来迎寺は、大阪府守口市佐太中町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。
○歴史
近代以降は浄土宗に属するが、もとは融通念仏宗(大念仏宗)佐太派の本山であった。正平2年(1347年)、大念仏寺7世法明上人の弟子、実尊誠阿上人西願が河内国茨田郡下仁和寺庄守口村(守口市来迎町)に天筆如来を本尊として一宇を建立したのが始まりとされる。天筆如来とは、石清水八幡宮を創建した僧・行教が貞観元年(859年)に感得したとされる、阿弥陀三尊の絵像である。後に南朝後村上天皇の勅願寺となり、釈迦如来立像の寄進を受け、本堂に放光殿の号を賜る。その後延宝6年(1678年)、現在地に落ち着くまでの332年間、茨田郡内で26回の移転を繰り返している。守口市史編纂委員会の調査では、この理由を2世の時代以降に北朝方の足利義満から圧力を受けて創建当初の堂宇を維持できなくなったこと、住職相続を直檀家の内34家からなる床仲間からくじ引きで決めたこと等から、代替わり毎に相続者の居村に移転したものと結論付けている。因みに同村の者が相続した場合は移転していない。江戸時代に入ると江戸をはじめとする東国で盛んに本尊・天筆如来の開帳会が行われた。享保3年(1743年)、35世慈天の下に女の幽霊(江戸小網町の大工の妻、「お石」と言う)が現れ、慈天の回向を受けて成仏したとの伝説があり、その時に「お石」が残した幽霊の足跡とされるものが現在も伝わっている。
正平2年 (1347年):1世実尊来迎寺創建(守口市来迎町)
正平22年(1367年):2世誠愚
応永元年(1394年):3世浄念
応永3年 (1396年):同 西氷野村(大東市氷野)へ移転
応永25年(1418年):同 上津浜村(寝屋川市対馬江)へ移転
応永26年(1419年):4世求心 上仁和寺村(寝屋川市仁和寺)へ移転
同年10月 :5世願求今養庄(大阪市旭区清水町)へ移転
永享7年 (1435年):6世道祐移転せず
永享11年(1439年):7世宗秀大窪庄小寺村(守口市)へ移転
嘉吉元年(1441年):8世心空上仁和寺村へ移転
文安2年 (1445年):9世了内小高瀬村(守口市高瀬町)へ移転
文安5年 (1448年):10世寂円移転せず
寛正元年(1460年):11世宗音大窪庄へ移転
寛正4年 (1463年):12世了音大庭庄田井村(守口市大日町)へ移転
応仁2年 (1468年):13世道却三ッ島村(門真市三ッ島)へ移転
文明10年(1478年):14世妙光今養路庄榎並村へ移転
文亀元年(1501年):15世善通大庭庄田井村へ移転
永正12年(1515年):16世道本大窪庄北村(守口市大久保町)へ移転
永正13年(1516年):17世善通(15世と同名) 大庭庄田井3番村へ移転
永正15年(1518年):18世善覚大庭庄田井6番村へ移転
大永4年 (1524年):19世宗源大庭庄佐太村(守口市佐太)へ移転
天文16年(1547年):20世道性門真庄小寺村(門真市)へ移転
天文18年(1549年):21世道仙門真庄2番村(門真市)へ移転
永禄9年 (1569年):22世善秀大庭庄田井村へ移転
天正8年 (1580年):23世修心上仁和寺村へ移転
慶長6年 (1601年):24世良戒大庭庄田井村へ移転
寛永3年 (1626年):25世良貞大庭庄7番村(守口市大庭町)へ移転
寛永8年 (1631年):26世良覚大窪庄梶村(守口市梶町)へ移転
寛永17年(1640年):27世良仙大窪庄北村へ移転
正保3年 (1646年):28世良誉窪庄梶村へ移転
承応元年(1652年):29世良慧移転せず
寛文9年 (1669年):30世慈光当初移転せず
延宝6年 (1678年):同大庭庄佐太村(現在地)へ移転
○文化財
重要文化財
絹本著色八幡曼荼羅図
府指定有形文化財
石造十三重塔-嘉元2年(1304年)銘
その他
絹本著色阿弥陀三尊来迎図(天筆如来:本尊)
木造釈迦如来立像(嵯峨清凉寺式檀像)
木造十一面観音立像
絹本著色後村上天皇画像
紙本墨書伝花園上皇宸翰
鳳凰丹文鎌倉彫香合
幽霊の足跡
○所在地
大阪府守口市佐太中町7-11-17
○交通アクセス
大阪市営地下鉄谷町線大日駅から京阪バス佐太天神前下車、徒歩5分
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