明日で今年も終わりですね。今年1年ありがとうございました。それと今後このブログには歴史ネタと関係ないネタ(花火大会やクリスマス等)のネタを書くのをやめようと思います。
2013年12月30日月曜日
2013年12月29日日曜日
五色塚古墳
五色塚古墳は、兵庫県神戸市垂水区にある、兵庫県下最大の前方後円墳。別名「千壷(せんつぼ)古墳」。築造年代は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。
墳丘は前方部を南西に向けた3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、後円部で18mである。墳丘は葺石で覆われている。
「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている。古墳の表面に使われている石は明石海峡内の物とされている。
『日本書紀』神功摂政元年春二月の条に「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」という記事があり、これが、五色塚古墳に関する伝承と云われている。瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。
堀(当時より空堀であったと考えられている)の中には前方部と後円部が接するあたりの東側に1辺20メートル、高さ5メートルの方形、および後円部の東側にも高さ1.5メートルのマウンドがある。当時は石が葺かれていた。
また、すぐ隣には、直径60メートルの円形の「小壷(こつぼ)古墳」(国指定史跡)があり、 五色塚古墳より少し古い時代に造られたと考えられている(こちらは葺石はされていない)。
○所在地
兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目
○見学
午前9時から午後5時まで、無料。
定休日:月曜、年末年始。
駐車場あり
○交通アクセス
山陽電鉄霞ヶ丘駅徒歩10分
JR神戸線垂水駅徒歩15分
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/17/010/area/rekisi/002.html
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/8776/gosiki.html
墳丘は前方部を南西に向けた3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、後円部で18mである。墳丘は葺石で覆われている。
「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている。古墳の表面に使われている石は明石海峡内の物とされている。
『日本書紀』神功摂政元年春二月の条に「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」という記事があり、これが、五色塚古墳に関する伝承と云われている。瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。
堀(当時より空堀であったと考えられている)の中には前方部と後円部が接するあたりの東側に1辺20メートル、高さ5メートルの方形、および後円部の東側にも高さ1.5メートルのマウンドがある。当時は石が葺かれていた。
また、すぐ隣には、直径60メートルの円形の「小壷(こつぼ)古墳」(国指定史跡)があり、 五色塚古墳より少し古い時代に造られたと考えられている(こちらは葺石はされていない)。
○所在地
兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目
○見学
午前9時から午後5時まで、無料。
定休日:月曜、年末年始。
駐車場あり
○交通アクセス
山陽電鉄霞ヶ丘駅徒歩10分
JR神戸線垂水駅徒歩15分
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/17/010/area/rekisi/002.html
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/8776/gosiki.html
2013年12月28日土曜日
関西学院大学の近代洋風建築物
W.M.ヴォーリズの設計による、西宮市に残る貴重なスパニッシュスタイルの近代洋風建築物。
所在地:〒662-8501兵庫県西宮市上ケ原一番町1-155
TEL:0798-54-6017
交通アクセス
(1) 阪急甲東園駅から徒歩で
(2) 阪急甲東園駅からバスで(関西学院前下車)
その他情報:建築年1929年
お問合わせ:0798-54-6017
http://www.kwansei.ac.jp/
所在地:〒662-8501兵庫県西宮市上ケ原一番町1-155
TEL:0798-54-6017
交通アクセス
(1) 阪急甲東園駅から徒歩で
(2) 阪急甲東園駅からバスで(関西学院前下車)
その他情報:建築年1929年
お問合わせ:0798-54-6017
http://www.kwansei.ac.jp/
難波宮
難波宮は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿。
○概要
難波宮のことは史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。1913年(大正2年)大阪城外堀の南付近で数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文の瓦が発見されていたが、ほとんどの人は省みなかった。しかし、1953年(昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)が発見された。このことがきっかけになり山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会の努力により発掘・調査が進み、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになった。1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、686年(朱鳥元年)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。1961年(昭和36年)山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根徳太郎は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり。」という発言を残した。
○前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完成した。大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれたが、この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
○建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。この門は、木製基壇の上に立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5メートル、南北は8.8メートル。柱は直径約60~80センチという太い柱が使われていた。天皇の住まい(内裏)と、政治・儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原・平城・平安宮など)にも採用された。朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14の朝堂が並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける。第一堂は南北(桁裄)16.1メートル、東西(梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル、東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三・四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は桁裄35.0メートル、梁間5.8メートルである。このように朝堂院の規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂に格式に差があったことが分かる。14の朝堂が見つかっている。後の宮では12である。これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在した。
○後期難波宮
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
○史跡難波宮跡
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大坂城の南西に整備されている。難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前四丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館のある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。 同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したもの。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。難波宮史跡公園の場所は、1871年(明治4年)以降に兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年(昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊が置かれていた。占領軍の接収解除後すぐに鴟尾が発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地の確保が可能となった。2006年(平成18年)には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や地層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている。
○概要
難波宮のことは史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。1913年(大正2年)大阪城外堀の南付近で数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文の瓦が発見されていたが、ほとんどの人は省みなかった。しかし、1953年(昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)が発見された。このことがきっかけになり山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会の努力により発掘・調査が進み、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになった。1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、686年(朱鳥元年)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。1961年(昭和36年)山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根徳太郎は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり。」という発言を残した。
○前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完成した。大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれたが、この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
○建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。この門は、木製基壇の上に立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5メートル、南北は8.8メートル。柱は直径約60~80センチという太い柱が使われていた。天皇の住まい(内裏)と、政治・儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原・平城・平安宮など)にも採用された。朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14の朝堂が並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける。第一堂は南北(桁裄)16.1メートル、東西(梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル、東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三・四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は桁裄35.0メートル、梁間5.8メートルである。このように朝堂院の規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂に格式に差があったことが分かる。14の朝堂が見つかっている。後の宮では12である。これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在した。
○後期難波宮
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
○史跡難波宮跡
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大坂城の南西に整備されている。難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前四丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館のある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。 同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したもの。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。難波宮史跡公園の場所は、1871年(明治4年)以降に兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年(昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊が置かれていた。占領軍の接収解除後すぐに鴟尾が発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地の確保が可能となった。2006年(平成18年)には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や地層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている。
2013年12月22日日曜日
神呪寺
神呪寺(神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は甲山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、地元では「お大師さん」とも呼ばれている。寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。
○歴史
鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について、記載がある。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、京都頂法寺にて、丹後国余佐郡の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘もまた、海人系の有力な豪族の娘であった可能性は高い。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、今の西宮浜から甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。 この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。空海もまた海人系の氏族の出身だったといわれ、如意尼と空海は海神系氏族としてつながりがあったとする見方もある。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、この神は水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。山号は「武庫山」であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更した。神呪寺の住所は、上記の通り甲山町であるが「神呪町」が寺の南西約3km離れた、新幹線と阪急今津線の交差点付近に存在し、この寺と繋がりのある地名であるとも言われている。
○信仰
神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている。5月18日に融通観音大祭があり、本尊の開扉がある。大師堂に祀られている弘法大師像は、大師58歳の姿で、厄除大師として信仰されている。甲山大師と称されている。
○文化財
重要文化財(国指定)
木造如意輪観音坐像
平安時代。当時の本尊。寺伝にいう空海の時代の作ではなく、10世紀後半から11世紀前半の作とされる。如意輪観音像には6臂像と2臂像があるが、この像は6臂像である。通常の如意輪観音像は右脚を立て膝とするが、本像は右脚を斜めにして左脚の上に乗せた珍しい形をしており、頭部が斜め上向きになっている点と合わせ、図像的に珍しい作例である。
木造聖観音立像―平安時代
木造不動明王坐像―鎌倉時代
木造弘法大師坐像―鎌倉時代
その他
山門―江戸時代(1804年)建立、三間一戸八脚門(中央高屋根四脚門)
○札所
新西国三十三箇所観音霊場第21番
摂津国八十八箇所第75番
摂津西国三十三箇所第3番
札所本尊は、如意輪観音
仏塔古寺十八尊第17番
○他
甲山八十八ケ所-1798年創設(西宮まちなび博(甲山八十八ケ所巡り))
○所在地・アクセス
〒662-0001 兵庫県西宮市甲山町25-1
阪急甲陽線甲陽園駅下車 徒歩30分
阪急・阪神バス 甲山大師前下車
阪急今津線逆瀬川駅下車 阪急バスかぶとやま荘ゆき かぶとやま荘下車、徒歩15分 またはかぶとやま荘から西宮甲山高校前まで歩き、乗り換え、甲山大師前下車
○歴史
鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について、記載がある。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、京都頂法寺にて、丹後国余佐郡の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘もまた、海人系の有力な豪族の娘であった可能性は高い。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、今の西宮浜から甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。 この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。空海もまた海人系の氏族の出身だったといわれ、如意尼と空海は海神系氏族としてつながりがあったとする見方もある。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、この神は水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。山号は「武庫山」であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更した。神呪寺の住所は、上記の通り甲山町であるが「神呪町」が寺の南西約3km離れた、新幹線と阪急今津線の交差点付近に存在し、この寺と繋がりのある地名であるとも言われている。
○信仰
神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている。5月18日に融通観音大祭があり、本尊の開扉がある。大師堂に祀られている弘法大師像は、大師58歳の姿で、厄除大師として信仰されている。甲山大師と称されている。
○文化財
重要文化財(国指定)
木造如意輪観音坐像
平安時代。当時の本尊。寺伝にいう空海の時代の作ではなく、10世紀後半から11世紀前半の作とされる。如意輪観音像には6臂像と2臂像があるが、この像は6臂像である。通常の如意輪観音像は右脚を立て膝とするが、本像は右脚を斜めにして左脚の上に乗せた珍しい形をしており、頭部が斜め上向きになっている点と合わせ、図像的に珍しい作例である。
木造聖観音立像―平安時代
木造不動明王坐像―鎌倉時代
木造弘法大師坐像―鎌倉時代
その他
山門―江戸時代(1804年)建立、三間一戸八脚門(中央高屋根四脚門)
○札所
新西国三十三箇所観音霊場第21番
摂津国八十八箇所第75番
摂津西国三十三箇所第3番
札所本尊は、如意輪観音
仏塔古寺十八尊第17番
○他
甲山八十八ケ所-1798年創設(西宮まちなび博(甲山八十八ケ所巡り))
○所在地・アクセス
〒662-0001 兵庫県西宮市甲山町25-1
阪急甲陽線甲陽園駅下車 徒歩30分
阪急・阪神バス 甲山大師前下車
阪急今津線逆瀬川駅下車 阪急バスかぶとやま荘ゆき かぶとやま荘下車、徒歩15分 またはかぶとやま荘から西宮甲山高校前まで歩き、乗り換え、甲山大師前下車