善福寺は大阪府箕面市粟生間谷西にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。
○歴史・概要
天平年間(729年~749年)善仲の開創と伝える。宝亀8年(777年)開成皇子の勅願により建立された弥勒寺(勝尾寺)の外院6坊の1つ。宝暦年間(1751年~1763年)俊然の中興。
○境内
金比羅宮
○交通アクセス
阪急バス停奥下車、西南に徒歩6分。
○所在地
大阪府箕面市粟生間谷西5-1-1
2012年8月25日土曜日
今城塚古墳
今城塚古墳は大阪府高槻市郡家新町にある6世紀前半では最大級の前方後円墳。国の史跡。
○概要
摂津北部、三島平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳である。三島野古墳群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。
○現況
墳丘の荒廃が著しいことは、一時は織田信長が三好家を攻めた1568年(永禄11年)の摂津侵攻に際し築いた城砦として使われたためと理解されていたが、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が崩壊したものとの見方が強まっている。同古墳は宮内庁から陵墓及び参考地に指定されていないため、一般人が見学可能であるとともに、墳丘は近隣住人の散歩道になっている。環濠は現在は釣りが禁止されているが、公園化の前は魚釣り場として利用されていた。高槻市では史跡公園としての整備を目指し、1997年(平成9年)以降、そのための情報を得るための発掘調査を継続的に行っている。なお、7カ年に渡る復元整備事業が2011年3月で完了し2011年4月1日、日本初となるであろう埴輪祭祀場を発掘調査位置にレプリカにて復元し、また復元埴輪等を展示する今城塚古代歴史館と史跡今城塚古墳を一体的に公開し、世界に向けて歴史遺産として発信しすることとなった。
○発掘調査
発掘は、1997年(平成9年)から毎年、高槻市立埋蔵文化財調査センターが行っている。二重の濠を区分する内堤から形象埴輪や埴輪祭祀(はにわさいし)区が出土し、出土点数や埴輪祭祀区の規模が日本最大のものである。埴輪祭祀区は、東西62-65m、南北約6mの広さで、家形15、柵形25、蓋形4、大刀形14、楯形1、靱(ゆき)形1、武人形2、鷹匠(たかしょう)形2、力士形2、冠帽男子1、座像男子4、巫女(みこ)形7、四足動物(馬形など)18、鶏形4、水鳥形13の合わせて113点以上が出土した。なかでも家形埴輪は、高さが170cmもあり人の身長並みで、入母屋(いりもや)造りで、神社建築の屋根を飾る鰹木(かつおぎ)、千木(ちぎ)があり、高床の柱を円柱で表現している。吹き抜けの構造で神社とも考えられる。
○概要
摂津北部、三島平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳である。三島野古墳群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。
○現況
墳丘の荒廃が著しいことは、一時は織田信長が三好家を攻めた1568年(永禄11年)の摂津侵攻に際し築いた城砦として使われたためと理解されていたが、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が崩壊したものとの見方が強まっている。同古墳は宮内庁から陵墓及び参考地に指定されていないため、一般人が見学可能であるとともに、墳丘は近隣住人の散歩道になっている。環濠は現在は釣りが禁止されているが、公園化の前は魚釣り場として利用されていた。高槻市では史跡公園としての整備を目指し、1997年(平成9年)以降、そのための情報を得るための発掘調査を継続的に行っている。なお、7カ年に渡る復元整備事業が2011年3月で完了し2011年4月1日、日本初となるであろう埴輪祭祀場を発掘調査位置にレプリカにて復元し、また復元埴輪等を展示する今城塚古代歴史館と史跡今城塚古墳を一体的に公開し、世界に向けて歴史遺産として発信しすることとなった。
○発掘調査
発掘は、1997年(平成9年)から毎年、高槻市立埋蔵文化財調査センターが行っている。二重の濠を区分する内堤から形象埴輪や埴輪祭祀(はにわさいし)区が出土し、出土点数や埴輪祭祀区の規模が日本最大のものである。埴輪祭祀区は、東西62-65m、南北約6mの広さで、家形15、柵形25、蓋形4、大刀形14、楯形1、靱(ゆき)形1、武人形2、鷹匠(たかしょう)形2、力士形2、冠帽男子1、座像男子4、巫女(みこ)形7、四足動物(馬形など)18、鶏形4、水鳥形13の合わせて113点以上が出土した。なかでも家形埴輪は、高さが170cmもあり人の身長並みで、入母屋(いりもや)造りで、神社建築の屋根を飾る鰹木(かつおぎ)、千木(ちぎ)があり、高床の柱を円柱で表現している。吹き抜けの構造で神社とも考えられる。
2012年8月19日日曜日
大念寺
大念寺は大阪府茨木市安威にある浄土宗知恩院派の寺院。
○歴史
『摂州嶋下郡阿威山大織冠堂縁並序』(宝暦11年・1761年)によると、大織冠藤原鎌足の長男定慧の開基と伝え、中世には大織冠堂と称したという。その後、天正年中(1573~1592年)京都府乙訓郡の浄土宗大念寺 (大山崎町)から専誉上人が移住し、念仏道場として再興された。 享保6年(1721年)、往誉上人が中興。昭和49年(1974年)新築。
○文化財
木造毘沙門天立像(平安時代) 茨木市指定文化財 彫刻第1号 (平成10年4月1日指定)
本堂須弥壇右脇に安置。針葉樹の寄木造で、細長で腰高と平安後期の天部像の特色を示す。明治初年まで隣の藤原鎌足勧請とされる阿為神社に伝来し、神仏分離で当寺に移された。像高97.0cm。
木造地蔵菩薩立像(平安時代)
本堂右脇の間に、中興専誉上人像、毘沙門天像とともに安置。雨乞い地蔵と称された広葉樹の一本造。像高89.7cm。
大日釈迦涅槃像 (平安時代)
絹本阿弥陀三尊来迎図 (南北朝時代~室町時代)
斜め形式、皆金色の三尊は踏割蓮華に立ち、画面左上に尾を曳く白雲に乗って来迎す。98.0×37.2cm。
宝篋印塔(南北朝時代)
高142.5cm。相輪の第六輪以上を欠失するが、造立当時のままに残っている。地元の花崗岩を使用。
○行事
彼岸施餓鬼法要(春・秋彼岸の中日)
十夜会(11月初旬)
○歴史
『摂州嶋下郡阿威山大織冠堂縁並序』(宝暦11年・1761年)によると、大織冠藤原鎌足の長男定慧の開基と伝え、中世には大織冠堂と称したという。その後、天正年中(1573~1592年)京都府乙訓郡の浄土宗大念寺 (大山崎町)から専誉上人が移住し、念仏道場として再興された。 享保6年(1721年)、往誉上人が中興。昭和49年(1974年)新築。
○文化財
木造毘沙門天立像(平安時代) 茨木市指定文化財 彫刻第1号 (平成10年4月1日指定)
本堂須弥壇右脇に安置。針葉樹の寄木造で、細長で腰高と平安後期の天部像の特色を示す。明治初年まで隣の藤原鎌足勧請とされる阿為神社に伝来し、神仏分離で当寺に移された。像高97.0cm。
木造地蔵菩薩立像(平安時代)
本堂右脇の間に、中興専誉上人像、毘沙門天像とともに安置。雨乞い地蔵と称された広葉樹の一本造。像高89.7cm。
大日釈迦涅槃像 (平安時代)
絹本阿弥陀三尊来迎図 (南北朝時代~室町時代)
斜め形式、皆金色の三尊は踏割蓮華に立ち、画面左上に尾を曳く白雲に乗って来迎す。98.0×37.2cm。
宝篋印塔(南北朝時代)
高142.5cm。相輪の第六輪以上を欠失するが、造立当時のままに残っている。地元の花崗岩を使用。
○行事
彼岸施餓鬼法要(春・秋彼岸の中日)
十夜会(11月初旬)
真龍寺
真龍寺は大阪府茨木市にある 高野山真言宗の仏教寺院。
○歴史
天平20年(748年)、聖武天皇の勅願により行基が役小角の旧地に建立したもので、弘仁年間(810年~823年)、空海の高弟、真如法新王が、大門、鐘楼、経堂など21坊を建立したという。今の本堂より南方に鳥居垣内、西に西ノ門や堂ノ上、護摩殿、門ノ下、門前、寺垣内等の地名があり、壮大な規模であったことを窺わせる。 応仁の乱(1467年)で焼失し、織田信長が寺禄を没収したので次第に衰えたといわれる。慶長年中(1596年~1615年)に現在地に移る。 文禄年間(1592年~1596年)の検地帳には、新上坊、了光坊、桜木坊、千蔵坊、真東坊、角坊、中坊南坊、泉蔵坊、光明坊、西坊、東実坊の名がある。 このうち光明坊通閑は福井上村に弥勤菩薩を本尊とする無量寺を、また了光坊僧某は、福井下村に大日寺を建てたが、いずれも神仏混淆の寺であったので、明治初年の神仏分離のときに共に廃寺となった。また、明治2年(1869年)1月、西福井の新屋神社より薬師如来・十二神将・観音菩薩・牛頭天王を移し、境内に地蔵堂・鎮守堂・西国観音堂を建て安置した。 本堂は昭和47年(1972年)新築。
○交通アクセス
阪急バス サニータウン行又は忍頂寺行 福井宮の前下車 北東へ徒歩10分
○所在地
大阪府茨木市東福井2丁目24-11
○歴史
天平20年(748年)、聖武天皇の勅願により行基が役小角の旧地に建立したもので、弘仁年間(810年~823年)、空海の高弟、真如法新王が、大門、鐘楼、経堂など21坊を建立したという。今の本堂より南方に鳥居垣内、西に西ノ門や堂ノ上、護摩殿、門ノ下、門前、寺垣内等の地名があり、壮大な規模であったことを窺わせる。 応仁の乱(1467年)で焼失し、織田信長が寺禄を没収したので次第に衰えたといわれる。慶長年中(1596年~1615年)に現在地に移る。 文禄年間(1592年~1596年)の検地帳には、新上坊、了光坊、桜木坊、千蔵坊、真東坊、角坊、中坊南坊、泉蔵坊、光明坊、西坊、東実坊の名がある。 このうち光明坊通閑は福井上村に弥勤菩薩を本尊とする無量寺を、また了光坊僧某は、福井下村に大日寺を建てたが、いずれも神仏混淆の寺であったので、明治初年の神仏分離のときに共に廃寺となった。また、明治2年(1869年)1月、西福井の新屋神社より薬師如来・十二神将・観音菩薩・牛頭天王を移し、境内に地蔵堂・鎮守堂・西国観音堂を建て安置した。 本堂は昭和47年(1972年)新築。
○交通アクセス
阪急バス サニータウン行又は忍頂寺行 福井宮の前下車 北東へ徒歩10分
○所在地
大阪府茨木市東福井2丁目24-11
2012年8月13日月曜日
2012年8月5日日曜日
七夕
七夕は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。
○起源
日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織? 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲の節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
○風習
・日本
ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成女の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。地域によっては雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。イベントとしての「七夕まつり」については後記の項を参照。
・中華圏
(香港)
現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。坪洲と西貢には七姐廟、坪洲には仙姉廟という七姐を祭る廟があり、旧暦7月6日には参拝客で賑わう。
(台湾)台湾では、7月7日はの七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南や鹿港では做十六という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。
○時期
・中国
元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。
・日本
日本では、天保暦(和暦)など旧暦7月7日であり、7月15日 (旧暦)に行われるお盆に合わせたお盆行事の一環として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれ、七夕もグレゴリオ暦(新暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行う地域と、旧暦風(月遅れ)お盆の8月7日(東日本・北海道と仙台に多い)に行う地域とに分かれた。また、現在でも旧暦の7月7日に行う地域もある。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない。グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。
○天候など
多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。統計では、旧暦7月7日が晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。一方新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年もある。したがって、天の川が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。七夕に降る雨を「催涙雨」または「洒涙雨」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。
○日本の七夕祭り
1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村?庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。
○起源
日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織? 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲の節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
○風習
・日本
ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成女の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。地域によっては雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。イベントとしての「七夕まつり」については後記の項を参照。
・中華圏
(香港)
現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。坪洲と西貢には七姐廟、坪洲には仙姉廟という七姐を祭る廟があり、旧暦7月6日には参拝客で賑わう。
(台湾)台湾では、7月7日はの七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南や鹿港では做十六という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。
○時期
・中国
元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。
・日本
日本では、天保暦(和暦)など旧暦7月7日であり、7月15日 (旧暦)に行われるお盆に合わせたお盆行事の一環として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれ、七夕もグレゴリオ暦(新暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行う地域と、旧暦風(月遅れ)お盆の8月7日(東日本・北海道と仙台に多い)に行う地域とに分かれた。また、現在でも旧暦の7月7日に行う地域もある。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない。グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。
○天候など
多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。統計では、旧暦7月7日が晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。一方新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年もある。したがって、天の川が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。七夕に降る雨を「催涙雨」または「洒涙雨」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。
○日本の七夕祭り
1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村?庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。
2012年8月3日金曜日
がんがら火祭り大一文字点灯・大文字献灯
8月24日、大阪府池田市で毎年行われるがんがら火祭は、1644年(正保元年)にその興りの起源を持つ、北大阪(北摂)を代表する貴重な伝統的火祭りです。また、同行事は、1978年(昭和53)10月21日、池田市の重要無形文化財祭礼行事に指定され、池田市民だけではなく多くの人に親しまれています。祭り当日は、池田のシンボルである五月山に京都の送り火の如く、大一文字と大文字がともされ、町には重さ100キログラム長さ4メートルの大松明が二本一組で二基繰り出します。全行程3キロメートルの道のりを光々と火を燃やしながら練り歩きます。その迫力は、毎年多くの見物客を魅了しています。がんがら火は、最初から今の形式になったのではなく、長い時を経て徐々に形を変え、要素を加えながら発展してきました。
<その興りと経緯>
がんがら火は、愛宕神社(五月山山上にある)と切っても切れない縁で結びついています。その始まりも愛宕信仰との関係があります。1727年頃作成された伊居太神社の「穴織宮拾要記」によると京都の愛宕神社との経緯があった事が記されています。正保元年(1644)に多田屋・板屋・中村屋・丸屋の四人が、五月山山上で百味の箱を竹に立て火をともしたところ、人々がその火を見て、池田に愛宕が飛来したといいながら、競って参集したのが池田の愛宕神社のはじまりとされています。防火設備もほとんど無く、日本の家屋には耐火素材がほとんど使われていませんので、一旦火災が発生すれば町全体を焼き尽くすような大惨事にもなりかねません。常にそういう状態に晒されていた当時の都市は、火に対する怖さの気持ちは現在では想像もできません。そういう時代背景から、当時は京都の愛宕さんは将軍地蔵を奉り、火伏に霊験ありと信じられていましたので、その信仰も盛んでした。池田地域にもその信徒が多かったのですが、京都まで行くとなると徒歩で数日がかりの大仕事で、それが手軽にお参りできるのは有り難いと五月山の新愛宕は忽ち繁盛しました。その評判があまりに高いために、京都の愛宕神社から抗議があったのですが、箕面勝尾寺宝泉院は京都所司代板倉周防守にはたらきかけて和解を果たします。それ以後、本格的な社殿建設を今の位置と同じ五月山山上に進められました。専門家によると、土着信仰では神が飛来するというパターンも多く見られるが、池田における愛宕神社の創始には、典型的な都市における民衆信仰の発生過程が見られるとのことです。もう少し愛宕神社の事について触れますと、1693年(元禄6)に作られた「池田村寺社御吟味帳」には、愛宕権現社は当時五月山にあった上仙寺の一社として記載されていて、その補足に「是ハ勝尾寺宝泉院当村高法寺両支配」と有ります。今も旧市街に残る高法寺は、当時村の会所としての機能があり、そこに集う庄屋衆が愛宕神社の権利の一部を貰い受け、高法寺が支配権を獲得しました。勧請から50年後、愛宕神社は池田の町が全体として執り行うという特別な位置を確かなものにしています。さて、当時の祭りの様子を見てみますと、はじめは「百味の箱を竹に立て火を灯した」だけの質素なものでしたが1696年(元禄9)に出された絵入りの俳諧集「俳諧呉服絹」には、五月山愛宕道で高張提灯の下に座した僧が鐘を叩き、その前を参詣の人や駕籠が登って行く様子が描かれています。また、愛宕火(がんがら火は後世になってよばれるようになった)について多くの俳諧が残っていて、池田に隣接する近在近郷の者にとって秋を迎える季節の風物詩となっていました。一句ご紹介しますと「愛宕火や池田伊丹の秋ひとつ 休計」などがあります。この5年後の1701年(元禄14)に刊行された「摂陽群談」には、愛宕火について「毎年七月廿四日(今は8月24日)夜種々ノ灯篭二火ヲトモシテ愛宕火ト号祭ル大坂北ノ町終ヨリ見ル人星光ヲ疑フ」とあって、当時の愛宕火が灯篭に火をつける形のものであったことがわかります。また、高層の建築物がなかった時代には大坂の町からも望まれたほど盛大に行われていました。他にも、1798年(寛政10)に刊行された「摂津名所図会」や1803年(享和3)に出された曲亭馬琴の「俳諧歳時記」にも、灯篭に火を点じてこれを愛宕火と称し、それが大坂の町から星のように望まれた事が書かれています。このようにはじめは信仰による静かな祭事だったものが、時代を経るに連れて地域の娯楽の色付けもされていきました。現在のように娯楽がなく、キツイ労働が当たり前の時代には、自然な成り行きだったのかもしれません。当時の祭りの記録には、各町毎に作り物(その時代を反映した人物や名物、ヒーローなどを人形などにして町々を飾る)が出され、だんじり、夜店が出ていたとの記録も見られます。後に(江戸期中頃に)文字火の形式が変わったりしますが、それ以降は明治時代まで、大旨スタイルは継承されています。昭和初期頃には大松明が登場し、がんがら火は華やいだものに変貌して行きます。今のがんがら火は、この大正から昭和の初めに完成されたスタイルを受け継いでいると言えます。
<五月山の文字火>
五月山の文字火が資料上で登場するのは、1819年(文政2)七月廿四日が最初です。郷土史家の故島田福雄氏による調査では、1803年(享和3)以降の化政時代(11代将軍家斉の頃19世紀前半あたりをいいます。)にその興りがあったことがわかりました。また、同じく郷土史家の故林田良平氏も1714年(正徳4)以降の記載がある「伊居太神社日記」等から文政以前、既に愛宕火の灯篭が一文字火になっていたこをが摘されています。しかし、その形式は現在のものとは違い、木製の足つき灯篭を山肌に突き立てて文字火にしていました。また、はじめの頃はその作業を有志が行なっていましたが、その後、愛宕講の講中が、更に後には甲ヶ谷町(今の城山町)が受け持つようになり、次第に文字火を燈すようになりました。点燈場所については現在よりも少し東側だったようです。この頃に建石町の文字火も始まっています。時代を経て、現在の文字火は城山町の「大一」と建石町の「大」の字ですが、城山町の「一」の字がいつ頃から「大一」の形になったかは古文書の記録には無く、時代は下った1910年(明治43)3月に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)が発行した「箕面有馬電気軌道沿線名所御案内」で、五月山の文字火の紹介がされます。 「愛宕祠 山路七、八丁の処に在り、七月廿四日の夜、松明を点じて大と一との二文字を現はし、以て法会を修す。」とあって、この頃に大一文字(大一の意味は、大は天を、一は大地を松明は人を象徴との記載=愛宕神社縁起)になっています。また、肥松(松の木を伐採した後の切り株の根に含まれる油分が凝縮したところ。地中で20~30年以上経たないとできない。)がその燃料になっています。この頃から現在まで、そのスタイルは変わることなく受け継がれています。
2012年8月24日19:30~22:00(予定)
開催場所 大阪府池田市 五月山中腹~池田市役所周辺
<その興りと経緯>
がんがら火は、愛宕神社(五月山山上にある)と切っても切れない縁で結びついています。その始まりも愛宕信仰との関係があります。1727年頃作成された伊居太神社の「穴織宮拾要記」によると京都の愛宕神社との経緯があった事が記されています。正保元年(1644)に多田屋・板屋・中村屋・丸屋の四人が、五月山山上で百味の箱を竹に立て火をともしたところ、人々がその火を見て、池田に愛宕が飛来したといいながら、競って参集したのが池田の愛宕神社のはじまりとされています。防火設備もほとんど無く、日本の家屋には耐火素材がほとんど使われていませんので、一旦火災が発生すれば町全体を焼き尽くすような大惨事にもなりかねません。常にそういう状態に晒されていた当時の都市は、火に対する怖さの気持ちは現在では想像もできません。そういう時代背景から、当時は京都の愛宕さんは将軍地蔵を奉り、火伏に霊験ありと信じられていましたので、その信仰も盛んでした。池田地域にもその信徒が多かったのですが、京都まで行くとなると徒歩で数日がかりの大仕事で、それが手軽にお参りできるのは有り難いと五月山の新愛宕は忽ち繁盛しました。その評判があまりに高いために、京都の愛宕神社から抗議があったのですが、箕面勝尾寺宝泉院は京都所司代板倉周防守にはたらきかけて和解を果たします。それ以後、本格的な社殿建設を今の位置と同じ五月山山上に進められました。専門家によると、土着信仰では神が飛来するというパターンも多く見られるが、池田における愛宕神社の創始には、典型的な都市における民衆信仰の発生過程が見られるとのことです。もう少し愛宕神社の事について触れますと、1693年(元禄6)に作られた「池田村寺社御吟味帳」には、愛宕権現社は当時五月山にあった上仙寺の一社として記載されていて、その補足に「是ハ勝尾寺宝泉院当村高法寺両支配」と有ります。今も旧市街に残る高法寺は、当時村の会所としての機能があり、そこに集う庄屋衆が愛宕神社の権利の一部を貰い受け、高法寺が支配権を獲得しました。勧請から50年後、愛宕神社は池田の町が全体として執り行うという特別な位置を確かなものにしています。さて、当時の祭りの様子を見てみますと、はじめは「百味の箱を竹に立て火を灯した」だけの質素なものでしたが1696年(元禄9)に出された絵入りの俳諧集「俳諧呉服絹」には、五月山愛宕道で高張提灯の下に座した僧が鐘を叩き、その前を参詣の人や駕籠が登って行く様子が描かれています。また、愛宕火(がんがら火は後世になってよばれるようになった)について多くの俳諧が残っていて、池田に隣接する近在近郷の者にとって秋を迎える季節の風物詩となっていました。一句ご紹介しますと「愛宕火や池田伊丹の秋ひとつ 休計」などがあります。この5年後の1701年(元禄14)に刊行された「摂陽群談」には、愛宕火について「毎年七月廿四日(今は8月24日)夜種々ノ灯篭二火ヲトモシテ愛宕火ト号祭ル大坂北ノ町終ヨリ見ル人星光ヲ疑フ」とあって、当時の愛宕火が灯篭に火をつける形のものであったことがわかります。また、高層の建築物がなかった時代には大坂の町からも望まれたほど盛大に行われていました。他にも、1798年(寛政10)に刊行された「摂津名所図会」や1803年(享和3)に出された曲亭馬琴の「俳諧歳時記」にも、灯篭に火を点じてこれを愛宕火と称し、それが大坂の町から星のように望まれた事が書かれています。このようにはじめは信仰による静かな祭事だったものが、時代を経るに連れて地域の娯楽の色付けもされていきました。現在のように娯楽がなく、キツイ労働が当たり前の時代には、自然な成り行きだったのかもしれません。当時の祭りの記録には、各町毎に作り物(その時代を反映した人物や名物、ヒーローなどを人形などにして町々を飾る)が出され、だんじり、夜店が出ていたとの記録も見られます。後に(江戸期中頃に)文字火の形式が変わったりしますが、それ以降は明治時代まで、大旨スタイルは継承されています。昭和初期頃には大松明が登場し、がんがら火は華やいだものに変貌して行きます。今のがんがら火は、この大正から昭和の初めに完成されたスタイルを受け継いでいると言えます。
<五月山の文字火>
五月山の文字火が資料上で登場するのは、1819年(文政2)七月廿四日が最初です。郷土史家の故島田福雄氏による調査では、1803年(享和3)以降の化政時代(11代将軍家斉の頃19世紀前半あたりをいいます。)にその興りがあったことがわかりました。また、同じく郷土史家の故林田良平氏も1714年(正徳4)以降の記載がある「伊居太神社日記」等から文政以前、既に愛宕火の灯篭が一文字火になっていたこをが摘されています。しかし、その形式は現在のものとは違い、木製の足つき灯篭を山肌に突き立てて文字火にしていました。また、はじめの頃はその作業を有志が行なっていましたが、その後、愛宕講の講中が、更に後には甲ヶ谷町(今の城山町)が受け持つようになり、次第に文字火を燈すようになりました。点燈場所については現在よりも少し東側だったようです。この頃に建石町の文字火も始まっています。時代を経て、現在の文字火は城山町の「大一」と建石町の「大」の字ですが、城山町の「一」の字がいつ頃から「大一」の形になったかは古文書の記録には無く、時代は下った1910年(明治43)3月に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)が発行した「箕面有馬電気軌道沿線名所御案内」で、五月山の文字火の紹介がされます。 「愛宕祠 山路七、八丁の処に在り、七月廿四日の夜、松明を点じて大と一との二文字を現はし、以て法会を修す。」とあって、この頃に大一文字(大一の意味は、大は天を、一は大地を松明は人を象徴との記載=愛宕神社縁起)になっています。また、肥松(松の木を伐採した後の切り株の根に含まれる油分が凝縮したところ。地中で20~30年以上経たないとできない。)がその燃料になっています。この頃から現在まで、そのスタイルは変わることなく受け継がれています。
2012年8月24日19:30~22:00(予定)
開催場所 大阪府池田市 五月山中腹~池田市役所周辺
北御堂盆おどり2012
本願寺津村別院(北御堂)で毎年8月下旬に盆おどりが開催されます。たくさんの提灯で彩られる中、櫓が設けられ、音頭の声が響き渡る境内には、幾重にもつらなるゆかた姿の踊り手たちの輪が広がります。夜店も出て、子ども連れや仕事帰りの大人も楽しむことができる夏の風物詩です。
開催場所:本願寺津村別院(北御堂)
所在地:〒541-0053大阪府大阪市中央区本町4-1-3
交通アクセス地下鉄御堂筋線「本町駅」2号出口すぐ
開催期間2012年8月23日~24日両日とも/17:30~21:00※雨天の時は規模を縮小して開催
主催:本願寺津村別院
問合せ先:本願寺津村別院(北御堂)06-6261-6796
開催場所:本願寺津村別院(北御堂)
所在地:〒541-0053大阪府大阪市中央区本町4-1-3
交通アクセス地下鉄御堂筋線「本町駅」2号出口すぐ
開催期間2012年8月23日~24日両日とも/17:30~21:00※雨天の時は規模を縮小して開催
主催:本願寺津村別院
問合せ先:本願寺津村別院(北御堂)06-6261-6796
彦八まつり2012
大阪落語の始祖である米沢彦八の名を後世に残そうと、彦八が活躍した生國魂神社でお祭りが開催されます。年に一度、上方落語家が一堂に会し、奉納落語会などが行われるほか、落語家によるおもしろ屋台をはじめ、素人演芸バトル、お茶子クイーンコンテスト、地車囃子、住吉踊り、お茶席などが2日間に渡り繰り広げられます。
所在地:〒543-0071大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9
交通アクセス:地下鉄谷町線・千日前線「谷町九丁目駅」から徒歩4分、または近鉄大阪線「上本町駅」から徒歩9分
開催期間2012年9月1日~2日
両日とも10:00~20:00
イベント料金:見物無料(一部有料)
主催:公益社団法人上方落語協会
問合せ先彦八まつり実行委員会(上方落語協会内) 06-6354-7727
所在地:〒543-0071大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9
交通アクセス:地下鉄谷町線・千日前線「谷町九丁目駅」から徒歩4分、または近鉄大阪線「上本町駅」から徒歩9分
開催期間2012年9月1日~2日
両日とも10:00~20:00
イベント料金:見物無料(一部有料)
主催:公益社団法人上方落語協会
問合せ先彦八まつり実行委員会(上方落語協会内) 06-6354-7727
南御堂盆おどり2012
真宗大谷派難波別院(南御堂)の境内で開催される盆踊りです。初音家秀若さん、弘田るみさん、日本民謡同好会さんらによる、気合の入った生演奏が響き渡ります。披露されるのは、北は北海道から南は九州まで約20曲。毎年4000人を超える人出で賑わい、夜店も多く軒をつらねます。先着1000人限定で、夜店で使えるお楽しみ券や、竹製うちわと手ぬぐいのプレゼントもあります。
開催場所:真宗大谷派難波別院(南御堂)境内
所在地〒541-0056大阪府大阪市中央区久太郎町4-1-11
交通アクセス:地下鉄御堂筋線「本町駅」からすぐ
開催期間2012年8月27日~28日18:15~21:30 ※小雨決行
イベント料金:無料
主催:真宗大谷派難波別院(南御堂)
問合せ先:真宗大谷派難波別院(南御堂)06-6251-5820(代)
開催場所:真宗大谷派難波別院(南御堂)境内
所在地〒541-0056大阪府大阪市中央区久太郎町4-1-11
交通アクセス:地下鉄御堂筋線「本町駅」からすぐ
開催期間2012年8月27日~28日18:15~21:30 ※小雨決行
イベント料金:無料
主催:真宗大谷派難波別院(南御堂)
問合せ先:真宗大谷派難波別院(南御堂)06-6251-5820(代)
山門施餓鬼会(八尾地蔵盆踊り)2012
常光寺で、毎年8月23日と24日の2日間に渡り地蔵盆会が行われます。夜には「八尾地蔵盆踊り」が盛大に催されます。常光寺の盆踊りは「流し音頭」であり、河内最古の音頭として“河内音頭”の原型ともいわれ、多くの人々が音頭にあわせて踊ります。
開催場所:常光寺
所在地〒581-0003大阪府八尾市本町5-8-1
交通アクセス:JR大和路線「八尾駅」から徒歩20分または近鉄バス「近鉄八尾駅前」下車
開催期間:2012年8月23日~24日
八尾地蔵盆踊り/両日とも19:00~23:00
主催:常光寺
問合せ先:常光寺072-922-7749
開催場所:常光寺
所在地〒581-0003大阪府八尾市本町5-8-1
交通アクセス:JR大和路線「八尾駅」から徒歩20分または近鉄バス「近鉄八尾駅前」下車
開催期間:2012年8月23日~24日
八尾地蔵盆踊り/両日とも19:00~23:00
主催:常光寺
問合せ先:常光寺072-922-7749
一心寺地蔵盆2012
近畿を中心に行われてきた悪霊をふさぐための安全祈願祭の地蔵盆が、一心寺では「一心寺地蔵盆」と題して開催されます。地蔵盆は、町内ごとにお地蔵さんを安置し、子どもを集めて灯明、供物をそなえ、大数珠くりなどをするもので、一心寺でも子ども守護祈願をはじめ、灌頂洒水(かんじょうしゃすい)や安全祈願のお守り授与があります。境内で「子ども祭り」として催されるステージでは、子ども盆踊りやゲーム大会なども行われます。
開催場所:一心寺
所在地:〒543-0062大阪府大阪市天王寺区逢阪2
交通アクセス:JR「天王寺駅」から徒歩15分
開催期間:2012年8月24日16:30~
主催:一心寺
問合せ先:一心寺シアター倶楽06-6774-4002
開催場所:一心寺
所在地:〒543-0062大阪府大阪市天王寺区逢阪2
交通アクセス:JR「天王寺駅」から徒歩15分
開催期間:2012年8月24日16:30~
主催:一心寺
問合せ先:一心寺シアター倶楽06-6774-4002
2012年8月2日木曜日
高野街道
○概要
高野街道自体は、河内国錦部郡長野村(河内長野市)と高野山を結ぶ街道であるが、長野以北は複数に分かれて各方面を結んだ。それらは東高野街道、中高野街道、下高野街道、西高野街道と呼ばれた。
・東高野街道
前身は平安京または長岡京への官道だったと推定される。京から高野山への参詣路として使用されるとともに、河内国を南北に貫く数少ない街道でもあった。
・中高野街道
起点は杭全神社西の泥堂口にあった一里塚とされる。1148年に仁和寺宮覚法法親王が高野山参詣の際に通ったと考えられている。
・下高野街道
大阪市内からの高野参りへの街道で、四天王寺を出て岩室村(大阪狭山市)で西高野街道に合流した。旧街道筋の大和川に下高野橋が架かっている。
・西高野街道
平安時代後期から鎌倉時代初期には高野参詣道として使用されていたと考えられている。室町時代から江戸時代には、商港堺と高野山との物資輸送でにぎわった。旧街道は現在の国道310号に沿っている。元和の町割以降の堺においては、目口筋あるいは一筋北の大小路と接続していた。
○ルート
起点を異にする次の4つのルートがあり、いずれも現在の河内長野市で合流。紀見峠を越えて橋本へ至った後、高野山へと至った。
◎起点から長野
・東高野街道
山城国八幡(京都府八幡市)-洞ヶ峠-河内国田口村(大阪府枚方市)-郡津村(交野市)-中野村(四條畷市)-豊浦村(東大阪市)-楽音寺村(八尾市)-安堂村(柏原市)-国府村(藤井寺市)-誉田村(羽曳野市)-富田林村(富田林市)-長野村(河内長野市)[西高野街道と合流]
・中高野街道
摂津国平野郷町(大阪市平野区)-西喜連村(平野区)-河内国三宅村(松原市)-黒山村(堺市美原区)-狭山新宿(大阪狭山市)-市村(河内長野市)[西高野街道と合流]
・下高野街道
摂津国天王寺村(大阪市天王寺区)-田辺村(東住吉区)-河内国高木村(松原市)-小寺村(堺市美原区)-岩室村(大阪狭山市)[西高野街道と合流]
・西高野街道
和泉国堺(堺市堺区)-中筋村(堺区)-[竹内街道と重複]-舳松村(堺区)-河内国関茶屋新田(堺市東区)-和泉国福田村(堺市中区)-河内国岩室村(大阪狭山市)-[下高野街道と合流]-茱萸木新田(大阪狭山市)-市村(河内長野市)-[中高野街道と合流]-長野村(河内長野市)[東高野街道と合流]
◎長野から橋本
・高野街道
河内国長野村(河内長野市)-三日市村(河内長野市)-天見村(河内長野市)-紀見峠-紀伊国橋本(和歌山県橋本市)
◎橋本から高野山
橋本から高野山へ向けたルートにもいくつかあったが、江戸時代まで最も使用されたのが町石道であった。
・町石道
紀伊国橋本(橋本市)-慈尊院(九度山町)-天野辻-笠松峠-笠木峠-高野山大門(高野町)
・京・大阪道
紀伊国橋本(和歌山県橋本市)-河野村(九度山町)-不動坂-高野山女人堂(高野町)
・勅使坂
紀伊国橋本(和歌山県橋本市)-三谷村(かつらぎ町)-笠松峠-笠木峠-高野山大門(高野町)
高野街道自体は、河内国錦部郡長野村(河内長野市)と高野山を結ぶ街道であるが、長野以北は複数に分かれて各方面を結んだ。それらは東高野街道、中高野街道、下高野街道、西高野街道と呼ばれた。
・東高野街道
前身は平安京または長岡京への官道だったと推定される。京から高野山への参詣路として使用されるとともに、河内国を南北に貫く数少ない街道でもあった。
・中高野街道
起点は杭全神社西の泥堂口にあった一里塚とされる。1148年に仁和寺宮覚法法親王が高野山参詣の際に通ったと考えられている。
・下高野街道
大阪市内からの高野参りへの街道で、四天王寺を出て岩室村(大阪狭山市)で西高野街道に合流した。旧街道筋の大和川に下高野橋が架かっている。
・西高野街道
平安時代後期から鎌倉時代初期には高野参詣道として使用されていたと考えられている。室町時代から江戸時代には、商港堺と高野山との物資輸送でにぎわった。旧街道は現在の国道310号に沿っている。元和の町割以降の堺においては、目口筋あるいは一筋北の大小路と接続していた。
○ルート
起点を異にする次の4つのルートがあり、いずれも現在の河内長野市で合流。紀見峠を越えて橋本へ至った後、高野山へと至った。
◎起点から長野
・東高野街道
山城国八幡(京都府八幡市)-洞ヶ峠-河内国田口村(大阪府枚方市)-郡津村(交野市)-中野村(四條畷市)-豊浦村(東大阪市)-楽音寺村(八尾市)-安堂村(柏原市)-国府村(藤井寺市)-誉田村(羽曳野市)-富田林村(富田林市)-長野村(河内長野市)[西高野街道と合流]
・中高野街道
摂津国平野郷町(大阪市平野区)-西喜連村(平野区)-河内国三宅村(松原市)-黒山村(堺市美原区)-狭山新宿(大阪狭山市)-市村(河内長野市)[西高野街道と合流]
・下高野街道
摂津国天王寺村(大阪市天王寺区)-田辺村(東住吉区)-河内国高木村(松原市)-小寺村(堺市美原区)-岩室村(大阪狭山市)[西高野街道と合流]
・西高野街道
和泉国堺(堺市堺区)-中筋村(堺区)-[竹内街道と重複]-舳松村(堺区)-河内国関茶屋新田(堺市東区)-和泉国福田村(堺市中区)-河内国岩室村(大阪狭山市)-[下高野街道と合流]-茱萸木新田(大阪狭山市)-市村(河内長野市)-[中高野街道と合流]-長野村(河内長野市)[東高野街道と合流]
◎長野から橋本
・高野街道
河内国長野村(河内長野市)-三日市村(河内長野市)-天見村(河内長野市)-紀見峠-紀伊国橋本(和歌山県橋本市)
◎橋本から高野山
橋本から高野山へ向けたルートにもいくつかあったが、江戸時代まで最も使用されたのが町石道であった。
・町石道
紀伊国橋本(橋本市)-慈尊院(九度山町)-天野辻-笠松峠-笠木峠-高野山大門(高野町)
・京・大阪道
紀伊国橋本(和歌山県橋本市)-河野村(九度山町)-不動坂-高野山女人堂(高野町)
・勅使坂
紀伊国橋本(和歌山県橋本市)-三谷村(かつらぎ町)-笠松峠-笠木峠-高野山大門(高野町)
古堤街道
古堤街道は、大阪府大阪市と奈良県生駒市を生駒山北側の山越えで結んでいる街道。 経由地名から「中垣内越」「竜間越」とも呼ばれる。阪奈道路の前身である。
○概要
この道がいつ頃整備されたかは定かでないが、大阪と奈良を結ぶ主要街道のひとつであり、大和国北部と大坂を結ぶ「大和街道」の一つとされた。 近世以前、河内国に深野池・新開池という2つの大きな池が存在していたころは京橋から東へ、新開池の北側のほとりを通り、各堂浜(住道浜)から船で深野池の東岸へ渡った。このあたりまでは大坂からの野崎参りの参拝道としても機能した。 1704年の大和川付け替え以降は大きな池はなくなり、京橋から住道までは寝屋川右岸に沿い、現在のJR住道駅前で寝屋川を橋で渡り、中垣内から竜間方面へ山を越えた。明治時代になり、「古堤街道」と正式に命名され、それ以降地元有志らにより、悪路であった山越え区間を中心に改修がたびたびなされた。なお、本街道の山越え道そのものは現在は府道701号中垣内南田原線に指定されており、阪奈道路は本街道の交通量が増大したことによる抜本的対策として建設され、1958年に開通した。JR住道駅近く、本町商店街の東外れなど数カ所に「古堤街道」と記された明治期の道路標が現存する。
○経由地
※西から東へ記載。
・大阪市
京橋
JR京橋駅ダイエー京橋店北側
蒲生・今福(三郷橋・鯰江川閘門跡)現・三郷橋稲荷付近
古堤橋・寝屋川分流水門
放出大橋 (放出街道交点)
徳庵橋北詰 (枝切街道交点)
万代橋北詰
・東大阪市
・大東市
JR住道駅 (住道駅前大橋で寝屋川を渡る)
住道新橋南詰 (河内街道交点)
大阪外環状線交差点 (大阪産業大学・大阪桐蔭高等学校前信号の一つ南の信号)
東高野街道交点
阪奈道路 (生駒登山口まで沿う)
・四條畷市
住吉神社
・生駒市
国道168号交点 (出店交差点・南田原バイパス中交差点の一つ北の辻)
○概要
この道がいつ頃整備されたかは定かでないが、大阪と奈良を結ぶ主要街道のひとつであり、大和国北部と大坂を結ぶ「大和街道」の一つとされた。 近世以前、河内国に深野池・新開池という2つの大きな池が存在していたころは京橋から東へ、新開池の北側のほとりを通り、各堂浜(住道浜)から船で深野池の東岸へ渡った。このあたりまでは大坂からの野崎参りの参拝道としても機能した。 1704年の大和川付け替え以降は大きな池はなくなり、京橋から住道までは寝屋川右岸に沿い、現在のJR住道駅前で寝屋川を橋で渡り、中垣内から竜間方面へ山を越えた。明治時代になり、「古堤街道」と正式に命名され、それ以降地元有志らにより、悪路であった山越え区間を中心に改修がたびたびなされた。なお、本街道の山越え道そのものは現在は府道701号中垣内南田原線に指定されており、阪奈道路は本街道の交通量が増大したことによる抜本的対策として建設され、1958年に開通した。JR住道駅近く、本町商店街の東外れなど数カ所に「古堤街道」と記された明治期の道路標が現存する。
○経由地
※西から東へ記載。
・大阪市
京橋
JR京橋駅ダイエー京橋店北側
蒲生・今福(三郷橋・鯰江川閘門跡)現・三郷橋稲荷付近
古堤橋・寝屋川分流水門
放出大橋 (放出街道交点)
徳庵橋北詰 (枝切街道交点)
万代橋北詰
・東大阪市
・大東市
JR住道駅 (住道駅前大橋で寝屋川を渡る)
住道新橋南詰 (河内街道交点)
大阪外環状線交差点 (大阪産業大学・大阪桐蔭高等学校前信号の一つ南の信号)
東高野街道交点
阪奈道路 (生駒登山口まで沿う)
・四條畷市
住吉神社
・生駒市
国道168号交点 (出店交差点・南田原バイパス中交差点の一つ北の辻)
紀州街道
紀州街道とは、かつて大坂と和歌山とを結んでいた街道。
○概要
かつて摂津国では「住吉模様」という語が風光明媚な土地をあらわす代名詞だった。その美しい海に面した住吉大社の社前を通り、古代には「岸の辺の道」と呼ばれたのが、古くは住吉街道としても知られた紀州街道である。近世になると住吉大社の夏祭りの時の神輿の巡行路となっている。和泉国では並行して走る熊野街道よりも大阪湾沿いの浜街道(孝子越街道)を通っていた。1701年(元禄14年)以降は、徳川家紀州藩主の参勤交代や御上使通行の道でもあった。街道筋が海に近く海上交通と競合しやすい環境にあったので、経済活動が活発化した近世以降も急激な通行量の増加はなく、主要な脇往還でもなかった。泉大津市助松町には、紀州藩主の参勤交代の際の休憩所として使用された庄屋・田中覚右衛門の屋敷が今も残り、田中本陣と呼ばれている。
・ルート1(孝子越街道)
大坂城下高麗橋または日本橋(大阪市中央区) - 今宮村(大阪市浪速区) - 天下茶屋(大阪市西成区) - 住吉村(大阪市住吉区) - 安立町(大阪市住之江区) - 堺大道筋(堺市堺区) - 高石北村(高石市) - 下条大津村(泉大津市) - 岸和田城下(岸和田市) - 貝塚寺内(貝塚市) - 鶴原村(泉佐野市)[熊野街道と分岐] - 佐野村(泉佐野市) - 尾崎村(阪南市) - 深日村(岬町)[大川峠越と分岐] - 孝子村(岬町) - 孝子峠 - 和歌山城下(和歌山市)
・ルート2(熊野街道)
鶴原村(泉佐野市)[本道と分岐] - 信達宿(泉南市) - 山中宿(阪南市) - 雄ノ山峠 - 川辺村(和歌山市) - 和歌山城下(和歌山市)
・ルート3(大川峠越)
深日村(岬町)[本道と分岐] - 谷川村(岬町) - 大川峠 - 加太浦(和歌山市) - 和歌山城下(和歌山市)
○概要
かつて摂津国では「住吉模様」という語が風光明媚な土地をあらわす代名詞だった。その美しい海に面した住吉大社の社前を通り、古代には「岸の辺の道」と呼ばれたのが、古くは住吉街道としても知られた紀州街道である。近世になると住吉大社の夏祭りの時の神輿の巡行路となっている。和泉国では並行して走る熊野街道よりも大阪湾沿いの浜街道(孝子越街道)を通っていた。1701年(元禄14年)以降は、徳川家紀州藩主の参勤交代や御上使通行の道でもあった。街道筋が海に近く海上交通と競合しやすい環境にあったので、経済活動が活発化した近世以降も急激な通行量の増加はなく、主要な脇往還でもなかった。泉大津市助松町には、紀州藩主の参勤交代の際の休憩所として使用された庄屋・田中覚右衛門の屋敷が今も残り、田中本陣と呼ばれている。
・ルート1(孝子越街道)
大坂城下高麗橋または日本橋(大阪市中央区) - 今宮村(大阪市浪速区) - 天下茶屋(大阪市西成区) - 住吉村(大阪市住吉区) - 安立町(大阪市住之江区) - 堺大道筋(堺市堺区) - 高石北村(高石市) - 下条大津村(泉大津市) - 岸和田城下(岸和田市) - 貝塚寺内(貝塚市) - 鶴原村(泉佐野市)[熊野街道と分岐] - 佐野村(泉佐野市) - 尾崎村(阪南市) - 深日村(岬町)[大川峠越と分岐] - 孝子村(岬町) - 孝子峠 - 和歌山城下(和歌山市)
・ルート2(熊野街道)
鶴原村(泉佐野市)[本道と分岐] - 信達宿(泉南市) - 山中宿(阪南市) - 雄ノ山峠 - 川辺村(和歌山市) - 和歌山城下(和歌山市)
・ルート3(大川峠越)
深日村(岬町)[本道と分岐] - 谷川村(岬町) - 大川峠 - 加太浦(和歌山市) - 和歌山城下(和歌山市)
京街道 (大坂街道)
大坂街道は、近世日本の街道である。京街道とも呼ばれた。大坂(大阪市)から京(京都市)を結んでいた。
○概要
大坂(大阪)の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京(京都)に向かう街道である。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、文禄5年(1596年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源である。淀から京都の間は大きく2つのルートが取られた。1つは桂川左岸を進む鳥羽街道であり、もう1つは現在の宇治川右岸の淀堤を経て伏見に至り、伏見から伏見街道あるいは竹田街道を経て京都中心部に達する。伏見から大阪までの道のりは、五街道の一つである東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4宿場が設けられた。東海道の大津宿から髭茶屋追分で京都・三条大橋へ向かう道と分かれ、京都を通らず大津街道を通りこれら4宿場を経て大坂に至る道のりは、参勤交代の経路としても用いられた。東海道五十七次と呼ぶこともある。また、淀宿と枚方宿の間に橋本という遊郭を持った間の宿が設けられていた。伏見・大坂間は淀川を利用した舟運が盛んであり、陸路の利用は大坂からの上り客が多かった。明治時代に入ると、鳥羽街道を経るルートが大阪街道とされ、京都・大阪間の国道(旧京阪国道)も伏見を通らないこちらのルートが選択された。 伏見を含む4つの宿場に沿っては、京阪電鉄京阪本線が通っている。
○概要
大坂(大阪)の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京(京都)に向かう街道である。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、文禄5年(1596年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源である。淀から京都の間は大きく2つのルートが取られた。1つは桂川左岸を進む鳥羽街道であり、もう1つは現在の宇治川右岸の淀堤を経て伏見に至り、伏見から伏見街道あるいは竹田街道を経て京都中心部に達する。伏見から大阪までの道のりは、五街道の一つである東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4宿場が設けられた。東海道の大津宿から髭茶屋追分で京都・三条大橋へ向かう道と分かれ、京都を通らず大津街道を通りこれら4宿場を経て大坂に至る道のりは、参勤交代の経路としても用いられた。東海道五十七次と呼ぶこともある。また、淀宿と枚方宿の間に橋本という遊郭を持った間の宿が設けられていた。伏見・大坂間は淀川を利用した舟運が盛んであり、陸路の利用は大坂からの上り客が多かった。明治時代に入ると、鳥羽街道を経るルートが大阪街道とされ、京都・大阪間の国道(旧京阪国道)も伏見を通らないこちらのルートが選択された。 伏見を含む4つの宿場に沿っては、京阪電鉄京阪本線が通っている。
暗越奈良街道
暗越奈良街道は、大坂から暗峠を超えて奈良に至る街道であり、数ある奈良街道、伊勢参宮街道の一つである。「日本の道百選」にも選定されている。
区間:大阪市中央区高麗橋 - 東成区玉造 - 今里 - 深江 - 東大阪市御厨 - 菱江 - 松原宿 - 箱殿 -(暗峠)- 生駒市小瀬 -(榁木峠)- 奈良市尼ヶ辻 - 春日大社
○歴史
奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置された。
大正時代に大阪 - 奈良間に鉄道を敷設する際のルート案のひとつとして、この街道を沿う形でケーブルカーを設置する案があった。採用されたのは、峠の少し北側の生駒山腹に長大トンネルを掘るという案で、現在の生駒トンネルとなった。
現在は国道308号および大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線がこの街道をほぼそのまま踏襲している。
○沿線
高麗橋
玉造稲荷神社
深江稲荷神社(笠縫村:旅行く人の為の菅笠が名産であった)
枚岡公園
枚岡神社
暗峠
小瀬保健福祉ゾーン(足湯と温泉スタンドがある)
榁木峠
子供の森(奈良県立矢田自然公園)
村井家住宅
追分梅林
平城京跡(朱雀門・朱雀大路)
垂仁天皇陵
春日大社
区間:大阪市中央区高麗橋 - 東成区玉造 - 今里 - 深江 - 東大阪市御厨 - 菱江 - 松原宿 - 箱殿 -(暗峠)- 生駒市小瀬 -(榁木峠)- 奈良市尼ヶ辻 - 春日大社
○歴史
奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置された。
大正時代に大阪 - 奈良間に鉄道を敷設する際のルート案のひとつとして、この街道を沿う形でケーブルカーを設置する案があった。採用されたのは、峠の少し北側の生駒山腹に長大トンネルを掘るという案で、現在の生駒トンネルとなった。
現在は国道308号および大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線がこの街道をほぼそのまま踏襲している。
○沿線
高麗橋
玉造稲荷神社
深江稲荷神社(笠縫村:旅行く人の為の菅笠が名産であった)
枚岡公園
枚岡神社
暗峠
小瀬保健福祉ゾーン(足湯と温泉スタンドがある)
榁木峠
子供の森(奈良県立矢田自然公園)
村井家住宅
追分梅林
平城京跡(朱雀門・朱雀大路)
垂仁天皇陵
春日大社
東高野街道
東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
○概要
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街道 (大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成されたかは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言われている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越えると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には駅が設置され、京と河内国府を結ぶ官道としても重要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
○経由地(主な施設・旧跡)
・京都府八幡市
八幡 (京街道 (大坂街道)分岐点、石清水八幡宮)
洞ヶ峠
・大阪府枚方市
田口 (出屋敷交差点付近)
・交野市
郡津 (京阪交野線郡津駅)
・寝屋川市
国守
・四條畷市
中野 (清滝街道と交差)
・大東市
野崎 (野崎観音)
中垣内 (中垣内越道と交差)
東大阪市
石切 (石切剣箭神社)
豊浦 (暗越奈良街道と交差)
瓢箪山 (瓢箪山稲荷神社)
・八尾市
楽音寺 (十三街道と交差)
恩智 (恩智神社)
・柏原市
安堂
・藤井寺市
船橋 (新大和橋、船橋の渡船)
国府 (河内国府所在地、長尾街道・竜田越奈良街道交点)
道明寺(道明寺天満宮)
・羽曳野市
誉田 (誉田八幡宮)
古市 (竹内街道と交差)
・富田林市
富田林寺内町
甲田 (錦織神社)
・河内長野市
長野 (西高野街道と合流)
○概要
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街道 (大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成されたかは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言われている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越えると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には駅が設置され、京と河内国府を結ぶ官道としても重要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
○経由地(主な施設・旧跡)
・京都府八幡市
八幡 (京街道 (大坂街道)分岐点、石清水八幡宮)
洞ヶ峠
・大阪府枚方市
田口 (出屋敷交差点付近)
・交野市
郡津 (京阪交野線郡津駅)
・寝屋川市
国守
・四條畷市
中野 (清滝街道と交差)
・大東市
野崎 (野崎観音)
中垣内 (中垣内越道と交差)
東大阪市
石切 (石切剣箭神社)
豊浦 (暗越奈良街道と交差)
瓢箪山 (瓢箪山稲荷神社)
・八尾市
楽音寺 (十三街道と交差)
恩智 (恩智神社)
・柏原市
安堂
・藤井寺市
船橋 (新大和橋、船橋の渡船)
国府 (河内国府所在地、長尾街道・竜田越奈良街道交点)
道明寺(道明寺天満宮)
・羽曳野市
誉田 (誉田八幡宮)
古市 (竹内街道と交差)
・富田林市
富田林寺内町
甲田 (錦織神社)
・河内長野市
長野 (西高野街道と合流)
庚申街道
庚申街道は大阪の旧街道の一つである。大阪市天王寺区の四天王寺南大門前を起点として南へ庚申堂前を過ぎ、平野区長吉川辺町で古市街道と合流していた。青面金剛童子を祭る四天王寺庚申堂は、日本の庚申信仰発祥の地といわれている。熊野街道とともに上町台地を走る旧街道。
○街道のなりたち
1898年ごろ、庚申堂参りの道として知られる同街道は葛井寺道などさまざまな異名があったが、次第に庚申街道の名前が定着した(出典:明治36年刊「大阪府誌」)。1977年、大阪都市計画事業近鉄南大阪線連続立体交差事業により、新しく都市計画線阿倍野松崎線が設けられ、踏切が廃止となり、庚申街道は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅東口地下コンコースを通る形で南北を結ぶこととなり、地下部分をエスカレーター付きの地下道で大阪阿部野橋駅庚申口から同駅松崎口に出るように残るユニークな古街道となった。
○街道の道程
街区整理前は、四天王寺南大門前を起点として南へ庚申堂前、国鉄天王寺地下道を経て近鉄南大阪線阿部野橋踏切を横切り道なりに南下、阿倍野消防署付近で東へ折れ、現・阿倍野区役所前をあびこ筋に南下、大阪市立工芸高等学校前からあびこ筋を離れて東南方へ南下、桃ヶ池公園に出てから東進し今川まで進む。その後、今川沿いをしばらく並走し針中野を南下、照が丘矢田まで東南を指して進み、そこからは大和川下高野橋の東方600mの地点で大和川を川沿いに東進し住吉区長吉河辺町に至って古市街道に合流する。 なお、今日では街道のルート南部の阿倍野区桃ヶ池を境に、南部分は大阪市の区画整理事業、道路拡幅などもあって、元の街道ルートをたどることは難しい。
○現在の状況
1988年、近鉄南大阪線の立体交差事業完成を記念して近鉄と地元「庚申街道を守る会」の起案で近鉄及び大阪市建設局の手により、近鉄大阪阿部野橋駅東の松崎口にあるサンクンガーデンに街道の歴碑が残されている。本来の庚申街道は阿倍野区松崎町から文の里・田辺方面へ向かっていたが、現在、あびこ筋の1本西側の西田辺・長居方面へ向かう道を地元では「庚申街道」と呼んでいる。街道沿いは常盤文教地区として小中学校や専門学校などが多く見られ、普段から人通りが多い。
○エピソード
かつて大阪市営バスの停留所に「庚申街道」が存在した。位置は現阿倍野区役所交差点を西に約50メートル入った地点。かつて松崎町の庚申街道沿いに本店があった相互信用金庫(2002年に経営破綻。現在は辻調理師専門学校)の前には「そうしん街道」と書かれた案内板があった。四天王寺庚申堂は、京都八坂、東京浅草と並ぶ日本三庚申堂の一つ。西暦700年ごろ、豪範僧都により建立され、その後、豊臣秀頼によって再建されたことが記録に残っている。最近では1945年、空襲によって焼失し、現存する庚申堂宝輪閣は1970年の大阪万博の際に日本仏教会から寄進されたもの。現在でも、新年最初の庚申(かのえ さる)の日、「初庚申」の縁日は多くの参詣者で賑わっている。
○街道のなりたち
1898年ごろ、庚申堂参りの道として知られる同街道は葛井寺道などさまざまな異名があったが、次第に庚申街道の名前が定着した(出典:明治36年刊「大阪府誌」)。1977年、大阪都市計画事業近鉄南大阪線連続立体交差事業により、新しく都市計画線阿倍野松崎線が設けられ、踏切が廃止となり、庚申街道は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅東口地下コンコースを通る形で南北を結ぶこととなり、地下部分をエスカレーター付きの地下道で大阪阿部野橋駅庚申口から同駅松崎口に出るように残るユニークな古街道となった。
○街道の道程
街区整理前は、四天王寺南大門前を起点として南へ庚申堂前、国鉄天王寺地下道を経て近鉄南大阪線阿部野橋踏切を横切り道なりに南下、阿倍野消防署付近で東へ折れ、現・阿倍野区役所前をあびこ筋に南下、大阪市立工芸高等学校前からあびこ筋を離れて東南方へ南下、桃ヶ池公園に出てから東進し今川まで進む。その後、今川沿いをしばらく並走し針中野を南下、照が丘矢田まで東南を指して進み、そこからは大和川下高野橋の東方600mの地点で大和川を川沿いに東進し住吉区長吉河辺町に至って古市街道に合流する。 なお、今日では街道のルート南部の阿倍野区桃ヶ池を境に、南部分は大阪市の区画整理事業、道路拡幅などもあって、元の街道ルートをたどることは難しい。
○現在の状況
1988年、近鉄南大阪線の立体交差事業完成を記念して近鉄と地元「庚申街道を守る会」の起案で近鉄及び大阪市建設局の手により、近鉄大阪阿部野橋駅東の松崎口にあるサンクンガーデンに街道の歴碑が残されている。本来の庚申街道は阿倍野区松崎町から文の里・田辺方面へ向かっていたが、現在、あびこ筋の1本西側の西田辺・長居方面へ向かう道を地元では「庚申街道」と呼んでいる。街道沿いは常盤文教地区として小中学校や専門学校などが多く見られ、普段から人通りが多い。
○エピソード
かつて大阪市営バスの停留所に「庚申街道」が存在した。位置は現阿倍野区役所交差点を西に約50メートル入った地点。かつて松崎町の庚申街道沿いに本店があった相互信用金庫(2002年に経営破綻。現在は辻調理師専門学校)の前には「そうしん街道」と書かれた案内板があった。四天王寺庚申堂は、京都八坂、東京浅草と並ぶ日本三庚申堂の一つ。西暦700年ごろ、豪範僧都により建立され、その後、豊臣秀頼によって再建されたことが記録に残っている。最近では1945年、空襲によって焼失し、現存する庚申堂宝輪閣は1970年の大阪万博の際に日本仏教会から寄進されたもの。現在でも、新年最初の庚申(かのえ さる)の日、「初庚申」の縁日は多くの参詣者で賑わっている。
長尾街道
長尾街道とは、大阪府堺市堺区から東へ向かい、二上山の北麓・田尻峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。ほとんどの区域で大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線に平行し(一部は重複)、同線が長尾街道と通称されるため、旧長尾街道と呼ばれることもある。また、堺市の市街地では花田口筋とも呼ばれる。
○成り立ち・歴史
長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。奈良時代以降になると、その北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。河内国府(現在の土師ノ里駅付近)で本道と合流し、国分(現在の河内国分駅前)で分かれた、難波京・住吉津と飛鳥・平城京を結ぶ重要な経路となった。河内国と大和国の間の山越えルートは、明治以前は国分村六軒(柏原市国分本町7丁目付近)から現在の近鉄関屋駅・二上駅の北側を通った「関屋越え」のルートであったが、明治13年(1880年)に田尻峠越えのルートが開削された。さらに近辺での付け替えにより現在の国道165号の道のりとなった。
○経由地(沿線施設等)
・堺市
大道筋(紀州街道)交点(近世以降の起点)
堺市立殿馬場中学校・東本願寺堺南御坊
堺東駅(北側。地下道)
百舌鳥耳原北陵・方違神社
堺市駅(南側、周辺に長尾町の地名や堺市立長尾中学校がある)
長曽根変電所
小今池橋(狭間川)
堺市立五箇荘小学校
愛染院
府道大阪高石線(あびこ筋・ときはま線)交点
宝蔵神社・ 勝手大明神
難波大道交点
・松原市
朝日プラザ松原
布忍橋(西除川)
布忍駅(南側)
市立松原病院・ 松原警察署・ 国道309号交点
松原スイミングスクール・ 寺池
府道大阪中央環状線交点
市民恵我図書館
高鷲橋(東除川)
・羽曳野市
丹比高鷲原陵(雄略天皇陵)
・藤井寺市
藤井寺自動車教習所
藤井寺市立藤井寺小学校・ 市民総合会館・ 府道12号交点
藤井寺市役所・藤井寺市立藤井寺中学校
藤井寺インターチェンジ
藤井寺市立図書館・ 国道170号外環状線交点
国道170号旧道交点・ 市ノ山古墳(允恭天皇陵)
道明寺駅(北側)・ 玉手橋・ 石川橋(石川)
・柏原市
パナソニック サイクルテック本社工場
原川橋(原川)
河内国分駅(駅前)・ 国道25号交点
大阪教育大前駅・ 国分病院
柏原インターチェンジ
・香芝市
田尻峠・ 屯鶴峯・ 二上山
二上山駅(北側)
JA経済センター(畑5丁目付近)
出口橋(磯壁3丁目付近)・ 国道168号交点
福応寺・ 狐井城山古墳
・葛城市
(国道168号)
磐城駅・ 長尾公園墓地
国道166号交点
竹内街道交点
○成り立ち・歴史
長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。奈良時代以降になると、その北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。河内国府(現在の土師ノ里駅付近)で本道と合流し、国分(現在の河内国分駅前)で分かれた、難波京・住吉津と飛鳥・平城京を結ぶ重要な経路となった。河内国と大和国の間の山越えルートは、明治以前は国分村六軒(柏原市国分本町7丁目付近)から現在の近鉄関屋駅・二上駅の北側を通った「関屋越え」のルートであったが、明治13年(1880年)に田尻峠越えのルートが開削された。さらに近辺での付け替えにより現在の国道165号の道のりとなった。
○経由地(沿線施設等)
・堺市
大道筋(紀州街道)交点(近世以降の起点)
堺市立殿馬場中学校・東本願寺堺南御坊
堺東駅(北側。地下道)
百舌鳥耳原北陵・方違神社
堺市駅(南側、周辺に長尾町の地名や堺市立長尾中学校がある)
長曽根変電所
小今池橋(狭間川)
堺市立五箇荘小学校
愛染院
府道大阪高石線(あびこ筋・ときはま線)交点
宝蔵神社・ 勝手大明神
難波大道交点
・松原市
朝日プラザ松原
布忍橋(西除川)
布忍駅(南側)
市立松原病院・ 松原警察署・ 国道309号交点
松原スイミングスクール・ 寺池
府道大阪中央環状線交点
市民恵我図書館
高鷲橋(東除川)
・羽曳野市
丹比高鷲原陵(雄略天皇陵)
・藤井寺市
藤井寺自動車教習所
藤井寺市立藤井寺小学校・ 市民総合会館・ 府道12号交点
藤井寺市役所・藤井寺市立藤井寺中学校
藤井寺インターチェンジ
藤井寺市立図書館・ 国道170号外環状線交点
国道170号旧道交点・ 市ノ山古墳(允恭天皇陵)
道明寺駅(北側)・ 玉手橋・ 石川橋(石川)
・柏原市
パナソニック サイクルテック本社工場
原川橋(原川)
河内国分駅(駅前)・ 国道25号交点
大阪教育大前駅・ 国分病院
柏原インターチェンジ
・香芝市
田尻峠・ 屯鶴峯・ 二上山
二上山駅(北側)
JA経済センター(畑5丁目付近)
出口橋(磯壁3丁目付近)・ 国道168号交点
福応寺・ 狐井城山古墳
・葛城市
(国道168号)
磐城駅・ 長尾公園墓地
国道166号交点
竹内街道交点
竹内街道
竹内街道は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26kmの街道である。羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166号に指定されている。
○成り立ち・歴史
竹内街道は日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた、日本最古の「官道」。 現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路につながっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断するのでその名が付いたと推定されている。天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」とみえ、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定されている。この道は、古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道より遅れて敷設されたと考えられる。また、この街道を直線道路として東西に延長すれば誉田山古墳南端の後円部に、大山古墳の南東端部の前方部に接して通っていることになる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られていることが分かる。官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、すでにかなりの人々の往来があったと思われる。飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった。中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に至るまで街道として利用されていることになる。近世には起点を堺大道筋(紀州街道)交点とした。江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。現在、そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。
○経由地 (沿線施設等)
(西側から記述する)
・堺市
堺(大小路交差点=大道筋交点) - 瓦町(堺市役所) - 榎元町(西高野街道と分岐) - 大阪市交通局中百舌鳥検車場 - ときはま線と交差 - 金岡町(金岡神社) - 大阪中央環状線と斜めに交差(この付近で難波大道と合流) - 大泉緑地南沿い - 野遠町(下高野街道と交差) - 西除川(西除橋)
・松原市
岡町(丹南北交差点=国道309号交点) - 岡(丹南東交差点=中高野街道と交差) - 立部(立部西・立部東交差点=大阪中央環状線交点)
・羽曳野市
野(野公民館前) - 東除川(伊勢橋) - 豊川病院前 - ボケ山古墳(仁賢天皇陵)付近 - 軽里1丁目交点 - 白鳥交差点(国道170号交点) - 古市駅前 - (国道166号) - 上ノ太子駅前
南河内郡太子町
六枚橋交差点(太子町役場付近) - (旧街道) - 竹内街道歴史資料館 - 風鼻橋東詰交差点(道の駅近つ飛鳥の里太子付近) - 竹内峠
・葛城市
高峰神社付近 - (旧街道・竹内集落内) - 芭蕉旧跡綿弓塚 - 竹内交差点南 - 長尾街道交点 - 長尾神社 - 長尾交差点(以東は横大路)
○成り立ち・歴史
竹内街道は日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた、日本最古の「官道」。 現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路につながっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断するのでその名が付いたと推定されている。天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」とみえ、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定されている。この道は、古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道より遅れて敷設されたと考えられる。また、この街道を直線道路として東西に延長すれば誉田山古墳南端の後円部に、大山古墳の南東端部の前方部に接して通っていることになる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られていることが分かる。官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、すでにかなりの人々の往来があったと思われる。飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった。中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に至るまで街道として利用されていることになる。近世には起点を堺大道筋(紀州街道)交点とした。江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。現在、そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。
○経由地 (沿線施設等)
(西側から記述する)
・堺市
堺(大小路交差点=大道筋交点) - 瓦町(堺市役所) - 榎元町(西高野街道と分岐) - 大阪市交通局中百舌鳥検車場 - ときはま線と交差 - 金岡町(金岡神社) - 大阪中央環状線と斜めに交差(この付近で難波大道と合流) - 大泉緑地南沿い - 野遠町(下高野街道と交差) - 西除川(西除橋)
・松原市
岡町(丹南北交差点=国道309号交点) - 岡(丹南東交差点=中高野街道と交差) - 立部(立部西・立部東交差点=大阪中央環状線交点)
・羽曳野市
野(野公民館前) - 東除川(伊勢橋) - 豊川病院前 - ボケ山古墳(仁賢天皇陵)付近 - 軽里1丁目交点 - 白鳥交差点(国道170号交点) - 古市駅前 - (国道166号) - 上ノ太子駅前
南河内郡太子町
六枚橋交差点(太子町役場付近) - (旧街道) - 竹内街道歴史資料館 - 風鼻橋東詰交差点(道の駅近つ飛鳥の里太子付近) - 竹内峠
・葛城市
高峰神社付近 - (旧街道・竹内集落内) - 芭蕉旧跡綿弓塚 - 竹内交差点南 - 長尾街道交点 - 長尾神社 - 長尾交差点(以東は横大路)
俊徳街道・十三街道
十三街道あるいは 俊徳街道と呼ばれる道は、大阪府大阪市の玉造駅付近あるいは四天王寺南門付近から、奈良県生駒郡斑鳩町の竜田までを結ぶ街道のこと。古くは、大阪・玉造と玉祖神社を結ぶ道として、『玉祖道』とも呼ばれた。中世には 『十三峠道』 あるいは 『俊徳道(しゅんとくみち)』 、明治時代以降の近世には 『十三街道』『俊徳街道』 と呼ばれるようになった。厳密には、十三街道と俊徳街道は別の街道であるが、地理的・歴史的に一体と見なす場合が多いため、本頁では『俊徳街道・十三街道』とする。
○概要・歴史
古くは、奈良時代の頃から難波・四天王寺と平城京を結ぶ街道のひとつとして整備された。俊徳街道は、現在の大阪市・四天王寺南門付近を起点とし、大阪市内の御勝山古墳の東側、北巽駅付近を経由し、東大阪市の三ノ瀬付近で十三街道に合流する。十三街道は、大阪市内の玉造駅付近からはじまり、東大阪市足代付近で暗越奈良街道と別れて南下し、三ノ瀬付近で俊徳街道に合流する。(合流地点までの経路や合流地点については諸説ありではっきりしないようである。) 俊徳道駅付近を通り、若江南で河内街道と合流、八尾市幸町で河内街道と分かれ、心合寺山古墳の北側、神立地区、十三峠、平群町福貴畑地区を経由し、平群町役場付近の竜田川沿いで清滝街道と合流(重複)し、斑鳩町の竜田大橋付近で奈良街道に合流する。本街道は、沿道に伝わる様々な伝説との関わりが深い。(後述)
○玉造と玉祖神社
八尾市の神立集落、この街道から少し南に外れた位置に玉祖神社がある。また、この付近には、大和朝廷の頃から曲玉(まがたま)を作っていた玉造部(たまつくりべ)の人々が暮らしていた。 大阪・玉造も同様であり、地理的な関わりも深く、街道を通じて深い交流があったといわれる。
○在原業平伝説
平安時代の歌人・在原業平が竜田から十三峠を越えて枚岡神社に参詣したおり、「神立茶屋辻」にあった茶屋の「梅野」という娘に恋をして、八百夜も通いつめたといわれる、『業平の高安通い』として伝えられている。また、この言い伝えにより、在原業平が通ったとされる現在の天理市から十三峠を越えて八尾市に至る道筋を『業平道』ともいう。玉祖神社には、業平が娘を呼び出すために吹いたという笛が伝えられている。
○俊徳丸と俊徳道
河内国・高安に住んでいた俊徳丸が、高安から四天王寺へ通った道筋といわれ、沿道の広範囲に亘り『俊徳』と冠される施設・旧跡などが点在する。
街道から少し南に外れた八尾市山畑地区に、『俊徳丸鏡塚』と呼ばれている塚がある。本来は高安古墳群に含まれる横穴式石室墳であるが、いつしか俊徳丸の伝説と結びついた。
○水呑地蔵・十三塚
八尾市神立・十三峠までの山の中腹に『水呑地蔵院』があり、本堂に『水呑地蔵』と呼ばれる地蔵菩薩が安置されている。本堂脇の小祠に水壺があり、清水がわき出ている。弘法大師が祈願して得られた霊水といわれており、地元では古くから名水として知られている。十三峠のすぐ北の尾根に『十三塚』と呼ばれる塚があり、街道および峠の名はそれに由来している。
○主な沿道施設・史跡
・大阪市
御勝山古墳
平野川(俊徳橋)
城東運河(北巽橋)
・東大阪市
布施警察署
近鉄俊徳道駅
JR俊徳道駅
大阪府立布施工科高等学校
近畿大学
第二寝屋川
・八尾市
市立埋蔵文化財調査センター
大阪府営高砂住宅
恩智川(福栄橋)・大阪府立みどり清朋高等学校(東大阪市)
心合寺山古墳
水呑地蔵院
・平群町
十三峠・十三塚
大石橋
平群町立平群西小学校
竜田川
○概要・歴史
古くは、奈良時代の頃から難波・四天王寺と平城京を結ぶ街道のひとつとして整備された。俊徳街道は、現在の大阪市・四天王寺南門付近を起点とし、大阪市内の御勝山古墳の東側、北巽駅付近を経由し、東大阪市の三ノ瀬付近で十三街道に合流する。十三街道は、大阪市内の玉造駅付近からはじまり、東大阪市足代付近で暗越奈良街道と別れて南下し、三ノ瀬付近で俊徳街道に合流する。(合流地点までの経路や合流地点については諸説ありではっきりしないようである。) 俊徳道駅付近を通り、若江南で河内街道と合流、八尾市幸町で河内街道と分かれ、心合寺山古墳の北側、神立地区、十三峠、平群町福貴畑地区を経由し、平群町役場付近の竜田川沿いで清滝街道と合流(重複)し、斑鳩町の竜田大橋付近で奈良街道に合流する。本街道は、沿道に伝わる様々な伝説との関わりが深い。(後述)
○玉造と玉祖神社
八尾市の神立集落、この街道から少し南に外れた位置に玉祖神社がある。また、この付近には、大和朝廷の頃から曲玉(まがたま)を作っていた玉造部(たまつくりべ)の人々が暮らしていた。 大阪・玉造も同様であり、地理的な関わりも深く、街道を通じて深い交流があったといわれる。
○在原業平伝説
平安時代の歌人・在原業平が竜田から十三峠を越えて枚岡神社に参詣したおり、「神立茶屋辻」にあった茶屋の「梅野」という娘に恋をして、八百夜も通いつめたといわれる、『業平の高安通い』として伝えられている。また、この言い伝えにより、在原業平が通ったとされる現在の天理市から十三峠を越えて八尾市に至る道筋を『業平道』ともいう。玉祖神社には、業平が娘を呼び出すために吹いたという笛が伝えられている。
○俊徳丸と俊徳道
河内国・高安に住んでいた俊徳丸が、高安から四天王寺へ通った道筋といわれ、沿道の広範囲に亘り『俊徳』と冠される施設・旧跡などが点在する。
街道から少し南に外れた八尾市山畑地区に、『俊徳丸鏡塚』と呼ばれている塚がある。本来は高安古墳群に含まれる横穴式石室墳であるが、いつしか俊徳丸の伝説と結びついた。
○水呑地蔵・十三塚
八尾市神立・十三峠までの山の中腹に『水呑地蔵院』があり、本堂に『水呑地蔵』と呼ばれる地蔵菩薩が安置されている。本堂脇の小祠に水壺があり、清水がわき出ている。弘法大師が祈願して得られた霊水といわれており、地元では古くから名水として知られている。十三峠のすぐ北の尾根に『十三塚』と呼ばれる塚があり、街道および峠の名はそれに由来している。
○主な沿道施設・史跡
・大阪市
御勝山古墳
平野川(俊徳橋)
城東運河(北巽橋)
・東大阪市
布施警察署
近鉄俊徳道駅
JR俊徳道駅
大阪府立布施工科高等学校
近畿大学
第二寝屋川
・八尾市
市立埋蔵文化財調査センター
大阪府営高砂住宅
恩智川(福栄橋)・大阪府立みどり清朋高等学校(東大阪市)
心合寺山古墳
水呑地蔵院
・平群町
十三峠・十三塚
大石橋
平群町立平群西小学校
竜田川
2012年8月1日水曜日
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