大阪府内の北河内地区(京阪電鉄沿線)にはいくつかの古墳があるが、その中では保存状態が良い古墳である。この古墳は標高約22mの枚方台地北縁に築かれた前方後円墳で、大正11年3月に国の史跡に指定されている。全長107.5m、後円部径54.5m、前方部幅44mを測り、この地域では結構大きな規模の古墳である。墳丘の主軸は、ほぼ東西線上にzり、後円墳は、西に、前方部を東に配している。周囲には空壕がめぐらされ、南側と西側とに顕著な外堤が設けられている。空壕は幅約10mを測るが、壕底が一定しておらず、南西隅が最も高く、西側のもっとも低い所と比べると、約2.5mもの比高差があることは、後世の土砂崩れなどの要因による物ではなく、いしらく築造当所から濠底の高さは統一されていなかったものと考えられる。またこのことは、この古墳の濠が、平野部の中期古墳に典型的に見られる水濠とは異なることを示している。なお昭和53年度に後円部西側で行われた調査では、幅約4~5m、深さ約20~30㎝の濠跡が確認され、さらに、濠の内側にて、約10㎝に感覚で2個の円筒は庭が検出された。この調査結果により、現在ではその痕跡は全く認められていないが、かつてこの古墳には2重の濠が存在したという指摘が容認されることになった。築造時期については、内部主体や副葬品が明らかでないため、明確に出来ないが、後円部が前方部に比べてやや高く、前方部がまだ十分に発達していないことからおおむね古墳時代中期前半だと考えられる。なお、現在では、葺石、埴輪類は墳丘では全く認められないが、昭和3年頃には、後円部に円筒埴輪が樹立されていたらしい。
この古墳の南から西方一帯には、かつて、いくつかの小古墳が存在していたと言われ、赤塚、ショーガ塚、子供塚などの名が知られているが、全て、現在では、ほとんど何も明らかにされないまま消滅してしまった。ただ赤塚古墳については、坂村(枚方市)の医学者三浦蘭阪(1765~1843年)が、文化3年(1806)に刊行した書物の中で「赤塚古墳には木棺が直葬され、副葬品として、当期、銅製品、鉄刀、数枚の銅鏡が出土した」ことが記載されていたらしい。また、赤塚古墳の存在した付近で、人物は庭の腕と考えられる破片が見つかったらしい。
昭和61年にこの古墳の南東部で行われた発掘調査では、墳丘は完全に削られているが、計4基の小円墳が確認され、うち1基からは木棺の痕跡も検出された。これらの古墳の出土遺物から6世紀代後半の築造と考えられる。このように、現在ではただこの古墳だけが独立してあったように見えるが複数の古墳がこの周辺に存在し、古墳群を形成していたことがわかる。
所在地:枚方市片鉾東町1丁目
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