2012年10月9日火曜日

鴨方往来

鴨方往来とは、備中国鴨方(岡山県浅口市)を中心とした形で東西に伸びていた旧街道である。鴨方往還とも呼ばれる。鴨方より東は岡山藩六官道のうちの一つでもある。
○概略
鴨方往来の街道沿線はかつて海岸線であったことから、備中浜街道という別名を持ち、内陸部を通る山陽道(西国街道)に対して並行する形で海岸寄りを進む。なお、鴨方往来の定義には諸説ある。
1.備前国岡山城下(岡山市北区)と備中国鴨方を結んでいた岡山藩官道のみを本街道とする。
2.1. より更に笠岡湊(笠岡市笠岡)までを本街道とする。
3.2. より更に金ノ浦(笠岡市金浦)までを本街道とする。
4.3. より更に備後国福山城下(広島県福山市)までを本街道とする。
5.4. より更に近世山陽道(西国街道)の津之郷(福山市津之郷町)までを本街道とする。
鴨方往来の定義は、地域や人、文献資料によって様々。鴨方以西は海岸線の後退により成立していることや、山陽道の代替路としても機能していたため、上方に続く道として上方道という別名をも持ち、上方道が転じての鴨方道ということも踏まえて、ここでは岡山市中心部から福山市津之郷町までを本街道として説明することとする。鴨方より東は、江戸時代に岡山藩が備前国岡山城下を中心とした形で放射状に整備した岡山藩六官道のうちの一つ。宇喜多氏時代に岡山藩が岡山城下の北側にあった山陽道(西国街道)を城下内に誘導させ、そこから放射状に「鴨方往来」、「金毘羅往来」、「松山往来」、「津山往来」、「倉敷往来」、「牛窓往来」の6つの官道、すなわち岡山藩六官道を整備した。岡山城下側における鴨方往来の起点は、栄町仙阿弥橋(岡山城三之曲輪)、現在の北区表町2丁目天満屋付近と推定され、当時は「町合所」がおかれていた。そこには城下内に誘導した山陽道が南北に通り、いわゆる城下の中心地であった。栄町仙阿弥橋より庭瀬、生坂(生坂藩 / 岡山新田藩)付近、長尾(新倉敷駅北地区)、占見(金光)などを経て鴨方に至る。途中までは金毘羅往来と重複していた。また、庭瀬までは「庭瀬往来」という呼称がある。鴨方より西へは、雲州街道や石州街道と連結する商港でもあった笠岡、金ノ浦(金浦)などを経て、備後国福山城下に入り、芦田川を渡って津之郷にて山陽道(神辺宿 ‐ 今津宿の間。)と接続していた。福山では福山城下より東を「笠岡街道」、西を「尾道街道」という呼称がある。
○歴史
岡山藩主の池田光政の二男である政言が、光政の隠居に際し、新田開発の地となった浅口郡に二万五千石を分封され、新田藩を立藩したことにより、鴨方には陣屋が置かれ、本藩との間を短絡する「鴨方往来」の必要性が生じ、岡山藩六官道のうちの一つとして整備がなされる。
○岡山藩六官道
岡山藩六官道のうち、「鴨方往来」以外は以下のとおり。
・金毘羅往来
岡山城下から下津井湊(倉敷市下津井)に向う、金毘羅参りの道であり、四国への道でもある。途中までは鴨方往来と重複し、そこから下津井湊へは干拓の進展による関係で複数の経路が存在する。
・松山往来
岡山城下から山陽道板倉宿までは山陽道と重複し、そこから備中高松 ‐ 総社 ‐ 美袋 を経て、備中松山藩の 備中松山城下(高梁市)に至る。
・津山往来
岡山城下から金川‐福渡‐弓削‐亀甲を経て、津山藩の津山城下(津山市)に至る。
・倉敷往来
岡山城下から牟佐‐町苅田‐周匝を経て、 出雲街道の林野(美作市)に至る。当時は、林野が「倉敷」と呼ばれていた。また、因幡国への道でもある。
・牛窓往来
岡山城下から益野‐西大寺を経て牛窓(瀬戸内市)に至る。
○経路
岡山城下からの「鴨方往来」の経路は以下のとおり。
・岡山市内から高梁川まで
当時の経路を辿ると大供交差点の西までは、ほぼ国道2号別線を西へ進む。大供からは市役所筋・県道173号の西側の道路がかつての往来にあたり、鹿田小学校の南を通る小径となる。道なりに進むと、大野辻あたりで旧2号線と交差し、北側へと渡る形になる。そして西進し、笹ヶ瀬川を川沿いに下り、旧2号線の南側へ。白石橋付近で西側へ渡り、久米地区へ入る。一方通行の標識が続く道が鴨方往来であると比定され、さらに西に進むとJR山陽線と交差し、これを越えて庭瀬に入る。JR庭瀬駅前で県道151号を通過した後は、市街地を抜けて足守川を渡ると撫川地区である。次は川崎医科大学(松島)の看板を遠望に直進する。松島地区では中庄駅との間付近の小径をさらに進み、旧2号線と交差しこれを越える。倉敷北中学校を回り込む様に進むと、後はほぼ直進する。このあたりが生坂地区に一番近付くものの、鴨方往来自体はそこには向かわない。また、現在の倉敷へも寄らず、船穂に向けて直進する。JR西阿知駅まではかつての往来と並行する形で北側に県道60号が都市計画道路として整備されている。尚、この付近は明治の改修までは高梁川の東縁(東高梁川)であり、堤防道路の名残りがある。高梁川以西(郡の境は酒津付近から両高梁川の中程あたりに設定されていた。)が旧浅口郡(この頃の連島は浅口郡)である。JR西阿知駅の北側では、近世と近代の鴨方往来が分岐する。近世の鴨方往来は更に県道60号と並行して進み、船穂橋の手前では県道60号の北を進んで、高梁川(西高梁川)の堤防に到着する。一方、近代の鴨方往来は、旧2号線の旧道であり、旧2号線を追う形で連島に向かい、霞橋で高梁川(西高梁川)を渡り、玉島に入る。近代の鴨方往来はJR鴨方駅のある六条院地区を通り、陣屋の置かれていた鴨方は通らない。
・高梁川から鴨方まで
ここでは、「鴨方往来」という街道名を踏まえ、鴨方を通らない近代の往来ではなく、近世の往来について述べることとする。高梁川(西高梁川)を渡り、船穂地区へ渡ると、堤防道路(右岸)として県道279号が通る。その堤防下道路がかつての往来にあたる。ここからは県道60号が経路に一致していることが多いが、近年改修が進み一部は近接地に新規路線として整備されている。船穂小学校付近では、道の脇を流れていた用水路(高瀬通し)をふさぐ形で道路を拡幅している。そのまま道なりに進んで行けば長尾地区に着く。長尾地区は、玉島湊(玉島港)から箭田を経て美袋の松山往来に接続していた「玉島往来」と交わるところであり、古い町並みが残る。新幹線の高架付近までが長尾地区の中心であった。この付近の県道60号は、山陽自動車道との接続道路として路線が新設されたため、かつての往来は倉敷市道となっており、新幹線の高架手前を右折し、新しく整備された県道60号と交差(左折するとJR新倉敷駅〔旧玉島駅〕)した後、県道60号の北側を並行して進む。中世までの海岸線はこのあたりであり、鴨方へと続くJR山陽線付近の低地は水道を呈する海であった。そして亀山(由来は<甕(かめ)(亀)山焼>: 須恵器の流れを継ぐものとされ、特に鎌倉時代から室町時代前半にかけての約200年間に、大量に生産されここから搬出された。) から道口一帯の入江は、「甕の泊(もたいのとまり)」とよばれ、藤戸海峡(児島の北端)から連島の北を通り、甕の泊へと続く航路があった。ちなみに、「道口の津」からは山陽道矢掛宿へと続く富峠を越えの「矢掛往来」(矢掛側では「玉島往来」と呼ばれていた。)があることから、文字通り「道の口」に由来する地名と思われる。山陽道側には猿掛山(庄氏の本拠地)があり、当時この一帯を支配下におくことは重要な意味を持つものであったはずである。富田地区で県道35号(県道60号重複)の路線上となり、富峠へ向かわずに富田橋北交差点を左折し(山あいをぬけると金光町下竹地区に続く。一部断続的に拡幅作業が続いているが、金光竹小学校の前を通る路線がかつての往来である。そのまま金光学園を左手に見ながら進むと、最初の角からやや右手に曲がる小道がありそちらに続く。やがて県道60号にあと少しのところまで道はせまるが、ため池などのそばを西へ向かう。県道155号との交差後はふたたび県道60号となり、鴨山の麓を目指して西進し里見川の支流(鴨方川)を渡ると、いわゆる鴨方の旧陣屋街(本町地区)に入る。このあたりで道筋は幾度も折れ曲がる桝形を残し、陣屋の中心地であった事を思いおこさせる。手前は三日市と呼ばれた商工業の集積地であったが、現在は商店もまばらである。陣屋の遺構としては、石垣・井戸がわずかに認められる。 現地案内板(浅口市文化財保護委員会による)の説明として、陣屋絵図に、表御門、溜長屋、御座敷、吟味場、御囲米御蔵、牢番詰所等の建物が描かれ、屋敷は東西約56.8m、南北約32.7mであることが記されている。
・鴨方から笠岡まで
往来は県道60号と別れ、JR山陽本線の通る里庄町の里見地区へと伸びる。途中(JR西阿知駅の北)で別れた近代の往来(現国道2号の旧道)と合流し、その後、里庄東小学校、里庄中学校の前からは県道288号の北側に併走し、県道288号に一度合流した後は、笠岡市富岡地区に入り、JR山陽本線と並行する形で、JR笠岡駅前の北側へと続く。ちなみに、里見地区から笠岡にかけては、かつて海岸線であったため、近世以前の往来はJR山陽本線と並行する形ではなく、県道60号と並行する形で内陸部を通っていた。
・笠岡から広島県境まで
JR笠岡駅前の北側から金浦地区に向う。笠岡駅前の北側の少し西では、雲州街道と呼ばれた「東城往来」が山陽道七日市宿(井原市)に向けて北に伸び、金浦地区(金ノ浦)では石州街道と呼ばれた「銀の道」が山陽道備後国分寺に向けて伸びる。鴨方往来は、雲州街道と石州街道をつなぎ、JR山陽本線と並行する形で広島県境(備後国境)へと向かう。ちなみに、金浦地区以西はかつて海であったところを通っており、備後福山藩の水野氏による干拓(吉浜干拓)によって陸地化がなされる以前は石州街道(銀の道)に沿って坪生(広島県福山市坪生町)に向かい、内陸部(現在の広島県道379号坪生福山線などにあたる。)を通って福山に入っていた。1661年(寛文元年)、水野勝慶4代目福山藩主の時代に吉浜干拓が完成し、干拓堤防が道として利用できるようになり、1732年(享保17年)に近世鴨方往来となる道筋が形成された。笠岡市吉浜の恵比寿様のお堂前にある大岩には「享保十七 壬子天此道成就 (みずのえねのとしこのみちじょうじゅす)」と刻まれており、岩山を切り開いて経路の付け替えを行ったものと考えられている。
○特徴
徒歩が中心の時代の整備されたものであるため、車社会においては、そのままでは対向は出来ないほどの道幅となっている。住居を移動させての拡幅はほぼ不可能なため、並行する形で道路を新設(数度わたる場合もある。)している箇所が殆どで、現在でもかつての往来の様子を伺える部分は多い。街道の性格としては、海岸線の後退による新耕地を結ぶ形の東側の部分(高梁川あたりまで)と、旧来の集落を結んだ既成の道を踏襲したと思われるような西側の部分で構成されている印象となっている。特に浅口市および里庄町内は古代の「郷」の中心地(有力な集落として継続している可能性もある。)を連絡しており、国府へ向かう「伝路」の痕跡を検証してもよい状況である。また、現在も周辺には学校・公共施設などが点在し、行政機関の統廃合の影響は生じているものの、集落の中心地であったことの名残りも伺える。海岸線の後退により幾度も経路変更がなされており、変更以前の経路については不明な点が多い。しかも鴨方や笠岡の中心部を通らず、玉島道口から福山市内にかけて現在の山陽自動車道とほぼ並行するような形での古道も存在する。しかも、その古道上には、笠岡市入田において入田番所と呼ばれる番所跡もあり、時代によって経路がどのように変わっていったのかについて今後の解明が求められる。岡山県において現在は笠岡市の一部(笠岡と金浦の間。)を除き、一致する部分はほとんどないものの、国道2号の路線構想の原型となっている。

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