古 秋田県横手市 栗
横手 秋田県横手市
杉目杉沢 秋田県横手市 欅
金沢 秋田県横手市 桜、漆
野荒町 秋田県仙北郡美郷町
六郷 秋田県仙北郡美郷町 欅、?莢 片側 美郷町史跡
角間川追分 秋田県大仙市
大曲 秋田県大仙市 ?莢
花館 秋田県大仙市
小豆沢 秋田県大仙市
三本杉 秋田県大仙市 ?莢 両側 秋田県史跡
刈和野 秋田県大仙市
善知鳥坂 秋田県大仙市
淀川 秋田県大仙市
船岡 秋田県大仙市
船沢 秋田県大仙市
神内 秋田県秋田市
二ノ渡(中の渡)秋田県秋田市
牛島 秋田県秋田市
八橋 秋田県秋田市 榎
土崎 秋田県秋田市
追分 秋田県秋田市
大清水 秋田県秋田市
大久保 秋田県潟上市
岡飯塚 秋田県潟上市
夜叉袋 秋田県南秋田郡八郎潟町
天瀬川 秋田県山本郡三種町 榎 標石 江戸から152里
山谷 秋田県山本郡三種町 松 標柱
赤坂新屋敷 秋田県山本郡三種町 標石
林崎 秋田県山本郡三種町
金光寺 秋田県山本郡三種町 標柱
大森柏原 秋田県能代市
檜山 秋田県能代市 標柱 松は近年の植樹
鴨巣 秋田県能代市 黒松、黒松 両側 秋田県史跡
芹沢(造り坂) 秋田県能代市 松
飛根(駒形) 秋田県能代市
切石 秋田県能代市 千手
荷上場(諏訪森) 秋田県能代市
小繋(六文坂) 秋田県能代市
坊沢 秋田県北秋田市 標柱
綴子(大堤)秋田県北秋田市 杉 片側 秋田県史跡
長坂 秋田県大館市 松 片側
岩瀬 秋田県大館市
立花(うわばみ沢) 秋田県大館市
片山 秋田県大館市
釈迦内(立子石) 秋田県大館市
冷水 秋田県大館市
松原向? 秋田県大館市
たもぎ沢 秋田県大館市
馬殺坂 秋田県大館市 片側
松木平 青森県弘前市 標柱
○峠
小坂峠-小坂・上戸沢間
金山峠-干蒲・金山間
花立峠-上山・黒沢間
猿羽根峠-名木沢・舟形間
上台峠-新庄・金山間
森合峠-金山・中田間
主寝坂峠-中田・及位間
院内峠 - 及位・院内間
善知鳥坂、二丁坂 - 境・和田間
諸見峠(諸見坂、物見坂)-鶴形・飛根間
烏峠-飛根・荷上場間
郭公坂、馬上坂、畜生坂-荷上場・小繋間
薬師峠-小繋・綴子間
矢立峠-白沢・碇ヶ関間
山ノ神峠-大鰐・弘前間
大釈迦峠(津軽坂、鶴賀坂)-浪岡・新城間
○上街道
草峠
大覚野峠
○史跡指定
羽州街道の楢下宿(山形県上山市大字楢下小)および金山越(山形県上山市大字金山)は、1997年(平成9年)9月11日、国の史跡に指定されている。
○別経路
米沢藩は羽州街道を使わず、ほぼ現在の奥羽本線に沿い板谷峠を越えて福島市に出る経路をとっていた。この経路は米沢街道と呼ばれ、米沢から江戸に到るにはより近道であるが、羽州街道を使用しなかった理由を仙台藩との折り合いが悪さに求める説もある。享保16年(1731年)の地震で小原の材木岩(下戸沢宿・渡良瀬宿間)が崩落した際、出羽各藩は一時期奥州街道の宮宿(宮城県刈田郡蔵王町)から分岐し笹谷峠を越え山形宿に至る経路を利用したことがある(笹谷越え出羽街道)。
上街道
上街道は、江戸時代に中山道と名古屋城下を結んだ脇往還(街道)。「木曽街道」、「名古屋往還」とも呼ばれていた。
○概要
江戸時代に尾張藩が独自に作った街道で、名古屋城下の東片端(現在の愛知県名古屋市東区)から中山道の伏見宿(現在の岐阜県可児郡御嵩町)までを結んでいた。総距離は、10里8丁(約40km)。途中3つの宿場町があった。名古屋から楽田追分(現在の愛知県犬山市)までは稲置街道とルートが重複している。軍事的な事情から、大きな川に橋がない・升形が多い・2間幅であるなど、五街道に準じた道の作りになっている。現在の国道41号や名鉄小牧線・名鉄広見線に相当する。
○名称の由来
「上街道」の名称は、当時同じように中山道と名古屋城下を結んでいた下街道との対比によるものである。「木曽街道」の名称は、中山道が木曽地方に通じていたことから名付けられた。これらの他に小牧宿を通ることから「小牧街道」、小牧宿に尾張徳川家の別荘があり、藩主の往来があったことから「御殿様街道」とも呼ばれていた。また、楽田追分までは「稲置街道」と呼ばれることの方が多く、稲置街道が名古屋と犬山を結ぶことから「名古屋往還」「犬山街道」とも呼ばれた。
○宿場・追分
下街道)札の辻(愛知県名古屋市中区)
東片端(現在の地名表記では「泉1丁目」)(愛知県名古屋市東区)下街道と分岐
味鋺の湿地帯を避けるために、勝川で下街道と分岐する別ルートがある。
上街道始点:名古屋城東大手門(愛知県名古屋市東区)
1.宿場:小牧宿(愛知県小牧市)
追分:楽田(愛知県犬山市)稲置街道と分岐
2.宿場:善師野宿(愛知県犬山市)
3.宿場:土田宿(岐阜県可児市)
上街道終点:太田の渡し(岐阜県可児市)中山道と合流
渡し場が土田にあった頃は土田宿が終点だった。時代が下るにつれ渡し場は東に移動し、今渡が終点となる。
(中山道)伏見宿(岐阜県可児郡御嵩町)
○概要
江戸時代に尾張藩が独自に作った街道で、名古屋城下の東片端(現在の愛知県名古屋市東区)から中山道の伏見宿(現在の岐阜県可児郡御嵩町)までを結んでいた。総距離は、10里8丁(約40km)。途中3つの宿場町があった。名古屋から楽田追分(現在の愛知県犬山市)までは稲置街道とルートが重複している。軍事的な事情から、大きな川に橋がない・升形が多い・2間幅であるなど、五街道に準じた道の作りになっている。現在の国道41号や名鉄小牧線・名鉄広見線に相当する。
○名称の由来
「上街道」の名称は、当時同じように中山道と名古屋城下を結んでいた下街道との対比によるものである。「木曽街道」の名称は、中山道が木曽地方に通じていたことから名付けられた。これらの他に小牧宿を通ることから「小牧街道」、小牧宿に尾張徳川家の別荘があり、藩主の往来があったことから「御殿様街道」とも呼ばれていた。また、楽田追分までは「稲置街道」と呼ばれることの方が多く、稲置街道が名古屋と犬山を結ぶことから「名古屋往還」「犬山街道」とも呼ばれた。
○宿場・追分
下街道)札の辻(愛知県名古屋市中区)
東片端(現在の地名表記では「泉1丁目」)(愛知県名古屋市東区)下街道と分岐
味鋺の湿地帯を避けるために、勝川で下街道と分岐する別ルートがある。
上街道始点:名古屋城東大手門(愛知県名古屋市東区)
1.宿場:小牧宿(愛知県小牧市)
追分:楽田(愛知県犬山市)稲置街道と分岐
2.宿場:善師野宿(愛知県犬山市)
3.宿場:土田宿(岐阜県可児市)
上街道終点:太田の渡し(岐阜県可児市)中山道と合流
渡し場が土田にあった頃は土田宿が終点だった。時代が下るにつれ渡し場は東に移動し、今渡が終点となる。
(中山道)伏見宿(岐阜県可児郡御嵩町)
因幡街道
因幡街道は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、播磨国姫路(兵庫県姫路市)を始点として、因幡国鳥取(鳥取県鳥取市)に至る路線である。現在の国道2号、国道29号、国道179号、国道373号、兵庫県道724号姫路新宮線にほぼ対応している。
○宿場
姫路(兵庫県姫路市)
1.飾西宿(兵庫県姫路市)
2.觜崎宿(兵庫県たつの市)
3.千本宿(兵庫県たつの市)
4.三日月宿(兵庫県佐用郡佐用町)
5.平福宿(兵庫県佐用郡佐用町)
6.大原宿(岡山県美作市)
7.坂根宿(岡山県美作市)
8.駒帰宿(鳥取県八頭郡智頭町)
9.智頭宿(鳥取県八頭郡智頭町)
10.用瀬宿(鳥取県鳥取市)
11.河原宿(鳥取県鳥取市)
鳥取(鳥取県鳥取市)
○智頭往来
志戸坂峠を越えるルート(現在の国道373号線にほぼ相当)は、江戸時代には鳥取藩の参勤交代に用いられた。智頭宿周辺や篠坂地区、中原地区、樽見(大字福原)地区、駒帰地区は往時の面影を残しており、中原、樽見、駒帰地区の約2.5キロメートルは2008年、国の史跡「智頭往来 志戸坂峠越」に指定された。
○宿場
姫路(兵庫県姫路市)
1.飾西宿(兵庫県姫路市)
2.觜崎宿(兵庫県たつの市)
3.千本宿(兵庫県たつの市)
4.三日月宿(兵庫県佐用郡佐用町)
5.平福宿(兵庫県佐用郡佐用町)
6.大原宿(岡山県美作市)
7.坂根宿(岡山県美作市)
8.駒帰宿(鳥取県八頭郡智頭町)
9.智頭宿(鳥取県八頭郡智頭町)
10.用瀬宿(鳥取県鳥取市)
11.河原宿(鳥取県鳥取市)
鳥取(鳥取県鳥取市)
○智頭往来
志戸坂峠を越えるルート(現在の国道373号線にほぼ相当)は、江戸時代には鳥取藩の参勤交代に用いられた。智頭宿周辺や篠坂地区、中原地区、樽見(大字福原)地区、駒帰地区は往時の面影を残しており、中原、樽見、駒帰地区の約2.5キロメートルは2008年、国の史跡「智頭往来 志戸坂峠越」に指定された。
稲置街道
稲置街道は、江戸時代に名古屋城下と犬山城下を結んだ脇往還(街道)。「犬山街道」とも呼ばれる。
○概要
名古屋から楽田追分までは上街道とルートが重複している。犬山城下を過ぎてからは木曽川を渡って中山道の鵜沼宿(現在の岐阜県各務原市)にまで街道が至っている。犬山城から楽田追分まで道を開いて上街道に接続させた事がこの街道の始まりである事から、楽田追分-鵜沼宿を稲置街道とする説もある。
○名称の由来
「稲置」とは、当時街道沿いにあった村の名称(「稲置村」、現・犬山市)から付けられた。
○宿場・追分
下街道札の辻(愛知県名古屋市中区)
東片端(現在の地名表記では「泉1丁目」)(愛知県名古屋市東区)下街道と分岐
味鋺の湿地帯を避けるために、勝川で下街道と分岐する別ルートがある。
稲置街道始点:名古屋城東大手門(愛知県名古屋市東区)
1.宿場:小牧宿(愛知県小牧市)
追分:楽田(愛知県犬山市)上街道と分岐
2.宿場:犬山宿(愛知県犬山市)
稲置街道終点:中山道鵜沼宿(岐阜県各務原市)
○概要
名古屋から楽田追分までは上街道とルートが重複している。犬山城下を過ぎてからは木曽川を渡って中山道の鵜沼宿(現在の岐阜県各務原市)にまで街道が至っている。犬山城から楽田追分まで道を開いて上街道に接続させた事がこの街道の始まりである事から、楽田追分-鵜沼宿を稲置街道とする説もある。
○名称の由来
「稲置」とは、当時街道沿いにあった村の名称(「稲置村」、現・犬山市)から付けられた。
○宿場・追分
下街道札の辻(愛知県名古屋市中区)
東片端(現在の地名表記では「泉1丁目」)(愛知県名古屋市東区)下街道と分岐
味鋺の湿地帯を避けるために、勝川で下街道と分岐する別ルートがある。
稲置街道始点:名古屋城東大手門(愛知県名古屋市東区)
1.宿場:小牧宿(愛知県小牧市)
追分:楽田(愛知県犬山市)上街道と分岐
2.宿場:犬山宿(愛知県犬山市)
稲置街道終点:中山道鵜沼宿(岐阜県各務原市)
伊勢参宮街道
伊勢参宮街道は、日本の各方面から伊勢神宮への参拝道として整備された街道のことである。伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道と呼ばれる。
○旧街道
近代以前のかつての街道は次のとおり。とくに広義としての伊勢街道の名称は各街道でも用いられるので注意を要する。 (伊勢街道(○○街道)と用いられることが多い) 狭義としては下記のように用いられる。
伊勢街道: 日永の追分から東海道と別れ、伊勢にいたる街道。国道23号として1952年(昭和27年)に整備され、松阪市以南は現在、三重県道428号伊勢小俣松阪線。
伊勢本街道: 大坂・玉造稲荷神社から各所を経由し、奥津経由で最終的に伊勢にいたる街道。
参宮街道: 桜井で初瀬街道と分かれ、大宇陀経由で伊勢にいたる街道。
支道
伊勢別街道: 関宿東の追分で東海道と分岐、椋本宿(津市)を経由し、江戸橋で伊勢街道に合流する。窪田宿には高田本山専修寺の寺内町である一身田がある。
初瀬街道: 桜井で参宮街道、榛原で伊勢本街道と分かれ、あお越え(青山高原)を経由し、六軒で伊勢街道に合流する。1953年(昭和28年)に大部分が国道165号として整備された。
和歌山街道: 和歌山から吉野を経由、参宮街道と合流・分岐し、松阪に至る街道。
竹内街道: 飛鳥時代からの古道。 江戸時代以降は伊勢本街道の一部として機能した。1974年(昭和49年)に羽曳野市以東が国道166号へ指定(区間:堺市-羽曳野市-葛城市)
横大路: 飛鳥時代からの古道。 元は竹内街道・長尾街道交点付近と藤原京を結ぶ古道であったが、江戸時代以降は伊勢本街道の一部として機能した。
暗越奈良街道: 奈良時代からの古道。 江戸時代以降は、伊勢本街道の一部として機能した。1970年(昭和45年)に大部分が国道308号に指定。(区間:大阪市-生駒市-奈良市)
上街道:飛鳥時代からの古道で、古くは上ツ道とも呼ばれた。奈良から天理市を経て桜井市で初瀬街道と合流する。
清滝街道:行基道とも呼ばれ、守口宿から清滝峠を越えて東へ進む街道。 木津町で奈良街道と合流・木津川を越えて山城町に至り、伊賀街道に接続する。
伊賀街道:伊賀越奈良道とも呼ばれ、奈良から大和街道を通り、伊賀国を経て津に至る街道。 上野の赤坂で大和街道と分岐、大山田から長野峠を越え前田宿(片田宿)を経由、津の塔世橋南詰で伊勢街道に合流。1608年(慶長13年)津城に藤堂高虎が伊勢・伊賀両国22万石の大名として入城してから藩内の重要路として整備が進んだ。1993年(平成5年)までに大部分が国道163号となった。
奈良街道:五百野(津市美里町)で伊賀街道と分岐、久居城下を経て雲出川を渡り、月本追分(松阪市中林町)で伊勢街道と合流。こちらにも伊賀越奈良道の別名がある。
伊勢路:伊勢神宮から、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道。
○国道・都道府県道
現在においては、下記の道路およびその旧道が 伊勢参宮街道・伊勢街道・参宮街道 と呼ばれる。
国道23号: (区間:四日市市-松阪市-伊勢市)
三重県道22号伊勢南島線: (伊勢市内)
国道166号: (区間:羽曳野市-橿原市-宇陀市-東吉野村-松阪市)
国道368号: (区間:御杖村-松阪市)
国道369号: (区間:奈良市-宇陀市-御杖村-松阪市 (一部国道368号と重複))
○旧街道
近代以前のかつての街道は次のとおり。とくに広義としての伊勢街道の名称は各街道でも用いられるので注意を要する。 (伊勢街道(○○街道)と用いられることが多い) 狭義としては下記のように用いられる。
伊勢街道: 日永の追分から東海道と別れ、伊勢にいたる街道。国道23号として1952年(昭和27年)に整備され、松阪市以南は現在、三重県道428号伊勢小俣松阪線。
伊勢本街道: 大坂・玉造稲荷神社から各所を経由し、奥津経由で最終的に伊勢にいたる街道。
参宮街道: 桜井で初瀬街道と分かれ、大宇陀経由で伊勢にいたる街道。
支道
伊勢別街道: 関宿東の追分で東海道と分岐、椋本宿(津市)を経由し、江戸橋で伊勢街道に合流する。窪田宿には高田本山専修寺の寺内町である一身田がある。
初瀬街道: 桜井で参宮街道、榛原で伊勢本街道と分かれ、あお越え(青山高原)を経由し、六軒で伊勢街道に合流する。1953年(昭和28年)に大部分が国道165号として整備された。
和歌山街道: 和歌山から吉野を経由、参宮街道と合流・分岐し、松阪に至る街道。
竹内街道: 飛鳥時代からの古道。 江戸時代以降は伊勢本街道の一部として機能した。1974年(昭和49年)に羽曳野市以東が国道166号へ指定(区間:堺市-羽曳野市-葛城市)
横大路: 飛鳥時代からの古道。 元は竹内街道・長尾街道交点付近と藤原京を結ぶ古道であったが、江戸時代以降は伊勢本街道の一部として機能した。
暗越奈良街道: 奈良時代からの古道。 江戸時代以降は、伊勢本街道の一部として機能した。1970年(昭和45年)に大部分が国道308号に指定。(区間:大阪市-生駒市-奈良市)
上街道:飛鳥時代からの古道で、古くは上ツ道とも呼ばれた。奈良から天理市を経て桜井市で初瀬街道と合流する。
清滝街道:行基道とも呼ばれ、守口宿から清滝峠を越えて東へ進む街道。 木津町で奈良街道と合流・木津川を越えて山城町に至り、伊賀街道に接続する。
伊賀街道:伊賀越奈良道とも呼ばれ、奈良から大和街道を通り、伊賀国を経て津に至る街道。 上野の赤坂で大和街道と分岐、大山田から長野峠を越え前田宿(片田宿)を経由、津の塔世橋南詰で伊勢街道に合流。1608年(慶長13年)津城に藤堂高虎が伊勢・伊賀両国22万石の大名として入城してから藩内の重要路として整備が進んだ。1993年(平成5年)までに大部分が国道163号となった。
奈良街道:五百野(津市美里町)で伊賀街道と分岐、久居城下を経て雲出川を渡り、月本追分(松阪市中林町)で伊勢街道と合流。こちらにも伊賀越奈良道の別名がある。
伊勢路:伊勢神宮から、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道。
○国道・都道府県道
現在においては、下記の道路およびその旧道が 伊勢参宮街道・伊勢街道・参宮街道 と呼ばれる。
国道23号: (区間:四日市市-松阪市-伊勢市)
三重県道22号伊勢南島線: (伊勢市内)
国道166号: (区間:羽曳野市-橿原市-宇陀市-東吉野村-松阪市)
国道368号: (区間:御杖村-松阪市)
国道369号: (区間:奈良市-宇陀市-御杖村-松阪市 (一部国道368号と重複))
2012年9月25日火曜日
大坂町奉行
大坂町奉行は、江戸幕府が大坂に設置した遠国奉行の1つ。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取った。初名は大坂郡代(おさかぐんだい)。老中支配下で大坂三郷及び摂津・河内国の支配を目的としていた。
○歴史
元和5年8月22日(1619年)に久貝正俊(東町奉行)・嶋田直時(西町奉行)がそれぞれ役高3000石をもって任じられたのが始まりとされている。水野守信(信古)を初代東町奉行とする説もあったが、今日では否定されている。定員は東西それぞれ1名ずつであるが、元禄年間に堺町奉行を兼務する3人目の奉行が設置された時期もあったが、短期間で終わっている。1000-3000石程度の旗本から選任されることになっていたが、300石からの抜擢例も存在する。奉行には役高1500石及び役料600石(現米支給)が与えられ、従五位下に叙任されるのが慣例であった。奉行所は元々は東西ともに大坂城北西の出入口である京橋口の門外に設置されていたが、享保9年(1724年)の大火で両奉行所ともに焼失した教訓から、東町奉行所は京橋口に再建され、西町奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転された。また、時代が下るにつれて糸割符仲間や蔵屋敷などの監督など、大坂経済関連の業務や幕府領となった兵庫・西宮の民政、摂津・河内・和泉・播磨における幕府領における年貢徴収及び公事取扱(享保7年(1722年)以後)など、その職務権限は拡大されることとなった。
○奉行所の役人
東西各奉行所に、それぞれ与力30騎、同心50人が配属。与力は80石(知行高200石)、同心は10石3人扶持を支給され、屋敷地は与力が500坪、同心は200坪を拝領された。与力は、新人はまず初御目見・御用日見習から始まり、当番所への勤務である「番入」を勤め、与力の末席である定町廻に就く。後は年功序列で、何十年も勤め上げて最上位である諸御用調役まで昇進してゆく。当時の大坂の武士の名鑑『浪華御役録』や『役人鑑』には与力の役職が25前後記されており、1つの役職には2 - 10人ほどの与力が担当となっている。東西奉行所の与力計60人でこれだけの数をまかなえたのは、1つには1人で複数の役職を兼務したことと、もう1つは与力の子を早くに見習身分として出仕させ実務を担当させていたからである。病欠、または囚人を江戸に護送するために大坂を長期間離れる場合、さらには御用多忙により人手が足らなくなる場合も多々あり、そのような時は仮役・定仮役という暫定的な役席を設け、他の与力に仕事を兼務させた。それらの役職の他に、「迎方(むかえかた)与力」という臨時の役職もある。これは新任町奉行を大坂で迎えるための準備をするもので、該当奉行所の古参与力が命じられた。江戸町奉行の役人と同様に、大坂町奉行所の与力も、大名や旗本に便宜を図るため出入り関係を結んでおり、これを「御館入(おたちいり)与力」と呼んだ。大坂の周辺に知行地を持つ大名・旗本の他、大坂に蔵屋敷を置く福岡藩などが御館入与力を出入りさせていた。また、大坂城代の元に出入りしその用を承る与力を、「立入(たちいり)与力」という。
○町奉行の審理
町奉行所に届けられた民事訴訟を審理する日を「御用日」、特に金公事(金銭貸借に関する訴訟)を扱う日を「御金日」と呼んだ。御用日は、毎月2日、5日、7日、13日、18日、21日、25日、27日と月に8回あった。摂津・河内・和泉・播州の四ヵ国の訴訟だけでなく、大坂が全国各地からの物資が流入する拠点であるという性格から西日本の各地からも訴訟が持ち込まれた。
○町奉行の交代
新任奉行が任命された後、それを受けて担当奉行所の与力の中から迎方与力が任命される。迎方与力は諸々の書類と御役所絵図を用意し、東海道筋を下って新任奉行を迎える。それに先んじて奉行の家臣による先乗り部隊が大坂に出向いて屋敷の受け渡しが行われる。そして、奉行が大坂に到着して後、配下となる与力同心を引き取るという形となる。奉行の交代に際して、一方の奉行が空席となった場合、その奉行所の配下の与力同心は、一時的にもう一方の奉行の管理下に入った。
○大坂町奉行の一覧
・東町奉行
1.久貝正俊(1619年-1648年)
2.松平重綱(1648年-1663年)
3.石丸定次(1663年-1679年)
4.設楽貞政(1679年-1686年)
5.小田切直利(1686年-1692年)
6.松平忠固(1692年-1696年)
7.保田宗易(1696年-1699年)
8.中山時春(1699年-1700年)
9.太田好寛(1700年-1711年)
10.桑山一慶(1711年-1712年)
11.鈴木利雄(1712年-1729年)
12.稲垣種信(1729年-1740年)
13.松浦信正(1740年-1746年)
14.小浜隆品(1746年-1754年)
15.細井勝為(1754年-1757年)
16.岡部元良(1757年-1762年)
17.鵜殿長達(1762年-1768年)
18.室賀正之(1768年-1779年)
19.土屋守直(1779年-1783年)
20.小田切直年(1783年-1792年)
21.坂部広吉(1792年-1795年)
22.山口直清(1795年-1798年)
23.水野忠通(1798年-1806年)
24.平賀貞愛(1806年-1816年)
25.彦坂紹芳(1816年-1820年)
26.高井実徳(1820年-1830年)
27.曽根次孝(1830年-1832年)
28.戸塚忠栄(1832年-1834年)
29.大久保忠実(1834年-1836年)
30.跡部良弼(1836年-1839年)
31.徳山秀起(1839年-1842年)
32.水野道一(1842年-1847年)
33.柴田康直(1847年-1851年)
34.川路聖謨(1851年-1852年)
35.佐々木顕発(1852年-1857年)
36.戸田氏栄(1857年-1858年)
37.一色直温(1858年-1861年)
38.川村修就(1861年-1863年)
39.有馬則篤(1863年-1864年)
40.堀利孟(1864年)
41.竹内保徳(1864年)
42.古賀謹一郎(1864年)
43.松平乗撲(1864年-1865年)
44.井上義斐(1865年-1866年)
45.中川忠道(1866年)
46.竹内日向守(1866年-1867年)
47.松本寿大夫(1867年-1868年)
48.松平信敏(1867年-1868年)
・西町奉行
1.嶋田直時(1619年-1634年)
2.曽我古祐(1634年-1658年)
3.曽我近祐(1658年-1661年)
4.彦坂重治(1661年-1677年)
5.嶋田重頼(1677年-1681年)
6.藤堂良直(1681年-1688年)
7.能勢頼相(1688年-1691年)
8.加藤泰貞(1691年-1696年)
9.永見重直(1696年-1701年)
10.松野助義(1701年-1704年)
11.大久保忠影(1704年-1709年)
12.北条氏英(1709年-1724年)
13.松平勘敬(1724年-1738年)
14.佐々成意(1738年-1744年)
15.久松定郷(1744年-1750年)
16.中山時庸(1750年-1755年)
17.桜井政甫(1755年-1757年)
18.興津忠通(1757年-1765年)
19.曲淵景衛(1765年-1769年)
20.神谷清俊(1769年-1775年)
21.京極高主(1775年-1781年)
22.佐野政親(1781年-1787年)
23.松平貴弘(1787年-1797年)
24.成瀬正存(1797年-1801年)
25.佐々間信近(1801年-1808年)
26.斎藤利道(1808年-1814年)
27.荒尾成章(1814年-1820年)
28.内藤矩佳(1820年-1829年)
29.新見正路(1829年-1831年)
30.久世広正(1831年-1833年)
31.矢部定謙(1833年-1836年)
32.堀利堅(1836年-1841年)
33.阿部正蔵(1841年-1843年)
34.久須美祐明(1843年-1844年)
35.永井尚徳(1844年-1849年)
36.中野長胤(1849年-1850年)
37.本多安英(1850年-1852年)
38.石谷穆清(1852年-1854年)
39.川村修就(1854年-1855年)
40.久須美祐儁(1855年-1861年)
41.鳥居忠善(1861年-1863年)
42.松平信敏(1863年-1867年)
43.平岡準(1867年)
44.小笠原長功(1867年-1868年)
45.貝塚典直(1867年-1868年)
○所在地
・東町奉行
大阪市中央区大手前1丁目(大阪合同庁舎1号館の前に石碑がある)
○歴史
元和5年8月22日(1619年)に久貝正俊(東町奉行)・嶋田直時(西町奉行)がそれぞれ役高3000石をもって任じられたのが始まりとされている。水野守信(信古)を初代東町奉行とする説もあったが、今日では否定されている。定員は東西それぞれ1名ずつであるが、元禄年間に堺町奉行を兼務する3人目の奉行が設置された時期もあったが、短期間で終わっている。1000-3000石程度の旗本から選任されることになっていたが、300石からの抜擢例も存在する。奉行には役高1500石及び役料600石(現米支給)が与えられ、従五位下に叙任されるのが慣例であった。奉行所は元々は東西ともに大坂城北西の出入口である京橋口の門外に設置されていたが、享保9年(1724年)の大火で両奉行所ともに焼失した教訓から、東町奉行所は京橋口に再建され、西町奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転された。また、時代が下るにつれて糸割符仲間や蔵屋敷などの監督など、大坂経済関連の業務や幕府領となった兵庫・西宮の民政、摂津・河内・和泉・播磨における幕府領における年貢徴収及び公事取扱(享保7年(1722年)以後)など、その職務権限は拡大されることとなった。
○奉行所の役人
東西各奉行所に、それぞれ与力30騎、同心50人が配属。与力は80石(知行高200石)、同心は10石3人扶持を支給され、屋敷地は与力が500坪、同心は200坪を拝領された。与力は、新人はまず初御目見・御用日見習から始まり、当番所への勤務である「番入」を勤め、与力の末席である定町廻に就く。後は年功序列で、何十年も勤め上げて最上位である諸御用調役まで昇進してゆく。当時の大坂の武士の名鑑『浪華御役録』や『役人鑑』には与力の役職が25前後記されており、1つの役職には2 - 10人ほどの与力が担当となっている。東西奉行所の与力計60人でこれだけの数をまかなえたのは、1つには1人で複数の役職を兼務したことと、もう1つは与力の子を早くに見習身分として出仕させ実務を担当させていたからである。病欠、または囚人を江戸に護送するために大坂を長期間離れる場合、さらには御用多忙により人手が足らなくなる場合も多々あり、そのような時は仮役・定仮役という暫定的な役席を設け、他の与力に仕事を兼務させた。それらの役職の他に、「迎方(むかえかた)与力」という臨時の役職もある。これは新任町奉行を大坂で迎えるための準備をするもので、該当奉行所の古参与力が命じられた。江戸町奉行の役人と同様に、大坂町奉行所の与力も、大名や旗本に便宜を図るため出入り関係を結んでおり、これを「御館入(おたちいり)与力」と呼んだ。大坂の周辺に知行地を持つ大名・旗本の他、大坂に蔵屋敷を置く福岡藩などが御館入与力を出入りさせていた。また、大坂城代の元に出入りしその用を承る与力を、「立入(たちいり)与力」という。
○町奉行の審理
町奉行所に届けられた民事訴訟を審理する日を「御用日」、特に金公事(金銭貸借に関する訴訟)を扱う日を「御金日」と呼んだ。御用日は、毎月2日、5日、7日、13日、18日、21日、25日、27日と月に8回あった。摂津・河内・和泉・播州の四ヵ国の訴訟だけでなく、大坂が全国各地からの物資が流入する拠点であるという性格から西日本の各地からも訴訟が持ち込まれた。
○町奉行の交代
新任奉行が任命された後、それを受けて担当奉行所の与力の中から迎方与力が任命される。迎方与力は諸々の書類と御役所絵図を用意し、東海道筋を下って新任奉行を迎える。それに先んじて奉行の家臣による先乗り部隊が大坂に出向いて屋敷の受け渡しが行われる。そして、奉行が大坂に到着して後、配下となる与力同心を引き取るという形となる。奉行の交代に際して、一方の奉行が空席となった場合、その奉行所の配下の与力同心は、一時的にもう一方の奉行の管理下に入った。
○大坂町奉行の一覧
・東町奉行
1.久貝正俊(1619年-1648年)
2.松平重綱(1648年-1663年)
3.石丸定次(1663年-1679年)
4.設楽貞政(1679年-1686年)
5.小田切直利(1686年-1692年)
6.松平忠固(1692年-1696年)
7.保田宗易(1696年-1699年)
8.中山時春(1699年-1700年)
9.太田好寛(1700年-1711年)
10.桑山一慶(1711年-1712年)
11.鈴木利雄(1712年-1729年)
12.稲垣種信(1729年-1740年)
13.松浦信正(1740年-1746年)
14.小浜隆品(1746年-1754年)
15.細井勝為(1754年-1757年)
16.岡部元良(1757年-1762年)
17.鵜殿長達(1762年-1768年)
18.室賀正之(1768年-1779年)
19.土屋守直(1779年-1783年)
20.小田切直年(1783年-1792年)
21.坂部広吉(1792年-1795年)
22.山口直清(1795年-1798年)
23.水野忠通(1798年-1806年)
24.平賀貞愛(1806年-1816年)
25.彦坂紹芳(1816年-1820年)
26.高井実徳(1820年-1830年)
27.曽根次孝(1830年-1832年)
28.戸塚忠栄(1832年-1834年)
29.大久保忠実(1834年-1836年)
30.跡部良弼(1836年-1839年)
31.徳山秀起(1839年-1842年)
32.水野道一(1842年-1847年)
33.柴田康直(1847年-1851年)
34.川路聖謨(1851年-1852年)
35.佐々木顕発(1852年-1857年)
36.戸田氏栄(1857年-1858年)
37.一色直温(1858年-1861年)
38.川村修就(1861年-1863年)
39.有馬則篤(1863年-1864年)
40.堀利孟(1864年)
41.竹内保徳(1864年)
42.古賀謹一郎(1864年)
43.松平乗撲(1864年-1865年)
44.井上義斐(1865年-1866年)
45.中川忠道(1866年)
46.竹内日向守(1866年-1867年)
47.松本寿大夫(1867年-1868年)
48.松平信敏(1867年-1868年)
・西町奉行
1.嶋田直時(1619年-1634年)
2.曽我古祐(1634年-1658年)
3.曽我近祐(1658年-1661年)
4.彦坂重治(1661年-1677年)
5.嶋田重頼(1677年-1681年)
6.藤堂良直(1681年-1688年)
7.能勢頼相(1688年-1691年)
8.加藤泰貞(1691年-1696年)
9.永見重直(1696年-1701年)
10.松野助義(1701年-1704年)
11.大久保忠影(1704年-1709年)
12.北条氏英(1709年-1724年)
13.松平勘敬(1724年-1738年)
14.佐々成意(1738年-1744年)
15.久松定郷(1744年-1750年)
16.中山時庸(1750年-1755年)
17.桜井政甫(1755年-1757年)
18.興津忠通(1757年-1765年)
19.曲淵景衛(1765年-1769年)
20.神谷清俊(1769年-1775年)
21.京極高主(1775年-1781年)
22.佐野政親(1781年-1787年)
23.松平貴弘(1787年-1797年)
24.成瀬正存(1797年-1801年)
25.佐々間信近(1801年-1808年)
26.斎藤利道(1808年-1814年)
27.荒尾成章(1814年-1820年)
28.内藤矩佳(1820年-1829年)
29.新見正路(1829年-1831年)
30.久世広正(1831年-1833年)
31.矢部定謙(1833年-1836年)
32.堀利堅(1836年-1841年)
33.阿部正蔵(1841年-1843年)
34.久須美祐明(1843年-1844年)
35.永井尚徳(1844年-1849年)
36.中野長胤(1849年-1850年)
37.本多安英(1850年-1852年)
38.石谷穆清(1852年-1854年)
39.川村修就(1854年-1855年)
40.久須美祐儁(1855年-1861年)
41.鳥居忠善(1861年-1863年)
42.松平信敏(1863年-1867年)
43.平岡準(1867年)
44.小笠原長功(1867年-1868年)
45.貝塚典直(1867年-1868年)
○所在地
・東町奉行
大阪市中央区大手前1丁目(大阪合同庁舎1号館の前に石碑がある)
・西町奉行
大阪市中央区本町橋2(マイドームおおさかの前に石碑がある)
大阪市中央区本町橋2(マイドームおおさかの前に石碑がある)
2012年9月21日金曜日
有馬街道
有馬街道は、大阪や神戸から有馬温泉に至る街道の名称である。現在では兵庫県道15号神戸三田線の別称として使用される。有馬道(ありまどう、ありまみち)ともいわれる。
○概要
「有馬街道」「有馬道」と呼ばれた道は歴史的に以下の三つのルートがあった。
1.神崎(尼崎市) - 伊丹(伊丹市) - 小浜(宝塚市) - 生瀬(西宮市) - 有馬温泉。
別名「湯山(湯乃山)街道(ゆのやまかいどう)」。このルートは最も歴史が古く、有馬温泉へ行く天皇や貴族、武家が往来したとされる道。大阪の難波宮が起点だとする説もある。京都からの道筋である西国街道から池田で分岐し小浜でこのルートに合流する道も有馬街道(有馬道)と呼ばれていたようである。また、羽柴秀吉が三木城を攻める(三木合戦)折に、この街道を有馬温泉から三木まで延長整備したことにより、姫路から京都への最短ルートとして利用されるようになり、姫路 - 有馬温泉間も「有馬街道」もしくは「湯山街道」と呼ばれていた。なお、「湯山(ゆのやま)」とは有馬温泉の別名で、有馬温泉の場所が摂津国有馬郡湯山村であったことに由来する。
2.深江(神戸市東灘区)- 雨ヶ峠(六甲山)- 有馬温泉。
別名「魚屋道(ととやみち)」。現在の神戸市道有馬住吉線で、魚問屋が有馬温泉の宿に魚を卸す際に1.の湯山街道を経由して運搬すると、時間がかかるのと継立による運搬費用がかさむため、六甲山を越えるルートで魚を運ぶようになり、道が出来たとされる。阪神電車深江駅の南側にある大日神社から西国浜街道と分岐している。
3.平野(神戸市兵庫区)-天王谷-山田(神戸市北区)-唐櫃(有馬口)-道場(神戸市北区)-三田(三田市)。
現在の兵庫県道15号神戸三田線。(神戸市兵庫区~神戸市北区皆森交差点間は国道428号と重複)明治7年(1874年)に、「天王谷越え」と呼ばれていた山道を、有馬郡役所があった三田まで整備した道。現在、「有馬街道」と言えば3.のルートで、国道28号と国道428号が分岐する神戸市兵庫区の有馬道交差点から国道176号と合流する神戸市北区の日下部交差点までの区間を指すのが一般的である。地図によっては、有馬口交差点を右折して有馬温泉を通り、1.のルートである旧・湯山街道の兵庫県道51号宝塚唐櫃線が国道176号と合流する西宮市の大多田橋交差点までを「有馬街道」としているものもある。また、1.や2.の街道沿いであった地域では、現在でも一部を「有馬街道」もしくは「有馬道」と呼んでいる場合もある。
○概要
「有馬街道」「有馬道」と呼ばれた道は歴史的に以下の三つのルートがあった。
1.神崎(尼崎市) - 伊丹(伊丹市) - 小浜(宝塚市) - 生瀬(西宮市) - 有馬温泉。
別名「湯山(湯乃山)街道(ゆのやまかいどう)」。このルートは最も歴史が古く、有馬温泉へ行く天皇や貴族、武家が往来したとされる道。大阪の難波宮が起点だとする説もある。京都からの道筋である西国街道から池田で分岐し小浜でこのルートに合流する道も有馬街道(有馬道)と呼ばれていたようである。また、羽柴秀吉が三木城を攻める(三木合戦)折に、この街道を有馬温泉から三木まで延長整備したことにより、姫路から京都への最短ルートとして利用されるようになり、姫路 - 有馬温泉間も「有馬街道」もしくは「湯山街道」と呼ばれていた。なお、「湯山(ゆのやま)」とは有馬温泉の別名で、有馬温泉の場所が摂津国有馬郡湯山村であったことに由来する。
2.深江(神戸市東灘区)- 雨ヶ峠(六甲山)- 有馬温泉。
別名「魚屋道(ととやみち)」。現在の神戸市道有馬住吉線で、魚問屋が有馬温泉の宿に魚を卸す際に1.の湯山街道を経由して運搬すると、時間がかかるのと継立による運搬費用がかさむため、六甲山を越えるルートで魚を運ぶようになり、道が出来たとされる。阪神電車深江駅の南側にある大日神社から西国浜街道と分岐している。
3.平野(神戸市兵庫区)-天王谷-山田(神戸市北区)-唐櫃(有馬口)-道場(神戸市北区)-三田(三田市)。
現在の兵庫県道15号神戸三田線。(神戸市兵庫区~神戸市北区皆森交差点間は国道428号と重複)明治7年(1874年)に、「天王谷越え」と呼ばれていた山道を、有馬郡役所があった三田まで整備した道。現在、「有馬街道」と言えば3.のルートで、国道28号と国道428号が分岐する神戸市兵庫区の有馬道交差点から国道176号と合流する神戸市北区の日下部交差点までの区間を指すのが一般的である。地図によっては、有馬口交差点を右折して有馬温泉を通り、1.のルートである旧・湯山街道の兵庫県道51号宝塚唐櫃線が国道176号と合流する西宮市の大多田橋交差点までを「有馬街道」としているものもある。また、1.や2.の街道沿いであった地域では、現在でも一部を「有馬街道」もしくは「有馬道」と呼んでいる場合もある。
朝日軍道
朝日軍道は、かつて、置賜地方と庄内地方を結んでいた山岳道路。飛地となっていた上杉氏の所領を連絡する目的で使われた。
○ルート
長井市草岡-長井葉山-御影森山-大朝日岳-西朝日岳-三方境-以東岳-大鳥池-茶畑山-高安山-八久和峠-鶴岡市鱒渕
○歴史
朝日軍道は、全長65kmにのぼる日本の歴史の中でも有数の山岳縦貫路である。しかも、2000m級の朝日連峰を通る軍事道路である。朝日軍道は、上杉景勝の家臣、直江兼続によって開削された。1598年(慶長3年)、景勝は豊臣秀吉の命により、越後から蒲生氏郷が治めていた会津へと移封された。これにより、上杉の所領は、会津、仙道、置賜、庄内、佐渡の120万石となった。佐渡は別として庄内地方以外の各所領は地続きになっていたが、庄内地方のみ飛地となっており、景勝の居城である会津若松城から庄内に向かうには、必ず他国を経由せねばならなかった。特に、村山地方を領有していたのは最上義光であり、上杉と最上は、お互いに領内の動向に目を光らせる宿敵の関係にあった。一方の越後も上杉の旧領であったため、新領主となった堀秀治は、上杉の動向に目を光らせていた。そこで、米沢城を居城とし、置賜を領有していた上杉氏家臣の直江兼続は、置賜と庄内を直接結ぶ道路として、朝日連峰の嶺を伝い、途中麓に降りることのない、馬が通れる軍道を秘密裏に開削することにし、苦労の末に1年あまりで完成させた。朝日軍道のルートは、もともと長井葉山、大朝日岳などが修験道の聖山として崇拝されており、山伏が行きかっていたことから、その間道を整備し、接続することで結ばれたため、比較的短時間で完成する人が出来たが、それでも、数百人にも及ぶ人夫が動員されたといわれる。なお、上杉家に残された文書では、朝日軍道ではなく「庄内新道」とされている。朝日軍道は秘密裏に作られたが、大規模な工事であったがゆえに、早晩大沼(現朝日町大沼)浮島稲荷神社別当の大行院により、最上義光の耳にも入った。義光はこの道路を非常に警戒し、特に、軍事の拠点にもなりうる番小屋の設置や、番人の配置には神経を尖らせたと言う。この道路は、人の往来の他にも荷駄による物資輸送にも使われた。この軍道が歴史の表舞台に登場したのは、関ヶ原の戦いと同時に起こった慶長出羽合戦の時である。この時、上杉方の酒田城主志田修理義秀は、六十里越街道を越えて、最上方の白岩城(現寒河江市白岩)を攻略していたが、関ヶ原の戦いにおける東軍勝利の報に接し、直江兼続を総大将とする上杉軍は、撤退戦の末、米沢城に帰還した。その際、志田軍には、帰還命令が遅れたため、最上領内に取り残されることとなってしまった。そこで、志田軍は大井沢(現西川町大井沢)から大朝日岳まで戻り、11月のすでに冠雪した朝日軍道を通って、酒田城まで帰還することに成功した。これが表舞台に登場した朝日軍道である。その後、庄内地方は最上軍に攻められ、ついには酒田城を攻め落とされる。そして関ヶ原の戦いの仕置きにより、上杉景勝は所領を大幅に減らされ、米沢30万石のみとなってしまった。これにより、置賜地方と庄内地方を連絡する朝日軍道の必要性はなくなり、あっという間に廃道となってしまった。
○ルート
長井市草岡-長井葉山-御影森山-大朝日岳-西朝日岳-三方境-以東岳-大鳥池-茶畑山-高安山-八久和峠-鶴岡市鱒渕
○歴史
朝日軍道は、全長65kmにのぼる日本の歴史の中でも有数の山岳縦貫路である。しかも、2000m級の朝日連峰を通る軍事道路である。朝日軍道は、上杉景勝の家臣、直江兼続によって開削された。1598年(慶長3年)、景勝は豊臣秀吉の命により、越後から蒲生氏郷が治めていた会津へと移封された。これにより、上杉の所領は、会津、仙道、置賜、庄内、佐渡の120万石となった。佐渡は別として庄内地方以外の各所領は地続きになっていたが、庄内地方のみ飛地となっており、景勝の居城である会津若松城から庄内に向かうには、必ず他国を経由せねばならなかった。特に、村山地方を領有していたのは最上義光であり、上杉と最上は、お互いに領内の動向に目を光らせる宿敵の関係にあった。一方の越後も上杉の旧領であったため、新領主となった堀秀治は、上杉の動向に目を光らせていた。そこで、米沢城を居城とし、置賜を領有していた上杉氏家臣の直江兼続は、置賜と庄内を直接結ぶ道路として、朝日連峰の嶺を伝い、途中麓に降りることのない、馬が通れる軍道を秘密裏に開削することにし、苦労の末に1年あまりで完成させた。朝日軍道のルートは、もともと長井葉山、大朝日岳などが修験道の聖山として崇拝されており、山伏が行きかっていたことから、その間道を整備し、接続することで結ばれたため、比較的短時間で完成する人が出来たが、それでも、数百人にも及ぶ人夫が動員されたといわれる。なお、上杉家に残された文書では、朝日軍道ではなく「庄内新道」とされている。朝日軍道は秘密裏に作られたが、大規模な工事であったがゆえに、早晩大沼(現朝日町大沼)浮島稲荷神社別当の大行院により、最上義光の耳にも入った。義光はこの道路を非常に警戒し、特に、軍事の拠点にもなりうる番小屋の設置や、番人の配置には神経を尖らせたと言う。この道路は、人の往来の他にも荷駄による物資輸送にも使われた。この軍道が歴史の表舞台に登場したのは、関ヶ原の戦いと同時に起こった慶長出羽合戦の時である。この時、上杉方の酒田城主志田修理義秀は、六十里越街道を越えて、最上方の白岩城(現寒河江市白岩)を攻略していたが、関ヶ原の戦いにおける東軍勝利の報に接し、直江兼続を総大将とする上杉軍は、撤退戦の末、米沢城に帰還した。その際、志田軍には、帰還命令が遅れたため、最上領内に取り残されることとなってしまった。そこで、志田軍は大井沢(現西川町大井沢)から大朝日岳まで戻り、11月のすでに冠雪した朝日軍道を通って、酒田城まで帰還することに成功した。これが表舞台に登場した朝日軍道である。その後、庄内地方は最上軍に攻められ、ついには酒田城を攻め落とされる。そして関ヶ原の戦いの仕置きにより、上杉景勝は所領を大幅に減らされ、米沢30万石のみとなってしまった。これにより、置賜地方と庄内地方を連絡する朝日軍道の必要性はなくなり、あっという間に廃道となってしまった。
秋田街道
秋田街道は、日本に複数ある街道名。
生保内・雫石街道―国見峠越 盛岡藩の盛岡城下(岩手県盛岡市)から国見峠を越えて久保田藩(秋田藩)領の生保内に至る奥羽山脈越えの街道。以下で述べる。
雫石街道―国見峠越―生保内(角館)街道 盛岡城下から国見峠を越えて久保田藩領の角館に至る奥羽山脈越えの街道。
羽州街道の久保田藩領内の別称(秋田道、佐竹道)。
国道46号(岩手県盛岡市 - 秋田県秋田市)の別称。
秋田街道は、盛岡城下(岩手県盛岡市)から国見峠を越えて久保田藩(秋田藩)領の生保内に至る奥羽山脈越えの街道。現在の国道46号に相当する。
○概要
古代より主に戦略の道として往来が盛んで、南部氏の出羽国進出、戸沢氏の滴石(雫石)から角館への移動など、国見峠越えが確かな道として使われてきた記録がある。江戸時代、盛岡城が盛岡藩南部氏の居城となって以来、盛岡と秋田を結ぶ最短の道として利用された。西廻り航路で土崎湊(秋田湊)に陸揚げされた物資の輸送路として整備され、宝暦年間に野辺地湊が開港し奥州街道を通じた輸送が行われるようになっても、盛岡の近江商人は土崎湊から陸送した方が距離も近いとして秋田街道を利用し続けた。文化年代(1804 - 18)の『秋田藩経済秘録』には、土崎で陸揚げした西国の塩や銀・木綿・古手・綿類・茶・小豆・すげ笠・越中富山の売薬などが盛岡に運ばれ、盛岡からは大量の塩干魚・海藻類が秋田へ運ばれたとある。享保年代(1716 - 36)の『雫石記録』には、一日に千駄の物資が交流したとある。また、幕府・諸藩の馬買役人や諸国巡見使が仙北郡(秋田県)から雫石経由で盛岡に入る道としても使われた。盛岡藩では、盛岡を出る時は「雫石街道」と呼び(盛岡砂子)、雫石では「秋田往来」と呼んでいた。また、久保田藩では生保内街道、南部街道など、行き先や目的によってさまざまな呼称が用いられていた。雫石に通じる道は、盛岡築城以前は篠木坂峠や大沢坂峠、鬼古里坂峠などいずれも七ツ森の北側を通るものであったが、江戸時代になって、大釜を経由して七ツ森の南を通る街道が整備された。1641年(寛永18年)頃に大改修が行われ、一里塚を造り、松の並木を植えつけている。戊辰戦争時には盛岡藩と久保田藩の攻防において、国見峠近辺も戦場となった。
○御馬買衆
毎年秋に江戸幕府から「公儀御馬買衆」、諸大名から「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、刈田郡宮(宮城県)から笹谷街道を通り出羽国に出て、途中横手の馬市で仕入れた後、六郷・角館・生保内を経由して国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。このため、奥州街道すじの宿駅・伝馬制度・街道と同じように秋田街道も整備された。公儀御馬買衆は1625年(寛永2年)にはじめられ、1690年(元禄3年)を最後に廃止されたが、雫石には専用の御仮屋を作り(本陣は無かった)、家老が出迎えて接待するほどであった。ある年の記録によれば一行の人数は五十人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で、11月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという。
○明治以降
1872年(明治5年)道路改修の願書に秋田街道の名が認められる。1875年(明治8年)、岩手・秋田両県により馬車の通行可能な改修工事を行い、国見峠を経由せずに的方(現・仙岩峠)と峰切(現・ヒヤ潟)の稜線上を通行する新道が開鑿され、同年10月までに完了し、盛岡鍛冶丁(現 盛岡市紺屋町)の盛岡藩領内道路の元標(鍛冶丁一里塚)が起点となったが、仙北峠越えの道も冬の車馬の通行は不可能であった。県境から岩手県側は、明治8年に県道に指定され、1882年 (明治15年)には岩手県で唯一の一等県道として「秋田街道(盛岡ヨリ雫石・橋場を経テ秋田県生保内ニ到ル、途中二駅)」となった。1996年(平成8年)11月、国見峠(岩手県雫石町 - 秋田県田沢湖町(現仙北市))が文化庁「歴史の道百選」のひとつ『生保内・雫石街道―国見峠越』として選定された。
○宿場
盛岡宿(岩手県盛岡市)-岩手郡仁王村字四ツ家(現・盛岡市本町通二丁目)にて奥州街道より分岐
雫石宿(岩手県岩手郡雫石町)
橋場宿(岩手県岩手郡雫石町)
生保内宿(秋田県仙北市田沢湖生保内)
○関所
橋場関(雫石 - 生保内間、盛岡藩側)
生保内関(雫石 - 生保内間、久保田藩側)
○一里塚 [編集]前潟(岩手県盛岡市)
日向(岩手県岩手郡滝沢村大釜字中道131-4)
生森(岩手県岩手郡雫石町)
高前田(岩手県岩手郡雫石町)
赤渕(岩手県岩手郡雫石町)
橋場(岩手県岩手郡雫石町)
土のぼっと(秋田県仙北市田沢湖生保内)
六枚野(秋田県仙北市)
○峠
江戸時代までの峠道
国見峠(雫石 - 生保内間)
明治新道
仙岩峠(雫石 - 生保内間)
生保内・雫石街道―国見峠越 盛岡藩の盛岡城下(岩手県盛岡市)から国見峠を越えて久保田藩(秋田藩)領の生保内に至る奥羽山脈越えの街道。以下で述べる。
雫石街道―国見峠越―生保内(角館)街道 盛岡城下から国見峠を越えて久保田藩領の角館に至る奥羽山脈越えの街道。
羽州街道の久保田藩領内の別称(秋田道、佐竹道)。
国道46号(岩手県盛岡市 - 秋田県秋田市)の別称。
秋田街道は、盛岡城下(岩手県盛岡市)から国見峠を越えて久保田藩(秋田藩)領の生保内に至る奥羽山脈越えの街道。現在の国道46号に相当する。
○概要
古代より主に戦略の道として往来が盛んで、南部氏の出羽国進出、戸沢氏の滴石(雫石)から角館への移動など、国見峠越えが確かな道として使われてきた記録がある。江戸時代、盛岡城が盛岡藩南部氏の居城となって以来、盛岡と秋田を結ぶ最短の道として利用された。西廻り航路で土崎湊(秋田湊)に陸揚げされた物資の輸送路として整備され、宝暦年間に野辺地湊が開港し奥州街道を通じた輸送が行われるようになっても、盛岡の近江商人は土崎湊から陸送した方が距離も近いとして秋田街道を利用し続けた。文化年代(1804 - 18)の『秋田藩経済秘録』には、土崎で陸揚げした西国の塩や銀・木綿・古手・綿類・茶・小豆・すげ笠・越中富山の売薬などが盛岡に運ばれ、盛岡からは大量の塩干魚・海藻類が秋田へ運ばれたとある。享保年代(1716 - 36)の『雫石記録』には、一日に千駄の物資が交流したとある。また、幕府・諸藩の馬買役人や諸国巡見使が仙北郡(秋田県)から雫石経由で盛岡に入る道としても使われた。盛岡藩では、盛岡を出る時は「雫石街道」と呼び(盛岡砂子)、雫石では「秋田往来」と呼んでいた。また、久保田藩では生保内街道、南部街道など、行き先や目的によってさまざまな呼称が用いられていた。雫石に通じる道は、盛岡築城以前は篠木坂峠や大沢坂峠、鬼古里坂峠などいずれも七ツ森の北側を通るものであったが、江戸時代になって、大釜を経由して七ツ森の南を通る街道が整備された。1641年(寛永18年)頃に大改修が行われ、一里塚を造り、松の並木を植えつけている。戊辰戦争時には盛岡藩と久保田藩の攻防において、国見峠近辺も戦場となった。
○御馬買衆
毎年秋に江戸幕府から「公儀御馬買衆」、諸大名から「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、刈田郡宮(宮城県)から笹谷街道を通り出羽国に出て、途中横手の馬市で仕入れた後、六郷・角館・生保内を経由して国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。このため、奥州街道すじの宿駅・伝馬制度・街道と同じように秋田街道も整備された。公儀御馬買衆は1625年(寛永2年)にはじめられ、1690年(元禄3年)を最後に廃止されたが、雫石には専用の御仮屋を作り(本陣は無かった)、家老が出迎えて接待するほどであった。ある年の記録によれば一行の人数は五十人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で、11月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという。
○明治以降
1872年(明治5年)道路改修の願書に秋田街道の名が認められる。1875年(明治8年)、岩手・秋田両県により馬車の通行可能な改修工事を行い、国見峠を経由せずに的方(現・仙岩峠)と峰切(現・ヒヤ潟)の稜線上を通行する新道が開鑿され、同年10月までに完了し、盛岡鍛冶丁(現 盛岡市紺屋町)の盛岡藩領内道路の元標(鍛冶丁一里塚)が起点となったが、仙北峠越えの道も冬の車馬の通行は不可能であった。県境から岩手県側は、明治8年に県道に指定され、1882年 (明治15年)には岩手県で唯一の一等県道として「秋田街道(盛岡ヨリ雫石・橋場を経テ秋田県生保内ニ到ル、途中二駅)」となった。1996年(平成8年)11月、国見峠(岩手県雫石町 - 秋田県田沢湖町(現仙北市))が文化庁「歴史の道百選」のひとつ『生保内・雫石街道―国見峠越』として選定された。
○宿場
盛岡宿(岩手県盛岡市)-岩手郡仁王村字四ツ家(現・盛岡市本町通二丁目)にて奥州街道より分岐
雫石宿(岩手県岩手郡雫石町)
橋場宿(岩手県岩手郡雫石町)
生保内宿(秋田県仙北市田沢湖生保内)
○関所
橋場関(雫石 - 生保内間、盛岡藩側)
生保内関(雫石 - 生保内間、久保田藩側)
○一里塚 [編集]前潟(岩手県盛岡市)
日向(岩手県岩手郡滝沢村大釜字中道131-4)
生森(岩手県岩手郡雫石町)
高前田(岩手県岩手郡雫石町)
赤渕(岩手県岩手郡雫石町)
橋場(岩手県岩手郡雫石町)
土のぼっと(秋田県仙北市田沢湖生保内)
六枚野(秋田県仙北市)
○峠
江戸時代までの峠道
国見峠(雫石 - 生保内間)
明治新道
仙岩峠(雫石 - 生保内間)
秋月街道
秋月街道は、豊前国小倉藩と筑後国久留米藩を結んでいた街道。現在の福岡県朝倉市で朝倉街道(現・国道386号)と交わる。この交差点一帯は交通の要所であるため、秋月藩でなく福岡藩が管理していた。途中の宿場は、徳力-呼野-採銅所-香春-猪膝-大隈-千手-秋月-野町-松崎となる。現在の国道322号にほぼ一致する。また、長崎街道のバイパスでもあった。古くは7世紀に大宰府と豊後国を結ぶ街道として整備され、その後も筑後と豊後を結ぶ要路として繁栄し、参勤交代にも利用されたほか、豊臣秀吉も通ったことがある。江戸時代初期に秋月藩主黒田長興の意向で八丁峠越えのルートが秋月城下を通らないように変更され(城下の様子が他国者に詳しく知られるのはまずいという理由)、新ルートが不便だったため長崎街道への交通の移転が進んだという。
会津中街道
会津中街道は、江戸時代に会津西街道の代替街道として整備された街道。
○概要
1683年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が出現した際に、会津西街道が通行不能になり会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に整備された。氏家宿から矢板宿、板室宿を経て那須山中の三斗小屋宿、標高1,468mの大峠、松川宿などを経て会津に至る代替街道である。会津西街道が再整備され次第に使われなくなっていった。自然湖である五十里湖はその後1723年(享保8年)の大雨で決壊し、死者1万2千人を出す土石流となり、宇都宮、真岡近辺まで被害が及んだ。
○歴史
1646年(正保3年) 会津藩により辰街道が整備される。
1653年(承応2年) 会津藩により辰街道の宿駅に附子村を指定される。
1667年(寛文7年) 会津領内の街道に一里塚の整備令が出される。
1683年(天和8年) 9月に発生した日光大地震により会津西街道が交通不能になる。
1694年(元禄7年) 湯宮村又衛門ほか2名により大峠開発請願書が会津藩に提出される。
1695年(元禄8年) 3月、会津藩による道筋村々の調査が行われる。また、坂巻家より矢板宿問屋開設願いが出される。
同年 7月、荒井村名主により「間数相改差し上げ調」が報告される。
同年 8月、田嶋にて工事入札行われる。
同年 9月5日、工事着工される。
同年 9月28日、会津松川宿~下野板室宿で「新道はじめ」廻米2駄
同年 10月9日、完工する。
同年 10月15日、工事完成が南山代官依田五兵衛により会津藩へ報告される。
同年 10月19日、各継立場間の測量が行われる。
1696年(元禄9年) 1月、下野川崎宿に高札が立つ。
同年 4月、会津藩3代藩主、松平 正容が参勤交代のため通行する。
同年 5月、越後村松藩3代藩主、堀 直利が参勤交代のため通行する。
1697年(元禄10年) 6月、会津藩主、松平 正容が参勤交代のため通行する。
1698年(元禄11年) 5月、越後村松藩主、堀 直利が参勤交代のため通行する。
1699年(元禄12年) 8月、暴風雨により各所に被害が出る。
1704年(元禄17年) 6月10日、田町問屋の大橘家が日限定書のため評定所へ召し出される。
同年 7月、暴風雨により通行困難になり、脇街道に編入される。
○宿場
1.若松城下 (福島県会津若松市)
2.面川宿 (福島県会津若松市門田町面川)
3.香塩宿 (福島県会津若松市大戸町上三寄香塩)
4.小塩宿 (福島県会津若松市大戸町上小塩)
5.桑原宿 (福島県会津若松市大戸町上小塩)
6.小出宿
7.弥五島宿
8.松川宿
9.野際宿 (福島県南会津郡下郷町野際新田)
(大峠:標高1,468m)
10.三斗小屋宿 (栃木県那須塩原市那須岳国有林)
11.板室宿 (栃木県那須塩原市板室)
12.百村宿
13.高林宿
14.横林宿
15.石上宿
16.山田宿
17.矢板宿 (栃木県矢板市)
18.川崎宿 (栃木県矢板市川崎反町)
19.乙畑宿 (栃木県矢板市乙畑)
20.氏家宿 (栃木県さくら市氏家)
(阿久津河岸)
○概要
1683年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が出現した際に、会津西街道が通行不能になり会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に整備された。氏家宿から矢板宿、板室宿を経て那須山中の三斗小屋宿、標高1,468mの大峠、松川宿などを経て会津に至る代替街道である。会津西街道が再整備され次第に使われなくなっていった。自然湖である五十里湖はその後1723年(享保8年)の大雨で決壊し、死者1万2千人を出す土石流となり、宇都宮、真岡近辺まで被害が及んだ。
○歴史
1646年(正保3年) 会津藩により辰街道が整備される。
1653年(承応2年) 会津藩により辰街道の宿駅に附子村を指定される。
1667年(寛文7年) 会津領内の街道に一里塚の整備令が出される。
1683年(天和8年) 9月に発生した日光大地震により会津西街道が交通不能になる。
1694年(元禄7年) 湯宮村又衛門ほか2名により大峠開発請願書が会津藩に提出される。
1695年(元禄8年) 3月、会津藩による道筋村々の調査が行われる。また、坂巻家より矢板宿問屋開設願いが出される。
同年 7月、荒井村名主により「間数相改差し上げ調」が報告される。
同年 8月、田嶋にて工事入札行われる。
同年 9月5日、工事着工される。
同年 9月28日、会津松川宿~下野板室宿で「新道はじめ」廻米2駄
同年 10月9日、完工する。
同年 10月15日、工事完成が南山代官依田五兵衛により会津藩へ報告される。
同年 10月19日、各継立場間の測量が行われる。
1696年(元禄9年) 1月、下野川崎宿に高札が立つ。
同年 4月、会津藩3代藩主、松平 正容が参勤交代のため通行する。
同年 5月、越後村松藩3代藩主、堀 直利が参勤交代のため通行する。
1697年(元禄10年) 6月、会津藩主、松平 正容が参勤交代のため通行する。
1698年(元禄11年) 5月、越後村松藩主、堀 直利が参勤交代のため通行する。
1699年(元禄12年) 8月、暴風雨により各所に被害が出る。
1704年(元禄17年) 6月10日、田町問屋の大橘家が日限定書のため評定所へ召し出される。
同年 7月、暴風雨により通行困難になり、脇街道に編入される。
○宿場
1.若松城下 (福島県会津若松市)
2.面川宿 (福島県会津若松市門田町面川)
3.香塩宿 (福島県会津若松市大戸町上三寄香塩)
4.小塩宿 (福島県会津若松市大戸町上小塩)
5.桑原宿 (福島県会津若松市大戸町上小塩)
6.小出宿
7.弥五島宿
8.松川宿
9.野際宿 (福島県南会津郡下郷町野際新田)
(大峠:標高1,468m)
10.三斗小屋宿 (栃木県那須塩原市那須岳国有林)
11.板室宿 (栃木県那須塩原市板室)
12.百村宿
13.高林宿
14.横林宿
15.石上宿
16.山田宿
17.矢板宿 (栃木県矢板市)
18.川崎宿 (栃木県矢板市川崎反町)
19.乙畑宿 (栃木県矢板市乙畑)
20.氏家宿 (栃木県さくら市氏家)
(阿久津河岸)
会津西街道
会津西街道は、江戸時代に会津藩主・保科正之によって整備された、会津の若松城下から下野の今市に至る街道。下野街道とも称する。
○概要
経路は福島県会津若松市から栃木県日光市今市(旧今市市)までの全長130キロメートルに及び、現在の福島県道131号下郷会津本郷線、国道121号に沿っている。会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道、あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。江戸時代には会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な街道であった。1884年(明治17年)、会津西街道に代わる新道、会津三方道路(国道121号の前身)が整備されたことに伴い、主要街道としての機能は衰退していった。
○史跡指定
街道筋にある大内宿には往時の町並みや建造物が残されており、1981年(昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、氷玉峠(福島県下郷町、会津若松市および会津美里町の境界付近)から大内峠、大内宿、倉谷宿を経て国道121号にある楢原宿に至る経路には石畳などの旧街道の跡が残されている。下郷町域の旧街道は延長約22キロメートルに及び、このうち大内宿を中心とした約10キロメートルが旧状をよく留めている。この古道と三郡境の塚、茶屋跡、一里塚、馬頭観世音碑などの関連遺跡が、2002年(平成14年)3月19日に下野街道として国の史跡に指定されている。
○宿場
若松城下-福永宿-関山宿-(氷玉峠)-(大内峠)-大内宿-(中山峠)-倉谷宿-(八幡峠)-楢原宿-田島宿-川島宿-糸沢宿-(山王峠)-横川宿-中三依宿-五十里宿-高原新田宿-藤原宿-大原宿-高徳宿-大桑宿-今市宿
○会津中街道
1683年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が出現した際に、会津西街道は通行不能になり会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に代替街道として会津中街道が整備された。しかし会津中街道は会津西街道が再整備されると次第に使われなくなっていった。会津西街道を通行止めにしていた自然湖である五十里湖はその後1723年(享保8年)の大雨で決壊し、死者1万2千人を出す土石流となり、宇都宮、真岡近辺まで被害が及んだ。
○概要
経路は福島県会津若松市から栃木県日光市今市(旧今市市)までの全長130キロメートルに及び、現在の福島県道131号下郷会津本郷線、国道121号に沿っている。会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道、あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。江戸時代には会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な街道であった。1884年(明治17年)、会津西街道に代わる新道、会津三方道路(国道121号の前身)が整備されたことに伴い、主要街道としての機能は衰退していった。
○史跡指定
街道筋にある大内宿には往時の町並みや建造物が残されており、1981年(昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、氷玉峠(福島県下郷町、会津若松市および会津美里町の境界付近)から大内峠、大内宿、倉谷宿を経て国道121号にある楢原宿に至る経路には石畳などの旧街道の跡が残されている。下郷町域の旧街道は延長約22キロメートルに及び、このうち大内宿を中心とした約10キロメートルが旧状をよく留めている。この古道と三郡境の塚、茶屋跡、一里塚、馬頭観世音碑などの関連遺跡が、2002年(平成14年)3月19日に下野街道として国の史跡に指定されている。
○宿場
若松城下-福永宿-関山宿-(氷玉峠)-(大内峠)-大内宿-(中山峠)-倉谷宿-(八幡峠)-楢原宿-田島宿-川島宿-糸沢宿-(山王峠)-横川宿-中三依宿-五十里宿-高原新田宿-藤原宿-大原宿-高徳宿-大桑宿-今市宿
○会津中街道
1683年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が出現した際に、会津西街道は通行不能になり会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に代替街道として会津中街道が整備された。しかし会津中街道は会津西街道が再整備されると次第に使われなくなっていった。会津西街道を通行止めにしていた自然湖である五十里湖はその後1723年(享保8年)の大雨で決壊し、死者1万2千人を出す土石流となり、宇都宮、真岡近辺まで被害が及んだ。
芦浦道
芦浦道は、近世に近江国栗太郡を南北に貫いていた東海道の枝道の一つ。大江(現大津市大江3丁目)?芦浦(現草津市芦浦町)までの約11kmをいう。明治以降県道となり、芦浦街道と呼称される。蘆浦路、瀬田道とも。「近江国栗太郡村誌」(明治17~18年)には広いところで「幅壱間(約182cm)」(御倉村)とある通り、矢橋道や東海道、中山道などの主要街道が三間(545.5cm)前後であるのとくらべると狭く、周辺庶民の生活道であるとともに、芦浦観音寺への参詣道でもあった。近江国・湖南地域には東海道と港を結ぶ東西の枝道が多いが、芦浦道は湖岸に沿った南北の道路であった。 浜街道が整備されにしたがって、その役割を譲っていった。
○経路(周辺の集落)
大江→南大萱→新浜→矢橋→御倉→木川→上笠→下笠→穴→芦浦
○周辺の文化財
芦浦観音寺(国の史跡)-阿弥陀堂・書院(重要文化財)
鞭碕神社:表門が重要文化財
石津寺:本堂が重要文化財
○経路(周辺の集落)
大江→南大萱→新浜→矢橋→御倉→木川→上笠→下笠→穴→芦浦
○周辺の文化財
芦浦観音寺(国の史跡)-阿弥陀堂・書院(重要文化財)
鞭碕神社:表門が重要文化財
石津寺:本堂が重要文化財
2012年9月19日水曜日
越後街道 (会津街道)
会津街道は、日本の街道である。陸奥国の会津若松と越後国の新発田を結んだ。越後国新発田側からは会津街道と呼ばれることが多いが、陸奥国会津側からは越後街道(えちごかいどう)などとも呼ばれる。また、現代における国道49号の福島県会津若松市から新潟県の区間の通称としても知られる。
○概要
新発田藩と村上藩が参勤交代に利用していた。当時、会津五街道と呼ばれていた街道のひとつで、海産物 (越後側から)、米 (会津側から)などが運ばれた。また、佐渡三道のひとつだった 。
○経路
・福島県内
会津若松市中心部から七日町を経由し、現在の会津若松市神指町を経由後、阿賀川を渡る。その後、現在の河沼郡会津坂下町を経由後、鐘撞堂峠を通り、只見川を渡る。束松峠、青坂峠を経由後、現在の耶麻郡西会津町中心部の野沢地区に至る。野沢からは車峠を経由後、県境の鳥井峠に至る。
・新潟県内
鳥井峠を経た後、現在の東蒲原郡阿賀町津川地区に至る。阿賀野川を渡ったのち、諏訪峠を経て、現在の新発田市に至る。
・経路の変更
1611年の会津地震以前は坂下宿などを経由しておらず、現在の喜多方市高郷地区付近を経由していた。
○宿場
会津若松 (福島県会津若松市)
坂下宿 (福島県河沼郡会津坂下町)
塔寺宿 (福島県耶麻郡会津坂下町)
気多宮宿 (福島県耶麻郡会津坂下町)
片門宿 (福島県耶麻郡会津坂下町)
本名宿 (福島県耶麻郡会津坂下町)
縄沢宿 (福島県耶麻郡西会津町)
津川宿 (新潟県東蒲原郡阿賀町)
綱木宿 (新潟県東蒲原郡阿賀町)
赤谷宿 (新潟県新発田市)
山内宿 (新潟県新発田市)
新発田 (新潟県新発田市)
○主な峠
鐘撞堂峠
束松峠
青坂峠
車峠
鳥井峠
惣座峠
諏訪峠
○現代
現在、福島県いわき市から同県郡山市、同県会津若松市などを経由して新潟県新潟市までを結ぶ国道49号の、福島県会津若松市から新潟方面に向けての通称として越後街道が使われている。また、新潟県側からは若松街道と呼ばれることもある。加えて、現在では同県郡山市付近からの新潟方面について、従来より長い区間も越後街道と通称する例がある。
○江戸時代と現代の違い
江戸時代の会津街道と比較するとさまざまな違いがある。会津側から見た目的地が、江戸時代は新発田だったのに対して、現在の国道49号は新潟市となっており、新潟県阿賀町津川地区以西の区間など、経路が異なる。明治時代、三島通庸によって行われた会津三方道路の事業では、越後街道の改良も行われたが、束松峠付近では経路が変更され、南方の藤峠を通るようになった。現在の国道も藤峠を経由している。加えて、その後は昭和40年代などにも道路の改良が行われているほか、現在はその後に開通した磐越自動車道などによっても地域が結ばれている。また、江戸時代の越後街道における津川地区以西の新発田までの区間では、新潟県道14号新発田津川線がほぼ近い経路で指定されている
○概要
新発田藩と村上藩が参勤交代に利用していた。当時、会津五街道と呼ばれていた街道のひとつで、海産物 (越後側から)、米 (会津側から)などが運ばれた。また、佐渡三道のひとつだった 。
○経路
・福島県内
会津若松市中心部から七日町を経由し、現在の会津若松市神指町を経由後、阿賀川を渡る。その後、現在の河沼郡会津坂下町を経由後、鐘撞堂峠を通り、只見川を渡る。束松峠、青坂峠を経由後、現在の耶麻郡西会津町中心部の野沢地区に至る。野沢からは車峠を経由後、県境の鳥井峠に至る。
・新潟県内
鳥井峠を経た後、現在の東蒲原郡阿賀町津川地区に至る。阿賀野川を渡ったのち、諏訪峠を経て、現在の新発田市に至る。
・経路の変更
1611年の会津地震以前は坂下宿などを経由しておらず、現在の喜多方市高郷地区付近を経由していた。
○宿場
会津若松 (福島県会津若松市)
坂下宿 (福島県河沼郡会津坂下町)
塔寺宿 (福島県耶麻郡会津坂下町)
気多宮宿 (福島県耶麻郡会津坂下町)
片門宿 (福島県耶麻郡会津坂下町)
本名宿 (福島県耶麻郡会津坂下町)
縄沢宿 (福島県耶麻郡西会津町)
津川宿 (新潟県東蒲原郡阿賀町)
綱木宿 (新潟県東蒲原郡阿賀町)
赤谷宿 (新潟県新発田市)
山内宿 (新潟県新発田市)
新発田 (新潟県新発田市)
○主な峠
鐘撞堂峠
束松峠
青坂峠
車峠
鳥井峠
惣座峠
諏訪峠
○現代
現在、福島県いわき市から同県郡山市、同県会津若松市などを経由して新潟県新潟市までを結ぶ国道49号の、福島県会津若松市から新潟方面に向けての通称として越後街道が使われている。また、新潟県側からは若松街道と呼ばれることもある。加えて、現在では同県郡山市付近からの新潟方面について、従来より長い区間も越後街道と通称する例がある。
○江戸時代と現代の違い
江戸時代の会津街道と比較するとさまざまな違いがある。会津側から見た目的地が、江戸時代は新発田だったのに対して、現在の国道49号は新潟市となっており、新潟県阿賀町津川地区以西の区間など、経路が異なる。明治時代、三島通庸によって行われた会津三方道路の事業では、越後街道の改良も行われたが、束松峠付近では経路が変更され、南方の藤峠を通るようになった。現在の国道も藤峠を経由している。加えて、その後は昭和40年代などにも道路の改良が行われているほか、現在はその後に開通した磐越自動車道などによっても地域が結ばれている。また、江戸時代の越後街道における津川地区以西の新発田までの区間では、新潟県道14号新発田津川線がほぼ近い経路で指定されている
大岩八幡神社
大岩八幡神社は大阪府茨木市大岩に鎮座する八幡神社。
○祭神
応神天皇
○概要
大岩地区の鎮守社。現存の棟札から寛永17年(1640年)までは遡ることができる。
○五輪塔
茨木市指定文化財 建造物 第1号(平成10年4月1日指定) 高さ2.2mの地元産花崗閃緑岩。正面に「大日報身真言」の真言(風・空・火・水・地)の梵字を刻み、地輪正面には、梵字アを挟んで「八万四千人 勧進之沙門 /權少僧□圓□ 文安三年□三月日」と2行ある。 文安3年(1445年)に勧進僧によっ大勢の人びとの結縁により建立された作善塔と考えられる。
○所在地
大阪府茨木市大岩674
○例祭
10月10日
○祭神
応神天皇
○概要
大岩地区の鎮守社。現存の棟札から寛永17年(1640年)までは遡ることができる。
○五輪塔
茨木市指定文化財 建造物 第1号(平成10年4月1日指定) 高さ2.2mの地元産花崗閃緑岩。正面に「大日報身真言」の真言(風・空・火・水・地)の梵字を刻み、地輪正面には、梵字アを挟んで「八万四千人 勧進之沙門 /權少僧□圓□ 文安三年□三月日」と2行ある。 文安3年(1445年)に勧進僧によっ大勢の人びとの結縁により建立された作善塔と考えられる。
○所在地
大阪府茨木市大岩674
○例祭
10月10日
2012年9月11日火曜日
切畑群集墳1号墳(雲雀丘C北支群1号墳)
宝塚市史跡。長尾山丘陵の南斜面に築かれた古墳の中で最も東にあり、標高120m地点に石室を南に向けて開口する。墳丘は東側と西側部分が削られているがよく旧状を保っている。径約14m、高さ3.5mの円墳である。内部には両袖式の横穴式石室(全長8m、玄室長4.5m、幅1.7m、高さ2m、羨道長3.5m、幅1m、高さ1.2m、小型の石材で築かれている)があるが、未発掘で遺物の出土は明らかでない。古墳の築造年代は石室の状態から6世紀半ば以降(古墳時代後期)と考えられている。本分があるひばりが丘周辺では現在2支群5基が残っている。名が小山丘陵での他の古墳では6世紀には給料裾付近が作られ始め、7世紀になると高位置へと移動していく。しかしひばりが丘周辺では北の石きり山から石材が容易に入手できるため、6世紀後半から標高100~200mの高位置に古墳が築かれた。名がお給料の古墳の中で比較的早くから造られたものの1つであり、他の古墳群との比較においても貴重な古墳である。現在は入り口が施錠されています。雲雀丘古墳群と言う別名もあるらしい。
行ってみた感想ですが昔は山の中の古墳だったのだろうが、古墳周辺まで住宅出来ています。駅からここまで、ものすごく急な坂を登ります(宝塚市内にある古墳は急な坂を上ったところにある古墳が多いような気がする)。
所在地:宝塚市雲雀丘山手1丁目16番地、阪急雲雀丘花屋敷駅の北800m(生成幼稚園の正門横にあります)
行ってみた感想ですが昔は山の中の古墳だったのだろうが、古墳周辺まで住宅出来ています。駅からここまで、ものすごく急な坂を登ります(宝塚市内にある古墳は急な坂を上ったところにある古墳が多いような気がする)。
所在地:宝塚市雲雀丘山手1丁目16番地、阪急雲雀丘花屋敷駅の北800m(生成幼稚園の正門横にあります)
2012年9月8日土曜日
奈良街道
奈良街道は、奈良(大和国)へと至る街道の汎称であり、京都府(山城国)内においては、歴史的経緯からいくつかの経路が存在する。なお、京から伏見を経て奈良へ至る街道は、「大和街道」とも呼ばれる。奈良側からは「京街道」ともいうが、大和国(奈良県)内の道のりが短いこともあり一般的ではない。
○変遷
原形は北陸道から平城京に向かう古代官道(逢坂関を越えてから山科盆地を南に下ったあと、宇治川右岸を上り宇治を経由して奈良へ)。平安京遷都後も奈良へ向かう際は巨椋池を避け、深草大亀谷~六地蔵~宇治経由の道(現在のJR奈良線とほぼ並行)がとられた。秀吉の伏見城築城によって宇治川が改修され、伏見から対岸の向島に渡り、小倉堤上の道を抜ける街道が整備され、大和街道と呼ばれるようになった。その後昭和初期に巨椋池が干拓され、観月橋から巨椋池の二の丸池であったところを国道が通され、京都と奈良の幹線道路の役割を担うようになった。近年では、京都と奈良をつなぐ国道24号に奈良街道という愛称が付されている。
○「奈良街道」と「大和街道」の使われ方の違い
奈良街道と大和街道は、いずれも奈良(大和国)に向かう街道を指す名称であるが、京都府内では、この「奈良街道」と「大和街道」は違いを持ちながら使われている。明治時代の京都府令によると、京都から伏見街道(後に京都・伏見間の経路は竹田街道に変わる)を通り、伏見を経て、巨椋池の小倉堤上を通り、木津川を泉大橋で渡り大和国境に至る道を大和街道、深草から伏見街道と分岐し、大亀谷を通り八科峠を越え六地蔵に至り、宇治川右岸を通り宇治を経て大久保で大和街道と合流、相楽郡棚倉村(現在の木津川市)で大和街道と分岐し木津川を渡り相楽村を経て大和国境に至る道を郡山街道としている。 後に、東海道の髭茶屋追分から山科盆地を南下し六地蔵に至り、そこから宇治川右岸を通って伏見観月橋で大和街道と合流する道を奈良街道として加えている。現在では京都・奈良間の街道を指す汎称として「奈良街道」という呼称が用いられるが、小倉堤上に築かれたバイパス部分を指して言う場合は、かつての呼称からもっぱら「大和街道」と呼ばれる。また、奈良街道という名称は京都と奈良をつなぐ幹線道路の愛称として現役の幹線道路にも用いられているが、大和街道は歴史的な旧道を示すものとしての認識が強い。なお、京都中心部と奈良をつなぐ幹線道路である国道24号に対して、現在奈良街道という愛称が与えられているが、京都市内(京都・伏見間)では、奈良街道という名称はほとんど用いられない。これはその経路にある伏見は、奈良方面だけでなくかつては大阪方面への陸路・水路の玄関口でもあったこと、また、現在の国道24号の経路は竹田街道という名称が根付いているためである。京都市内には山科盆地内に奈良街道という愛称を持つ道路があり混同を避けるためともいえよう。
○奈良街道または大和街道と称される区間
以下が京都府内で奈良街道・大和街道と呼ばれる。
・大和街道(小倉堤上の道)
伏見から豊後橋(現在の観月橋)で宇治川を渡り、巨椋池(二の丸池と大池の間)に築かれた小倉堤の堤上を進み、西目川、槇島を経て、小倉からは直線的に南下して大久保で宇治からの道と合流し、奈良へと続く。明治時代には、京都から伏見街道(後に竹田街道)を経て伏見までの区間もあわせ、奈良県境までが大和街道と位置付けられた。現在は、京都・奈良間をつなぐ街道として「奈良街道」、あるいは、京都・奈良間をつなぐかつての幹線道路として「旧奈良街道」と呼ばれることもあるが、観月橋から大久保までの区間は、江戸時代から明治時代に掛けての呼称である「大和街道」と言われることが多い。 小倉堤は巨椋池干拓とその後の宅地開発に際し切り崩されたが、西目川や槇島で一部地盤が高くなっている部分が残されている。
・山科盆地内(髭茶屋追分から六地蔵)
東海道の髭茶屋追分で三条大橋への道と分かれ南西へ進み、大宅、小野、醍醐を経て、六地蔵に達する。明治時代には、前記区間と六地蔵から宇治川右岸を下り観月橋までを含めた区間が「奈良街道」と位置付けられた。大宅より南では直線上に新道が敷設されており、現在はこちらが「奈良街道」、旧道部が「旧奈良街道」と称される。髭茶屋追分から小野付近までは、大坂へと向かうかつての東海道延長部(東海道五十七次)の一部でもある。東海道は、小野付近で分岐し勧修寺、大岩街道を経て伏見へと続く。
○巨椋池東岸(六地蔵から宇治を経て大久保へ)
六地蔵(あるいは西の観月橋付近)から木幡、宇治を経て、宇治橋を渡り、大久保で小倉堤上を南下してきた大和街道と合流する。明治時代には、深草から大亀谷、八科峠を経て六地蔵までの道(現在の墨染通)とあわせて、「郡山街道」の一部として位置付けられた。現在は、郡山街道と呼ばれることは無く、奈良へ通じる街道として「奈良街道」と呼ばれる。六地蔵・宇治間では山側に新道が敷設されている。
○変遷
原形は北陸道から平城京に向かう古代官道(逢坂関を越えてから山科盆地を南に下ったあと、宇治川右岸を上り宇治を経由して奈良へ)。平安京遷都後も奈良へ向かう際は巨椋池を避け、深草大亀谷~六地蔵~宇治経由の道(現在のJR奈良線とほぼ並行)がとられた。秀吉の伏見城築城によって宇治川が改修され、伏見から対岸の向島に渡り、小倉堤上の道を抜ける街道が整備され、大和街道と呼ばれるようになった。その後昭和初期に巨椋池が干拓され、観月橋から巨椋池の二の丸池であったところを国道が通され、京都と奈良の幹線道路の役割を担うようになった。近年では、京都と奈良をつなぐ国道24号に奈良街道という愛称が付されている。
○「奈良街道」と「大和街道」の使われ方の違い
奈良街道と大和街道は、いずれも奈良(大和国)に向かう街道を指す名称であるが、京都府内では、この「奈良街道」と「大和街道」は違いを持ちながら使われている。明治時代の京都府令によると、京都から伏見街道(後に京都・伏見間の経路は竹田街道に変わる)を通り、伏見を経て、巨椋池の小倉堤上を通り、木津川を泉大橋で渡り大和国境に至る道を大和街道、深草から伏見街道と分岐し、大亀谷を通り八科峠を越え六地蔵に至り、宇治川右岸を通り宇治を経て大久保で大和街道と合流、相楽郡棚倉村(現在の木津川市)で大和街道と分岐し木津川を渡り相楽村を経て大和国境に至る道を郡山街道としている。 後に、東海道の髭茶屋追分から山科盆地を南下し六地蔵に至り、そこから宇治川右岸を通って伏見観月橋で大和街道と合流する道を奈良街道として加えている。現在では京都・奈良間の街道を指す汎称として「奈良街道」という呼称が用いられるが、小倉堤上に築かれたバイパス部分を指して言う場合は、かつての呼称からもっぱら「大和街道」と呼ばれる。また、奈良街道という名称は京都と奈良をつなぐ幹線道路の愛称として現役の幹線道路にも用いられているが、大和街道は歴史的な旧道を示すものとしての認識が強い。なお、京都中心部と奈良をつなぐ幹線道路である国道24号に対して、現在奈良街道という愛称が与えられているが、京都市内(京都・伏見間)では、奈良街道という名称はほとんど用いられない。これはその経路にある伏見は、奈良方面だけでなくかつては大阪方面への陸路・水路の玄関口でもあったこと、また、現在の国道24号の経路は竹田街道という名称が根付いているためである。京都市内には山科盆地内に奈良街道という愛称を持つ道路があり混同を避けるためともいえよう。
○奈良街道または大和街道と称される区間
以下が京都府内で奈良街道・大和街道と呼ばれる。
・大和街道(小倉堤上の道)
伏見から豊後橋(現在の観月橋)で宇治川を渡り、巨椋池(二の丸池と大池の間)に築かれた小倉堤の堤上を進み、西目川、槇島を経て、小倉からは直線的に南下して大久保で宇治からの道と合流し、奈良へと続く。明治時代には、京都から伏見街道(後に竹田街道)を経て伏見までの区間もあわせ、奈良県境までが大和街道と位置付けられた。現在は、京都・奈良間をつなぐ街道として「奈良街道」、あるいは、京都・奈良間をつなぐかつての幹線道路として「旧奈良街道」と呼ばれることもあるが、観月橋から大久保までの区間は、江戸時代から明治時代に掛けての呼称である「大和街道」と言われることが多い。 小倉堤は巨椋池干拓とその後の宅地開発に際し切り崩されたが、西目川や槇島で一部地盤が高くなっている部分が残されている。
・山科盆地内(髭茶屋追分から六地蔵)
東海道の髭茶屋追分で三条大橋への道と分かれ南西へ進み、大宅、小野、醍醐を経て、六地蔵に達する。明治時代には、前記区間と六地蔵から宇治川右岸を下り観月橋までを含めた区間が「奈良街道」と位置付けられた。大宅より南では直線上に新道が敷設されており、現在はこちらが「奈良街道」、旧道部が「旧奈良街道」と称される。髭茶屋追分から小野付近までは、大坂へと向かうかつての東海道延長部(東海道五十七次)の一部でもある。東海道は、小野付近で分岐し勧修寺、大岩街道を経て伏見へと続く。
○巨椋池東岸(六地蔵から宇治を経て大久保へ)
六地蔵(あるいは西の観月橋付近)から木幡、宇治を経て、宇治橋を渡り、大久保で小倉堤上を南下してきた大和街道と合流する。明治時代には、深草から大亀谷、八科峠を経て六地蔵までの道(現在の墨染通)とあわせて、「郡山街道」の一部として位置付けられた。現在は、郡山街道と呼ばれることは無く、奈良へ通じる街道として「奈良街道」と呼ばれる。六地蔵・宇治間では山側に新道が敷設されている。
竹田街道
竹田街道は、京(京都市中心部)と伏見(京都市伏見区)をつなぐ街道の一つ。京の七口の一つとしてあげられることもある竹田口から、旧紀伊郡竹田村(京都市伏見区竹田)を通り、伏見港へとつながっていた。 奈良街道や大坂街道の一部とも位置づけられる。現在でもなお京都市中心部と伏見市街を結ぶとともに、奈良方面へとつながる国道の一部として主要な幹線道路となっている。
○沿革
竹田街道は、江戸時代に拓かれたと言われる。車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が行われていた。その車石の一部が陶化小学校に残されている。 1895年に日本で初めての営業用の電気鉄道が、京都電気鉄道の手によってほぼ竹田街道に沿って京都駅から伏見京橋の間に敷設された。この路線は京都市電伏見線に引き継がれたが、1970年に市電全廃に先駆けて廃止された。 翌1971年に竹田街道は国道24号に指定された。
○現在の道のり
現在は京都府道115号伏見港京都停車場線(竹田街道十条より深草加賀屋敷町までは国道24号との重複)が竹田街道と呼ばれている。同府道は、竹田街道八条から伏見の京都外環状線までを結んでいる。東洞院通の延長上にあるが現在は京都駅で断絶しているため、京都駅の北側へは高倉陸橋(通称・たかばし)によって塩小路高倉で高倉通とつながっている。約1km東の山沿いを伏見街道が並行している。
○沿革
竹田街道は、江戸時代に拓かれたと言われる。車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が行われていた。その車石の一部が陶化小学校に残されている。 1895年に日本で初めての営業用の電気鉄道が、京都電気鉄道の手によってほぼ竹田街道に沿って京都駅から伏見京橋の間に敷設された。この路線は京都市電伏見線に引き継がれたが、1970年に市電全廃に先駆けて廃止された。 翌1971年に竹田街道は国道24号に指定された。
○現在の道のり
現在は京都府道115号伏見港京都停車場線(竹田街道十条より深草加賀屋敷町までは国道24号との重複)が竹田街道と呼ばれている。同府道は、竹田街道八条から伏見の京都外環状線までを結んでいる。東洞院通の延長上にあるが現在は京都駅で断絶しているため、京都駅の北側へは高倉陸橋(通称・たかばし)によって塩小路高倉で高倉通とつながっている。約1km東の山沿いを伏見街道が並行している。
大岩街道
大岩街道は、稲荷山と桃山丘陵・大岩山の間の峠道。京都市山科区と伏見区を東西につないでいる。
○概要
大津街道(滋賀県道・京都府道35号大津淀線)の一部として、江戸方面から京都を通らずに大阪へ直行する東海道五十七次のルートであったほか、深草少将の百夜通いのルートとされる。1879年(明治12年)より1921年(大正10年)まで東海道本線が並行していたが、東山トンネル・新逢坂山トンネル開通に伴う経路変更により廃線となった。現在は同線の跡地を内包する形で名神高速道路が並行している。一部の区間(直違橋一丁目交差点から深草飯食町交差点)は、かつての「第三軍道」である。
○環境問題
大岩街道を挟んで隣接する稲荷山や大岩山を含めた地域では、以前より産業廃棄物の不法投棄や野焼きなどが行われ、住環境への悪影響が問題になっていたが、京都市が1996年より立入調査や違法行為に対しての指導などを行った結果、野焼きなど環境汚染をおよぼす行為はほぼ無くなった。しかし依然として残る違反建築物があるため、2006年に「大岩街道周辺地域の良好な環境づくりの指針」を定め、引き続き対策が行われている。大岩山における廃棄物については、2008年からは行政や住民を交えて本格的な取り組みがなされている。
○概要
大津街道(滋賀県道・京都府道35号大津淀線)の一部として、江戸方面から京都を通らずに大阪へ直行する東海道五十七次のルートであったほか、深草少将の百夜通いのルートとされる。1879年(明治12年)より1921年(大正10年)まで東海道本線が並行していたが、東山トンネル・新逢坂山トンネル開通に伴う経路変更により廃線となった。現在は同線の跡地を内包する形で名神高速道路が並行している。一部の区間(直違橋一丁目交差点から深草飯食町交差点)は、かつての「第三軍道」である。
○環境問題
大岩街道を挟んで隣接する稲荷山や大岩山を含めた地域では、以前より産業廃棄物の不法投棄や野焼きなどが行われ、住環境への悪影響が問題になっていたが、京都市が1996年より立入調査や違法行為に対しての指導などを行った結果、野焼きなど環境汚染をおよぼす行為はほぼ無くなった。しかし依然として残る違反建築物があるため、2006年に「大岩街道周辺地域の良好な環境づくりの指針」を定め、引き続き対策が行われている。大岩山における廃棄物については、2008年からは行政や住民を交えて本格的な取り組みがなされている。
渋谷街道
渋谷街道、または渋谷通、渋谷越とは、東山を越え京(京都)と山科を結ぶ京都市内の通りの一つ。
○名称について
渋谷は、もともとは滑谷(しるたに、汁谷、瀋谷などとも記される)と言われ、沢の水が絶えず落ち葉などと相俟って非常に滑りやすい道となっていたことに由来する。 古くは、久々目路、苦集滅道(くずめじ)とも称した。 また、馬町通(うままちどおり)とも呼ばれた。
○沿革
東国から京に至る古くからの道であり、『保元物語』に「久々目路」の文字をみることができる。 鎌倉時代になり、鎌倉幕府の六波羅探題がこの道の京都側に設置されたことで、東から京への入口として重要性が高まることになった。 しかし、六波羅探題が滅び、さらに近世になってからは北に位置する日ノ岡越(三条通・京都府道143号四ノ宮四ツ塚線)が東海道として主要幹線に位置づけられたことから、間道として利用されるに過ぎなくなった。 ただし、延享四年(1747年)頃、木食正禅が急坂を削る改良工事を施していることから、それなりに往来はあったものと思われる。(木食正禅は、約3年間の月日を費やし、元文三年(1738年)、前出の日ノ岡越においても同様の改良工事を完了していた。)明治になると、東山に花山洞(トンネル)が穿たれた。 昭和42年には国道1号(五条バイパス)の東山トンネルが花山洞の南側を通って敷設された。現在、京都側、山科側ともに国道1号の混雑を回避するための抜け道として利用されている。
○道のり
現在の渋谷街道に相当する京都府道116号渋谷山科停車場線は、東大路通(馬町交差点)から始まるが、渋谷街道の京都側の起点はそれよりも西の本町通とされる。馬町は、六波羅探題が栄えた頃、駿馬があり鎌倉に送るためにこの地に繋留したところ、大勢の人が見に来たことから馬町と称されるようになったと伝えられる。 馬町は太平洋戦争の時に空襲の被害があったところである。現在の渋谷街道は、東山トンネルで国道1号に合流するが、この東山トンネルの北側にある人道トンネルが、かつての渋谷街道のトンネル(花山洞)である。また、山科側では東進し醍醐街道(渋谷醍醐道交差点)に至るが、かつては途中で北よりに進路を変え、五条別れで東海道(三条通)に合流していた。
○名称について
渋谷は、もともとは滑谷(しるたに、汁谷、瀋谷などとも記される)と言われ、沢の水が絶えず落ち葉などと相俟って非常に滑りやすい道となっていたことに由来する。 古くは、久々目路、苦集滅道(くずめじ)とも称した。 また、馬町通(うままちどおり)とも呼ばれた。
○沿革
東国から京に至る古くからの道であり、『保元物語』に「久々目路」の文字をみることができる。 鎌倉時代になり、鎌倉幕府の六波羅探題がこの道の京都側に設置されたことで、東から京への入口として重要性が高まることになった。 しかし、六波羅探題が滅び、さらに近世になってからは北に位置する日ノ岡越(三条通・京都府道143号四ノ宮四ツ塚線)が東海道として主要幹線に位置づけられたことから、間道として利用されるに過ぎなくなった。 ただし、延享四年(1747年)頃、木食正禅が急坂を削る改良工事を施していることから、それなりに往来はあったものと思われる。(木食正禅は、約3年間の月日を費やし、元文三年(1738年)、前出の日ノ岡越においても同様の改良工事を完了していた。)明治になると、東山に花山洞(トンネル)が穿たれた。 昭和42年には国道1号(五条バイパス)の東山トンネルが花山洞の南側を通って敷設された。現在、京都側、山科側ともに国道1号の混雑を回避するための抜け道として利用されている。
○道のり
現在の渋谷街道に相当する京都府道116号渋谷山科停車場線は、東大路通(馬町交差点)から始まるが、渋谷街道の京都側の起点はそれよりも西の本町通とされる。馬町は、六波羅探題が栄えた頃、駿馬があり鎌倉に送るためにこの地に繋留したところ、大勢の人が見に来たことから馬町と称されるようになったと伝えられる。 馬町は太平洋戦争の時に空襲の被害があったところである。現在の渋谷街道は、東山トンネルで国道1号に合流するが、この東山トンネルの北側にある人道トンネルが、かつての渋谷街道のトンネル(花山洞)である。また、山科側では東進し醍醐街道(渋谷醍醐道交差点)に至るが、かつては途中で北よりに進路を変え、五条別れで東海道(三条通)に合流していた。
師団街道
師団街道は、京都市の南北の通りの一つ。竹田街道の東に位置し、京阪電鉄京阪本線の西側を並行している。 北は塩小路橋東詰(塩小路通)で川端通につながり、南は国道24号を越えると伏見市街の京町通につながる。師団街道竜大前交差点から名神高速道路付近までは片側2車線の道路だが、大岩街道以南は南向きの一方通行となっている。現在の伏見区深草の地にあった大日本帝国陸軍第十六師団に因む。 墨染寺(上野岑雄が詠んだ墨染め桜伝説の地。伏見区墨染町)に通じていることから、かつては墨染通(すみぞめどおり)と呼ばれたが、現在では墨染寺から八科峠を経て六地蔵までの道を墨染通と呼ぶ。
○沿革
陸軍第16師団の設置に伴い、明治44年(1911年)に京都市街から師団司令部に至る国道として指定された。 終戦後に国道24号に指定されたが、昭和46年に国道24号は竹田街道に移った。
○第一軍道、第二軍道、第三軍道
陸軍第16師団の設置に伴い、直違橋通(本町通)沿いにも師団司令部などの軍の施設が位置することになり、師団街道と直違橋通を結ぶために琵琶湖疏水(鴨川運河)と京阪電車を橋によって越える3つの東西の道路が陸軍によって敷設された。北からそれぞれ、第一軍道、第二軍道、第三軍道と呼ばれている。軍道の開設は1909年、師団司令部設置(1908年)の翌年とされる。
○第一軍道
京都兵器支廠と京都練兵場の間を通る道路であった。 砂川橋と西砂川橋で疏水と京阪電車をまたぎ、直違橋通(深草直違橋九丁目)と師団街道(師団街道竜大前交差点)とをつないでいる。現在は府道(京都府道201号中山稲荷線)の一部となっている。
○第二軍道
京都練兵場の正門に面する道路であり、師団司令部(現在の聖母学院本館の位置)につながる道として特に重要視された。 師団橋と西師団橋で疏水と京阪電車をまたぎ、直違橋通(深草直違橋六丁目)と師団街道(深草野田町)とをつないでいる。疏水をまたぐ師団橋の橋桁には陸軍のシンボルであった五芒星が記されている。
○第三軍道
野砲兵隊の正門に面する道路であった。 中之郷橋と西中之郷橋で疏水と京阪電車をまたぎ、直違橋通(直違橋一丁目交差点)と師団街道(深草飯食町交差点)とをつないでいる。現在は大岩街道(京都府道35号大津淀線)の一部となっている。
○沿道の主な施設
阪神高速8号京都線 鴨川東出入口
龍谷大学深草キャンパス
京都府警察学校
○沿革
陸軍第16師団の設置に伴い、明治44年(1911年)に京都市街から師団司令部に至る国道として指定された。 終戦後に国道24号に指定されたが、昭和46年に国道24号は竹田街道に移った。
○第一軍道、第二軍道、第三軍道
陸軍第16師団の設置に伴い、直違橋通(本町通)沿いにも師団司令部などの軍の施設が位置することになり、師団街道と直違橋通を結ぶために琵琶湖疏水(鴨川運河)と京阪電車を橋によって越える3つの東西の道路が陸軍によって敷設された。北からそれぞれ、第一軍道、第二軍道、第三軍道と呼ばれている。軍道の開設は1909年、師団司令部設置(1908年)の翌年とされる。
○第一軍道
京都兵器支廠と京都練兵場の間を通る道路であった。 砂川橋と西砂川橋で疏水と京阪電車をまたぎ、直違橋通(深草直違橋九丁目)と師団街道(師団街道竜大前交差点)とをつないでいる。現在は府道(京都府道201号中山稲荷線)の一部となっている。
○第二軍道
京都練兵場の正門に面する道路であり、師団司令部(現在の聖母学院本館の位置)につながる道として特に重要視された。 師団橋と西師団橋で疏水と京阪電車をまたぎ、直違橋通(深草直違橋六丁目)と師団街道(深草野田町)とをつないでいる。疏水をまたぐ師団橋の橋桁には陸軍のシンボルであった五芒星が記されている。
○第三軍道
野砲兵隊の正門に面する道路であった。 中之郷橋と西中之郷橋で疏水と京阪電車をまたぎ、直違橋通(直違橋一丁目交差点)と師団街道(深草飯食町交差点)とをつないでいる。現在は大岩街道(京都府道35号大津淀線)の一部となっている。
○沿道の主な施設
阪神高速8号京都線 鴨川東出入口
龍谷大学深草キャンパス
京都府警察学校
鯖街道
鯖街道は、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称。主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートとなっており、その中でも特に鯖が多かったため、この名で呼ばれるようになった。
○概要
狭義では若狭街道(現在の福井県小浜市から京都市左京区(出町柳))を指し、おおむね国道27号(小浜市 - 若狭町三宅)・国道367号(若狭町三宅 - 京都市左京区(若狭町三宅 - 高島市今津町保坂は国道303号と重複))にあたる。なお、広義では現在の嶺南から京都を結んだ街道全てを鯖街道と呼ぶ。鉄道や自動車が普及する以前の時代に、若狭湾で取れたサバを徒歩で京都に運んだ道であったことから、このように呼ばれるようになったと言われている。サバに塩をまぶして夜通し京都まで運ぶとちょうど良い味になることから、運ぶ人達は「京は遠ても十八里」と唄いながら寝ずに歩き通したと言われている。こうして運ばれた塩漬けのサバは京の一般庶民にまで喜ばれ、その到着が待ち望まれたとも言われている。現在も小浜や国道367号沿線などには、鯖寿司の製造を生業とした店が多数存在する。
○地域活性化における利用
鯖街道を地域活性化に利用するための取り組みとして、小浜・若狭・高島の3市町による「鯖街道交流促進会議」が2005年度に発足したが、2012年度には「鯖街道まちづくり連携協議会」として組織形態を発展させ、観光や名産品の売り込みなどが広域的に取り組まれている。一方、終点の出町柳付近にある出町商店街では京都府の補助事業(地域商業チャレンジ支援事業)「鯖街道情報発信事業」における地域活性化のモチーフとして鯖街道が用いられたほか、この事業などにおいて街道沿線との交流の試みもなされている。また、小浜市から京都市(左京区出町柳)までを当時のルートで走り通す「鯖街道マウンテンマラソン」(距離:76km)が毎年開催されているが、ルートの大半が未舗装路であることや高低差が大きいことから、別名「ウルトラ山岳マラソン鯖街道マラニック(マラソン+ピクニック)」とも呼ばれる。
○峠
寒風峠
水坂峠
檜峠
花折峠
途中越
○沿線の名所・旧跡
瓜割の滝 - 名水百選
天徳寺
三宅区火の見やぐら
熊川宿 - 重要伝統的建造物群保存地区
道の駅若狭熊川宿
朽木宿(朽木陣屋跡)
朽木郷土資料館
道の駅くつき新本陣
葛川明王院
三千院
○その他の鯖街道ここでは、主な街道やルートを挙げる。
・琵琶湖経由のルート
小浜から琵琶湖の水運を経由して京都へ至るルート。古代は勝野(現・高島市勝野)や木津(現・高島市新旭町)などが、鎌倉時代以降は今津(現・高島市今津町)を主な水陸中継地とした。のち、豊臣秀吉が若狭往還の荷物をすべて今津経由とするなどの庇護を受けたほか、若狭街道が朽木方面へ折れる道をさらに直進し今津へ至る道(九里半街道)が整備され、伏見城築城のための資材輸送にも利用された。なお、湖上から京都への陸揚げは山中越を介して最短となる坂本が利用されたが、のちに秀吉が伏見や大坂への利便性が高い大津を保護し、坂本などから移した船をあわせて大津百艘船を組織した。
・西近江路
今津から琵琶湖の西側を陸路で辿るルート。おおむね現在の国道161号に該当する。
・小浜街道(根来・針畑ルート)
小浜から遠敷川沿いを上り、根来坂峠・小入谷(現在の高島市朽木小入谷)から現在の滋賀県道783号を経て久多・花脊峠へ。さらに鞍馬街道を経て京都へ至るルート。小浜から京都への最短距離をとることから良く利用された。昭和初期以降は利用が廃れたため根来坂峠が廃道となっていたが、近年になって観光や地域文化振興などの観点から登山道として整備されつつある。
・周山街道
小浜から名田庄を経由するルート。おおむね現在の国道162号に該当する。
○その他
現在の日本は、多くのサバをノルウェーから輸入している。これを指して、ノルウェーから日本への空路を「現代の鯖街道」と例える者もいる。なお、現在は塩をまぶすのではなく冷凍で送られており、アニサキスの心配はない。
○概要
狭義では若狭街道(現在の福井県小浜市から京都市左京区(出町柳))を指し、おおむね国道27号(小浜市 - 若狭町三宅)・国道367号(若狭町三宅 - 京都市左京区(若狭町三宅 - 高島市今津町保坂は国道303号と重複))にあたる。なお、広義では現在の嶺南から京都を結んだ街道全てを鯖街道と呼ぶ。鉄道や自動車が普及する以前の時代に、若狭湾で取れたサバを徒歩で京都に運んだ道であったことから、このように呼ばれるようになったと言われている。サバに塩をまぶして夜通し京都まで運ぶとちょうど良い味になることから、運ぶ人達は「京は遠ても十八里」と唄いながら寝ずに歩き通したと言われている。こうして運ばれた塩漬けのサバは京の一般庶民にまで喜ばれ、その到着が待ち望まれたとも言われている。現在も小浜や国道367号沿線などには、鯖寿司の製造を生業とした店が多数存在する。
○地域活性化における利用
鯖街道を地域活性化に利用するための取り組みとして、小浜・若狭・高島の3市町による「鯖街道交流促進会議」が2005年度に発足したが、2012年度には「鯖街道まちづくり連携協議会」として組織形態を発展させ、観光や名産品の売り込みなどが広域的に取り組まれている。一方、終点の出町柳付近にある出町商店街では京都府の補助事業(地域商業チャレンジ支援事業)「鯖街道情報発信事業」における地域活性化のモチーフとして鯖街道が用いられたほか、この事業などにおいて街道沿線との交流の試みもなされている。また、小浜市から京都市(左京区出町柳)までを当時のルートで走り通す「鯖街道マウンテンマラソン」(距離:76km)が毎年開催されているが、ルートの大半が未舗装路であることや高低差が大きいことから、別名「ウルトラ山岳マラソン鯖街道マラニック(マラソン+ピクニック)」とも呼ばれる。
○峠
寒風峠
水坂峠
檜峠
花折峠
途中越
○沿線の名所・旧跡
瓜割の滝 - 名水百選
天徳寺
三宅区火の見やぐら
熊川宿 - 重要伝統的建造物群保存地区
道の駅若狭熊川宿
朽木宿(朽木陣屋跡)
朽木郷土資料館
道の駅くつき新本陣
葛川明王院
三千院
○その他の鯖街道ここでは、主な街道やルートを挙げる。
・琵琶湖経由のルート
小浜から琵琶湖の水運を経由して京都へ至るルート。古代は勝野(現・高島市勝野)や木津(現・高島市新旭町)などが、鎌倉時代以降は今津(現・高島市今津町)を主な水陸中継地とした。のち、豊臣秀吉が若狭往還の荷物をすべて今津経由とするなどの庇護を受けたほか、若狭街道が朽木方面へ折れる道をさらに直進し今津へ至る道(九里半街道)が整備され、伏見城築城のための資材輸送にも利用された。なお、湖上から京都への陸揚げは山中越を介して最短となる坂本が利用されたが、のちに秀吉が伏見や大坂への利便性が高い大津を保護し、坂本などから移した船をあわせて大津百艘船を組織した。
・西近江路
今津から琵琶湖の西側を陸路で辿るルート。おおむね現在の国道161号に該当する。
・小浜街道(根来・針畑ルート)
小浜から遠敷川沿いを上り、根来坂峠・小入谷(現在の高島市朽木小入谷)から現在の滋賀県道783号を経て久多・花脊峠へ。さらに鞍馬街道を経て京都へ至るルート。小浜から京都への最短距離をとることから良く利用された。昭和初期以降は利用が廃れたため根来坂峠が廃道となっていたが、近年になって観光や地域文化振興などの観点から登山道として整備されつつある。
・周山街道
小浜から名田庄を経由するルート。おおむね現在の国道162号に該当する。
○その他
現在の日本は、多くのサバをノルウェーから輸入している。これを指して、ノルウェーから日本への空路を「現代の鯖街道」と例える者もいる。なお、現在は塩をまぶすのではなく冷凍で送られており、アニサキスの心配はない。
能勢街道
能勢街道は、大阪市北区中津から池田市を経て妙見山の無漏山真如寺(能勢妙見宮)に至る旧街道。 また、現在では旧街道に並行する、国道176号大阪~豊中~池田および国道173号池田~多田~能勢~篠山(但しバイパス等を除く)の通称・別称として使われることも多い。
○歴史と地理
大坂中津を基点とし、十三、三国、庄内、服部、岡町、石橋、池田、木部、古江、多田、一の鳥居、そして尾根筋を通り妙見山へ至る。池田や能勢で産する酒や衣類、木材が当街道によって大坂へ運ばれ、更には能勢から奥に続く丹波国の米、栗、炭、銀、銅などの搬出路でもあった。また終着地の能勢妙見をはじめ、沿道には服部天神宮、東光院(萩の寺)、原田神社、多田神社など社寺が並び、街道の途中から入った中山寺、勝尾寺などを含めての参拝路としても賑わいを見せた。明治9年(1876年)に太政官達60号で道路の種類及び等級が定められた際、能勢街道は大阪府下で3本のみの一等縦貫線に掲げられている。ところで岡町から池田まで、古くは刀根山(現在の大阪大学豊中キャンパス南方)回りの山道を通っていた。この坂が急で物資運搬に支障をきたすため、明治27年(1894年)に現在の阪急豊中駅付近から石橋にかけ、比較的平坦な新道が開かれた。これを「新能勢街道」といい、現在の国道176号ルートとほぼ同じである。現在は大阪市から池田市まで阪急電鉄宝塚線と国道176号が、池田市から妙見山麓まで国道173号及び国道477号が並行している。また川西市以北では、能勢電鉄妙見線が並行する。これら鉄道や道路の整備によって当街道は衰退したが、現在もかつての道筋の多くが残り、生活道路として利用されている。旧伊丹街道と交差する岡町付近では商店街となっている。阪神淡路大震災により、街道沿いの古い木造家屋は大きな打撃を受け、当時の街道を偲ぶ貴重な家屋も現在は建て替わったり駐車場などになり、かなり少なくなってしまった。
○宿場一覧
服部
石橋(瀬川宿) 西国街道との結節点。
池田
○能勢街道沿道の名産
池田炭 切り口が菊のように美しいため「菊炭」と呼ばれているが池田がかつて集積場だったため「池田炭」とも呼ばれている。この炭は茶道用に使用される高級炭でかつては千利休も愛用したと言われる。
清酒 池田市の「呉春」は有名。
猪肉 かつては獲れたというが、現在は聞かない。
○歴史と地理
大坂中津を基点とし、十三、三国、庄内、服部、岡町、石橋、池田、木部、古江、多田、一の鳥居、そして尾根筋を通り妙見山へ至る。池田や能勢で産する酒や衣類、木材が当街道によって大坂へ運ばれ、更には能勢から奥に続く丹波国の米、栗、炭、銀、銅などの搬出路でもあった。また終着地の能勢妙見をはじめ、沿道には服部天神宮、東光院(萩の寺)、原田神社、多田神社など社寺が並び、街道の途中から入った中山寺、勝尾寺などを含めての参拝路としても賑わいを見せた。明治9年(1876年)に太政官達60号で道路の種類及び等級が定められた際、能勢街道は大阪府下で3本のみの一等縦貫線に掲げられている。ところで岡町から池田まで、古くは刀根山(現在の大阪大学豊中キャンパス南方)回りの山道を通っていた。この坂が急で物資運搬に支障をきたすため、明治27年(1894年)に現在の阪急豊中駅付近から石橋にかけ、比較的平坦な新道が開かれた。これを「新能勢街道」といい、現在の国道176号ルートとほぼ同じである。現在は大阪市から池田市まで阪急電鉄宝塚線と国道176号が、池田市から妙見山麓まで国道173号及び国道477号が並行している。また川西市以北では、能勢電鉄妙見線が並行する。これら鉄道や道路の整備によって当街道は衰退したが、現在もかつての道筋の多くが残り、生活道路として利用されている。旧伊丹街道と交差する岡町付近では商店街となっている。阪神淡路大震災により、街道沿いの古い木造家屋は大きな打撃を受け、当時の街道を偲ぶ貴重な家屋も現在は建て替わったり駐車場などになり、かなり少なくなってしまった。
○宿場一覧
服部
石橋(瀬川宿) 西国街道との結節点。
池田
○能勢街道沿道の名産
池田炭 切り口が菊のように美しいため「菊炭」と呼ばれているが池田がかつて集積場だったため「池田炭」とも呼ばれている。この炭は茶道用に使用される高級炭でかつては千利休も愛用したと言われる。
清酒 池田市の「呉春」は有名。
猪肉 かつては獲れたというが、現在は聞かない。
西国街道
西国街道とは、江戸時代における街道のひとつであり、近世山陽道の別名である。また、西国路、中国街道、中国路、山陽路などとも呼ばれる。京都から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一致する。また、狭義の西国街道として同街道の内、西宮?下関まで区間、あるいは同じく京?西宮までの区間を指すこともある。
○概要
江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。江戸時代の道路としての山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関に 至る道として再整備されたものである。 幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇街道に位置付けられることとなった。この山陽道を当時は西国街道(または西国往還)と呼ぶこともあり、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路の一角でもあった。これらのことは、寛永10年(1633年)の幕府巡視使の巡視を契機としたが、寛永12年(1635年)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。なお呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは前述の京都~西宮間は山崎街道(唐街道・山崎通り)、そして西宮~下関間を狭義での西国街道、大坂~尼崎~西宮間は中国街道[3]などと呼称する場合が多いようである。長州藩は、整備に力を注いだ。慶安2年(1649年)の長州藩が幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30カ所の馬継ぎを設置したことが記されている。
○区分
京都から下関までのうち、以下のように区分されることもある(多少の重複がある)。
・京?西宮(山崎通)
西国街道のうち、特に六宿駅、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた京都から西宮の区間を指し山崎街道(やまさきかいどう)、山崎路(やまさきじ)、山崎通(やまさきのみち)といった。大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。なお狭義の西国街道として、この山崎通を西国街道と呼び、西宮以西のルートを山陽街道とすることもある。現在、旧街道に並行するように国道171号が京都?神戸(西宮 - 神戸間は国道2号重複)間を結んでいる。さらに山崎通とは別に、京と大坂を結ぶ街道として京街道 (大坂街道)がある。他にも大坂と西宮を結ぶ浜街道があり、別名で狭義での中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、中国道(ちゅうごくどう)とも呼ばれた。両者とも現在でも主要な幹線道路のルートとして引き継がれている。
・西宮?下関
西宮?下関までを狭義での西国街道と呼ぶこともある。また、打出(芦屋)から生田神社(神戸元町)前までは山側と海側の南北二手に分岐しており、山(北)側のルートを西国本街道、海(南)側のルート西国浜街道と呼んだ[5]。
・徳川道
また、幕末には、1867年(慶応3年)の神戸開港に伴い、生麦事件のような外国人と大名行列の衝突を避けるために、石屋川(神戸市東灘区) - 大蔵谷(明石市)間を六甲山中を抜けて迂回する西国往還付替道も開削された。しかし、開通3ヶ月後の1868年(慶応4年)3月に、外国人居留地を小迂回する別の道が設けられ、あまり使われないまま廃れていった。現在、神戸市・明石市内に部分的に残る西国往還付替道は、地元では徳川道と呼ばれている。
○宿場一覧
京都東寺 - 起点
1.山崎 (大山崎町・島本町)
2.芥川 (高槻市)
3.郡山 (茨木市) - 郡山宿本陣が現存
4.瀬川 (箕面市) - 能勢街道との結節点
5.昆陽 (伊丹市)
6.西宮 (西宮市)
7.大蔵谷 (明石市)
8.加古川 (加古川市)
9.御着 (姫路市)
10.姫路 (姫路市)
11.正條(たつの市)
12.片島(たつの市)
13.有年(赤穂市)
14.三石(備前市)
15.片上(備前市)
16.藤井(岡山市)
17.岡山(岡山市)
18.板倉(岡山市)
19.川辺(倉敷市)
20.矢掛(矢掛町)
21.七日市(井原市)
22.高屋(井原市)
23.神辺(福山市)
24.今津(福山市)
25.尾道(尾道市)
26.三原(三原市)
27.本郷(三原市)
28.西条(東広島市)
29.海田市(海田町)
30.広島(広島市)
31.廿日市(廿日市市)
32.玖波(大竹市)
33.関戸(岩国市)
34.玖珂(岩国市)
35.高森(岩国市)
36.今市(周南市)
37.呼坂(周南市)
38.久保市(下松市)
39.花岡(下松市)
40.徳山(周南市)
41.福川(周南市)
42.富海(防府市)
43.宮市(防府市)
44.小郡(山口市)
45.山中(山口市)
46.船木(宇部市)
47.厚狭市(山陽小野田市)
48.吉田(下関市)
49.小月(下関市)
50.長府(下関市)
下関(下関市) - 終点
○備考
現代において、かつての西国街道やそれに並行する国道・県道等のことを岡山県内や広島県東部では、「西国街道」とは呼ばず、「旧山陽道」と呼ぶ。その理由としては、岡山県岡山市?広島県福山市にかけて国道2号が、かつての西国街道に並行したルートを通らず、鴨方往来に並行したルートを辿っているためである。
○概要
江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。江戸時代の道路としての山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関に 至る道として再整備されたものである。 幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇街道に位置付けられることとなった。この山陽道を当時は西国街道(または西国往還)と呼ぶこともあり、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路の一角でもあった。これらのことは、寛永10年(1633年)の幕府巡視使の巡視を契機としたが、寛永12年(1635年)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。なお呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは前述の京都~西宮間は山崎街道(唐街道・山崎通り)、そして西宮~下関間を狭義での西国街道、大坂~尼崎~西宮間は中国街道[3]などと呼称する場合が多いようである。長州藩は、整備に力を注いだ。慶安2年(1649年)の長州藩が幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30カ所の馬継ぎを設置したことが記されている。
○区分
京都から下関までのうち、以下のように区分されることもある(多少の重複がある)。
・京?西宮(山崎通)
西国街道のうち、特に六宿駅、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた京都から西宮の区間を指し山崎街道(やまさきかいどう)、山崎路(やまさきじ)、山崎通(やまさきのみち)といった。大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。なお狭義の西国街道として、この山崎通を西国街道と呼び、西宮以西のルートを山陽街道とすることもある。現在、旧街道に並行するように国道171号が京都?神戸(西宮 - 神戸間は国道2号重複)間を結んでいる。さらに山崎通とは別に、京と大坂を結ぶ街道として京街道 (大坂街道)がある。他にも大坂と西宮を結ぶ浜街道があり、別名で狭義での中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、中国道(ちゅうごくどう)とも呼ばれた。両者とも現在でも主要な幹線道路のルートとして引き継がれている。
・西宮?下関
西宮?下関までを狭義での西国街道と呼ぶこともある。また、打出(芦屋)から生田神社(神戸元町)前までは山側と海側の南北二手に分岐しており、山(北)側のルートを西国本街道、海(南)側のルート西国浜街道と呼んだ[5]。
・徳川道
また、幕末には、1867年(慶応3年)の神戸開港に伴い、生麦事件のような外国人と大名行列の衝突を避けるために、石屋川(神戸市東灘区) - 大蔵谷(明石市)間を六甲山中を抜けて迂回する西国往還付替道も開削された。しかし、開通3ヶ月後の1868年(慶応4年)3月に、外国人居留地を小迂回する別の道が設けられ、あまり使われないまま廃れていった。現在、神戸市・明石市内に部分的に残る西国往還付替道は、地元では徳川道と呼ばれている。
○宿場一覧
京都東寺 - 起点
1.山崎 (大山崎町・島本町)
2.芥川 (高槻市)
3.郡山 (茨木市) - 郡山宿本陣が現存
4.瀬川 (箕面市) - 能勢街道との結節点
5.昆陽 (伊丹市)
6.西宮 (西宮市)
7.大蔵谷 (明石市)
8.加古川 (加古川市)
9.御着 (姫路市)
10.姫路 (姫路市)
11.正條(たつの市)
12.片島(たつの市)
13.有年(赤穂市)
14.三石(備前市)
15.片上(備前市)
16.藤井(岡山市)
17.岡山(岡山市)
18.板倉(岡山市)
19.川辺(倉敷市)
20.矢掛(矢掛町)
21.七日市(井原市)
22.高屋(井原市)
23.神辺(福山市)
24.今津(福山市)
25.尾道(尾道市)
26.三原(三原市)
27.本郷(三原市)
28.西条(東広島市)
29.海田市(海田町)
30.広島(広島市)
31.廿日市(廿日市市)
32.玖波(大竹市)
33.関戸(岩国市)
34.玖珂(岩国市)
35.高森(岩国市)
36.今市(周南市)
37.呼坂(周南市)
38.久保市(下松市)
39.花岡(下松市)
40.徳山(周南市)
41.福川(周南市)
42.富海(防府市)
43.宮市(防府市)
44.小郡(山口市)
45.山中(山口市)
46.船木(宇部市)
47.厚狭市(山陽小野田市)
48.吉田(下関市)
49.小月(下関市)
50.長府(下関市)
下関(下関市) - 終点
○備考
現代において、かつての西国街道やそれに並行する国道・県道等のことを岡山県内や広島県東部では、「西国街道」とは呼ばず、「旧山陽道」と呼ぶ。その理由としては、岡山県岡山市?広島県福山市にかけて国道2号が、かつての西国街道に並行したルートを通らず、鴨方往来に並行したルートを辿っているためである。
2012年9月6日木曜日
安倍晴明神社晴明大祭2012
安倍晴明公の命日を記念して行われる安倍晴明神社の例大祭です。祭典の後、阿倍王子神社の参集殿で、直会を兼ねて講演会があります。講演の内容はさまざまで、歴史や文学や占いの話など、それぞれ専門の先生を講師に招いての、学問の神様でもある安倍晴明公のお祭りにちなんだ教育講座が行われます。
所在地:〒545-0034大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16
交通アクセス:阪堺電気軌道「東天下茶屋駅」から東南へ徒歩5分、またはJR「大阪駅」から大阪市営バス「王子町」~北へ徒歩2分
開催期間:2012年9月26日祭典/14:00~
主催:阿倍王子神社
問合せ先:阿倍王子神社06-6622-2565
所在地:〒545-0034大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16
交通アクセス:阪堺電気軌道「東天下茶屋駅」から東南へ徒歩5分、またはJR「大阪駅」から大阪市営バス「王子町」~北へ徒歩2分
開催期間:2012年9月26日祭典/14:00~
主催:阿倍王子神社
問合せ先:阿倍王子神社06-6622-2565
誉田八幡宮秋季大祭秋祭り「お渡り」の儀式2012
誉田八幡宮の秋季大祭が斎行され、15日には神輿が応神陵古墳に渡御する「お渡り」の儀式が行われます。神輿の下をくぐることで、一年間の無病息災が祈念されます。また、9月15日と16日には見所となる「地車曳行」があります。
所在地:〒583-0857大阪府羽曳野市誉田3-2-8
交通アクセス近鉄南大阪線「古市駅」から徒歩10分
開催期間2012年9月14日~16日【14日】宵宮 【15日】例祭執行/10:00~、渡御/20:00~、地車曳行【16日】地車曳行
イベント料金:無料
主催:誉田八幡宮
問合せ先誉田八幡宮 072-956-0635
所在地:〒583-0857大阪府羽曳野市誉田3-2-8
交通アクセス近鉄南大阪線「古市駅」から徒歩10分
開催期間2012年9月14日~16日【14日】宵宮 【15日】例祭執行/10:00~、渡御/20:00~、地車曳行【16日】地車曳行
イベント料金:無料
主催:誉田八幡宮
問合せ先誉田八幡宮 072-956-0635
方違神社秋祭2012
方違神社の秋祭では、五穀豊穣に感謝し、さまざまな神賑行事が3日間にわたり斎行されます。宵宮では氏子町内より稚児行列の宮入が行われるほか、奉納演芸や御神楽の奉納、よさこいソーランなどの行事が催されます。宵宮と本宮の両日に、蒲団太鼓も勇壮な姿を見せ、多くの人で賑わいます。
所在地:〒590-0021大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2-2-1
交通アクセスJR阪和線「堺市駅」から徒歩15分
開催期間:2012年9月15日~17日
宵宮祭/15日13:00~、本宮祭/16日13:00~、田実祭/17日10:00~
主催:方違神社
問合せ先:方違神社072-232-1216
所在地:〒590-0021大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2-2-1
交通アクセスJR阪和線「堺市駅」から徒歩15分
開催期間:2012年9月15日~17日
宵宮祭/15日13:00~、本宮祭/16日13:00~、田実祭/17日10:00~
主催:方違神社
問合せ先:方違神社072-232-1216
開口神社八朔祭2012
八朔祭は開口神社の例祭の中でも最大の祭で、堺最古の歴史を持つフトン太鼓が担ぎ出されます。300年以上続いている渡御(とぎょ)が一番の見どころとなっており、芦原御旅所まで鳳輦(ほうれん)を中心に巡行します。旧暦8月1日(朔日)の豊作と豊漁に感謝する祭りが、明治以降は9月12日を中心とした金土曜に行われています。※フトン太鼓宮入り日は毎年異なります。
開催場所:〒590-0953大阪府堺市堺区甲斐町東2-1-29
交通アクセス:阪堺電気軌道「大小路駅」もしくは「宿院駅」から徒歩3分、または南海「堺駅」・南海高野線「堺東駅」から南海バス「大寺北門前」~徒歩2分
開催期間2012年9月7日~13日
フトン太鼓宮入り/7日・8日両日とも夕刻~、渡御/8日13:00~18:30氏子地域巡行
主催:開口神社
問合せ先:開口神社社務所072-221-0171
開催場所:〒590-0953大阪府堺市堺区甲斐町東2-1-29
交通アクセス:阪堺電気軌道「大小路駅」もしくは「宿院駅」から徒歩3分、または南海「堺駅」・南海高野線「堺東駅」から南海バス「大寺北門前」~徒歩2分
開催期間2012年9月7日~13日
フトン太鼓宮入り/7日・8日両日とも夕刻~、渡御/8日13:00~18:30氏子地域巡行
主催:開口神社
問合せ先:開口神社社務所072-221-0171