2012年5月4日金曜日

葵祭

葵祭(正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいう。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことをさした。
○概要
石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。京都市の観光資源としては、京都三大祭りの一つ。
葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名。斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。源氏物語中、光源氏が勅使を勤める場面が印象的である。大気の不安定な時期に行なわれ、にわか雨に濡れることが多い。1995年(平成7年)は雨天で中止になった(第二次世界大戦後初)。
○祭儀
・前儀
さまざまな前儀が行われるが、中でも流鏑馬神事が有名である。糺の森の真中にある全長500メートルの馬場を、公家風の装束姿や武家風の狩装束姿の射手(いて)たちが疾走する馬上から、3つの的を射抜くというものである。「矢伏射馬」とも書かれる流鏑馬は、その文字が示すように矢を射ること。馬を走らせながら正確に的を射抜く高度な技術が必要とされるため、人気の行事の一つである。雄略天皇の即位の年(457年)、「騁射」を行ったと『日本書紀』が伝え、「賀茂祭に民衆を集めて騎射を禁ず」の記事が『続日本紀』にしるされるなど、古い歴史を持つ日本古来の馬術とされる。射手のかけ声「イン、ヨー」とは「陰陽」のこと。みごと矢が的中すれば五穀は稔り、諸願は成就すると言い伝えられている。文亀2年(1502年)に中絶したが、昭和48年(1973年)、下鴨神社式年遷宮の記念行事として復活。「糺の森流鏑馬神事保存会」によって公家装束による流鏑馬が保存・伝承されている。また、上賀茂神社では競馬会神事などが執り行われる。
・宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀
葵祭は、宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀の3つから成るが、うち宮中の儀は現在では行われていない。5月15日、近衛使・検非違使と・山城使・馬寮使・内蔵使による本列と、斎王代(後述)をはじめとする女人列による路頭の儀(ろとうのぎ)では、平安時代の衣装を身にまとった人々が牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで約8kmの道のりを行列する。下鴨神社と上賀茂神社においては、実際の勅使である掌典職の掌典が祭文を奏上する社頭の儀がとり行われる。
路頭の儀(行列を見る)有料拝観席(御所と下鴨神社参道)の受付→京都市観光協会
社頭の儀(儀式を見る)有料拝観席(下鴨神社楼門内)の受付→下鴨神社
と管轄がことなる。
・斎王・斎王代
「斎王」とは、賀茂神社に御杖代として仕えるために皇室から差し出された内親王・女王のこと。1956年(昭和31年)に斎王にちなみ、斎王代と女人列が創設された。京都ゆかりの一般女性から選ばれるので「斎王代」(さいおうだい)となる。唐衣裳装束を着用、白塗りの化粧をし、お歯黒も付ける。毎年5月4日には斎王代禊の儀が行われる。斎王代と女人たちが御手洗池に手を浸し清める儀式で、下鴨神社と上賀茂神社両社で隔年交替で行われる。なお斎王代の「一般公募」を受け付ける窓口は存在せず、京都ゆかりの寺社・文化人・実業家などの令嬢(主に20代)が選ばれている。1995年(平成7年)は雨天で中止になったため、翌年も同じ女性が選ばれた。2002年(平成14年)には東京在住の女子大学生が選ばれた。京都府外在住者では史上初となる(ただし京都市出身)。さらに、2009年(平成21年)には、三笠宮崇仁親王の外孫(=大正天皇曾孫)にあたる女子大学生が選ばれた。
・女人列
斎王代を中心としてその周囲に、蔵人所陪従、命婦、女嬬、童女、騎女、内侍 、女別当、采女らの華やかで可憐な行列が続く。全員が化粧を施すものの、斎王代以外はお歯黒を付けない

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