会津中街道は、江戸時代に会津西街道の代替街道として整備された街道。
○概要
1683年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が出現した際に、会津西街道が通行不能になり会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に整備された。氏家宿から矢板宿、板室宿を経て那須山中の三斗小屋宿、標高1,468mの大峠、松川宿などを経て会津に至る代替街道である。会津西街道が再整備され次第に使われなくなっていった。自然湖である五十里湖はその後1723年(享保8年)の大雨で決壊し、死者1万2千人を出す土石流となり、宇都宮、真岡近辺まで被害が及んだ。
○歴史
1646年(正保3年) 会津藩により辰街道が整備される。
1653年(承応2年) 会津藩により辰街道の宿駅に附子村を指定される。
1667年(寛文7年) 会津領内の街道に一里塚の整備令が出される。
1683年(天和8年) 9月に発生した日光大地震により会津西街道が交通不能になる。
1694年(元禄7年) 湯宮村又衛門ほか2名により大峠開発請願書が会津藩に提出される。
1695年(元禄8年) 3月、会津藩による道筋村々の調査が行われる。また、坂巻家より矢板宿問屋開設願いが出される。
同年 7月、荒井村名主により「間数相改差し上げ調」が報告される。
同年 8月、田嶋にて工事入札行われる。
同年 9月5日、工事着工される。
同年 9月28日、会津松川宿~下野板室宿で「新道はじめ」廻米2駄
同年 10月9日、完工する。
同年 10月15日、工事完成が南山代官依田五兵衛により会津藩へ報告される。
同年 10月19日、各継立場間の測量が行われる。
1696年(元禄9年) 1月、下野川崎宿に高札が立つ。
同年 4月、会津藩3代藩主、松平 正容が参勤交代のため通行する。
同年 5月、越後村松藩3代藩主、堀 直利が参勤交代のため通行する。
1697年(元禄10年) 6月、会津藩主、松平 正容が参勤交代のため通行する。
1698年(元禄11年) 5月、越後村松藩主、堀 直利が参勤交代のため通行する。
1699年(元禄12年) 8月、暴風雨により各所に被害が出る。
1704年(元禄17年) 6月10日、田町問屋の大橘家が日限定書のため評定所へ召し出される。
同年 7月、暴風雨により通行困難になり、脇街道に編入される。
○宿場
1.若松城下 (福島県会津若松市)
2.面川宿 (福島県会津若松市門田町面川)
3.香塩宿 (福島県会津若松市大戸町上三寄香塩)
4.小塩宿 (福島県会津若松市大戸町上小塩)
5.桑原宿 (福島県会津若松市大戸町上小塩)
6.小出宿
7.弥五島宿
8.松川宿
9.野際宿 (福島県南会津郡下郷町野際新田)
(大峠:標高1,468m)
10.三斗小屋宿 (栃木県那須塩原市那須岳国有林)
11.板室宿 (栃木県那須塩原市板室)
12.百村宿
13.高林宿
14.横林宿
15.石上宿
16.山田宿
17.矢板宿 (栃木県矢板市)
18.川崎宿 (栃木県矢板市川崎反町)
19.乙畑宿 (栃木県矢板市乙畑)
20.氏家宿 (栃木県さくら市氏家)
(阿久津河岸)
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