東金御成街道は、九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて造らせたほぼ一直線の道路、船橋から東金までの間だけでも37キロメートルに及ぶ。なお東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道と呼ばれる。沿道の村々の農民たちが石高に応じてかり出され、「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」などといわれ、提灯街道、一夜街道または権現道などとも呼ばれるが、実際には慶長18年12月12日(1614年1月21日)に着工し、翌慶長19年1月7日(1614年2月15日)に完成した。また将軍が休息・宿泊する為に船橋御殿(現・船橋東照宮)、御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、東金御殿(現・千葉県立東金高等学校)も造られた。家康が慶長19年1月に初めて東金・九十九里方面を訪れてから、秀忠や権大納言時代の家光もこの街道を利用した。その後寛永7年(1630年)を最後に東金方面での鷹狩は行われなくなり、寛文11年(1671年)頃には3つの御殿も取り壊しになったが、東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存している。明治維新後各所で分断されたが、船橋から千葉市稲毛区六方町の陸上自衛隊下志津駐屯地の前までが、大正国道特1号の指定を経て千葉県道69号長沼船橋線および千葉県道66号浜野四街道長沼線の一部として、また東金市田間から山武市小松までは千葉県道124号緑海東金線として現存しているほか随所に残っており、八街市内の一部は市指定の史跡となっている。
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