孝恩寺は大阪府貝塚市にある浄土宗の仏教寺院。山号は慈眼山。本尊は阿弥陀如来。釘を1本も使わずに建てられた「木積の釘無堂」と呼ばれる観音堂(国宝)が有名である。
○歴史
国宝に指定されている観音堂は、もとは「観音寺」と称し、孝恩寺とは別個の寺院であった。旧・観音寺は「和泉名所図会」のような近世の文献には「木積観音」(こつみかんのん)とあり、奈良時代の神亀3年(726年)、行基による開基と伝える古寺である。行基は現在の大阪府堺市の出身で、奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、民衆の支持を受けていた僧で、東大寺大仏の造立にも寄与している。行基の開創伝承をもつ寺は奈良県西部から大阪府南部にかけて多数存在し、観音寺もその1つで、「行基建立四十九院」の一つとされている。付近の地名を「木積」というが、これは行基が多数の寺院を建立するにあたり、山から切り出してきた材木の集積場であったことに由来する地名であるという。平安時代初頭までに七堂伽藍が揃っていたが、室町時代に山名氏や大内氏らの戦火に巻き込まれ大半の建物を焼失、安土桃山時代には根来寺の傘下にあったがために、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めで観音堂以外のほぼ全ての建物を焼失した。この際に、仏像を薬師池に沈めて消失を免れた、という逸話は地元の人間には有名な話である。唯一兵火を逃れ現存する観音堂は「木積の釘無堂」と呼ばれ、鎌倉時代の密教建築様式を伝える貴重な文化財として国宝の指定を受けている。なお「釘無堂」とは建築に際し釘を使用していないとの意味と思われるが、社寺建築の根幹部分に釘を使用しないのは必ずしもこの堂に限ったことではない。旧・観音寺は1889年(明治22年)に廃寺になった。1903年(明治36年)、観音堂が特別保護建造物(後の「重要文化財」)に指定された際は、寺院名を冠さず単に「観音堂」として指定された。その後、1914年(大正3年)、観音堂は孝恩寺に合併され、「孝恩寺観音堂」と称されて21世紀に至っている。孝恩寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院であるが、その由来、草創年月などは不明である。境内の宝物館には、仏像など国の重要文化財19件を所蔵・展示している。
○主な文化財
・国宝
観音堂―鎌倉時代、桁行5間、梁間5間、一重寄棟造、行基葺。連子窓、平行垂木など和様の意匠を基調とするが、長押の代わりに足固貫、内法貫などの貫(柱を貫通する水平材)を多用する点、正面扉を桟唐戸とする点などには禅宗様の要素がある。内部の外陣に架け渡した虹梁は断面円形の大仏様のものを用いている。
・重要文化財
阿弥陀如来坐像-平安時代、木造漆箔、像高138.8cm 下記の十一面観音像2躯とともに「阿弥陀三尊」として安置されている。
十一面観音立像(伝・観音菩薩像)-平安時代、木造、像高179.5cm
十一面観音立像(伝・勢至菩薩像)-平安時代、木造、像高167.5cm
阿弥陀如来立像-平安時代、木造彩色、像高141.0cm
釈迦如来坐像-平安時代、木造彩色、像高89.0cm
薬師如来立像-平安時代、木造彩色、像高158.4cm
十一面観音立像-平安時代、木造、像高156.8cm
聖観音立像 2躯-平安時代、木造彩色、像高161.7cm及び166.2cm
弥勒菩薩坐像-平安時代、木造彩色、像高86.7cm 印相からみて、本来、阿弥陀如来像として造立されたものと思われる。
文殊菩薩坐像-平安時代、木造彩色、像高169.0cm
普賢菩薩立像-平安時代、木造彩色、像高167.5cm
地蔵菩薩立像-平安時代、木造彩色漆箔 像高136.4cm
虚空蔵菩薩立像-平安時代、木造彩色 像高169.0cm 大阪市立美術館に寄託。
帝釈天立像-平安時代、木造彩色、像高171.0cm
多聞天立像-平安時代、木造彩色、像高169.2cm
弁才天立像-平安時代、木造彩色、像高117.6cm
難陀竜王立像-平安時代、木造彩色、像高164.4cm
跋難陀竜王立像-平安時代、木造彩色、像高173.4cm
板絵着色天部像-平安時代
(注)これら3躯は阿弥陀三尊像として祀られている。
○札所
和泉西国三十三箇所第25番
○所在地
〒597-0102大阪府貝塚市木積798
○交通アクセス
水間鉄道水間線 水間観音駅から水鉄バス「蕎原」行きで5分、「釘無堂」下車、徒歩すぐ
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