2013年5月6日月曜日

藤ノ木古墳

藤ノ木古墳は奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳。現在は、地名を古墳名にしているが、かつては「陵山」(みささぎやま)と呼んだらしい。 玄室内から大量に出土した土師器、須恵器から古墳時代後期、6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。この時期に畿内では前方後円墳の造営が終わりに近づいていた。古墳は法隆寺西院伽藍の西方約350メートルに位置する。現在は周辺が公園として整備され、説明板なども多数設置されており、法隆寺周辺の観光スポットとなっている。また、古墳から南へ200メートルほど行くと、ガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されている。
○概要
発掘調査結果から、直径50メートル以上、高さ約9メートルの円墳であるとされている。ただし、現状は周りの水田や建物により少しずつ削り取られていて、高さ約7.6メートル、最大径約40メートルである。大和での埴輪の設置は6世紀前半で終わったと考えられていたが、墳丘裾には円筒埴輪が並べられていて、従来の見解を訂正することになった。
○石室・石棺
未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男性2人が合葬されていた。横穴式石室は、現墳丘裾から盛り土を少し取り除いたところに羨道の入り口(羨門)があり、その羨道を少し進むと両袖式の玄室に至る。この玄室は円墳の中心部に設けられている。石室規模は、全長14メートル弱、玄室の長さは西壁側で6メートル強、玄室の幅は3メートル弱、高さ3メートルに近く、羨道の長さは7メートル強、羨道幅2メートル強である。石室の床には礫が敷かれ、その下を排水溝が、玄室中央から羨道を通って墳丘裾へと敷かれている。石棺は、玄室の奥の方に安置されていた。石材は二上山の白色凝灰岩で造られており、石棺の内や外は、赤色顔料(水銀朱)で塗られている。棺の大きさは、約235×130×97センチメートルであり、蓋は約230×130センチメートルで、厚さが約52-55センチメートルであり、縄掛突起がついている。
○被葬者
副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などであるからこの当時の支配階級の一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではなく、その一族の人物であったと推測されている。前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や白石太一郎(奈良大学教授)は、2人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子の可能性が高いと論じている。一方、井沢元彦は副葬品や埋葬の様子から「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬された」との説を主張している。なお、南側被葬者については、女性説も存在する。
○発掘調査
1985年(昭和60年)から2006年にかけて6次にわたり斑鳩町教育委員会や奈良県立橿原考古学研究所により発掘調査が行われた。
・第1次調査(1985年7月22日-12月31日)
1985年からの第1次発掘調査では全長13.95メートルの横穴式石室と刳抜(くりぬき)式の家形石棺が発見された。石棺と奥壁の間からは金銅製鞍金具などの馬具類や武器・武具類、土師器、須恵器などが出土している(「金銅」は銅に金メッキをほどこしたもの)。馬具は3組出土しており、金銅製のものは古代東アジアの馬具の中でも最も豪華な物の一つであるといわれている。金銅製鞍金具は、鞍の形が鮮卑式であり、パルメット(仏教式唐草模様)、鳳凰、龍、鬼面、怪魚、象、獅子、兎などのモチーフが使われている。鮮卑系国家北燕の首都があった中国遼寧省朝陽市付近で発掘された鞍金具に同様のモチーフを持つ例が見られるが、日本、新羅、百済、伽耶いずれでも他にはまだ同様の鞍の出土例がなく非常に珍しいものである。
・第2次調査(1988年5月9日-7月8日)
墳丘の形態、規模の確認。ファイバースコープによる石棺内の確認調査。
・第3次調査(1988年9月30日-12月28日)
続いて1988年には未盗掘の家形石棺内部の調査が実施され、2体の人骨(男性2人の合葬である可能性が高い)のほか、大刀5振と剣1振、金銅製冠や金銅製履などの装身具、銅鏡4面、1万点以上の玉類などの副葬品が見つかっている。
古墳は国の史跡に指定されている。また、出土品一括は日本の古墳文化研究上価値の高いものとして、1988年に重要文化財、2004年に国宝に指定され、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館において保管・展示されている。
○所在地
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目
○史跡指定
1991年11月16日国指定
















0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。