お多賀さんの名で親しまれ、「寿命の神」「縁結びの神」「厄除けの神」で知られる多賀大社で、毎年6月30日に「夏越の大祓」が斎行されます。日頃の罪、穢を人形(ひとかた)により祓います。鳥居をくぐってすぐにある太鼓橋の前に大きな茅の輪が立てられ、これをくぐる茅の輪くぐりも行われます。
所在地:〒522-0341滋賀県犬上郡多賀町多賀604
開催期間:2018年6月30日15:00~
交通アクセス:近江鉄道「多賀大社前駅」から徒歩10分、またはJR琵琶湖線「彦根駅」から湖国バス「国道多賀大社」~徒歩2分、または名神高速道路「彦根IC」から車約10分
問合せ先:多賀大社0749-48-1101
http://www.tagataisya.or.jp/
2018年4月29日日曜日
神剣渡御祭(でんでん祭)2018
龍王山の山麓に位置し日本最古の神社の一つとされる石上神宮で、毎年6月30日に五穀豊穣や悪霊退散を祈る「神剣渡御祭(でんでん祭)」が斎行されます。神剣が末社の神田神社へ渡御し、早苗を奉じた作男や早乙女らが従い、御田植神事が行われます。
所在地:〒632-0014奈良県天理市布留町384
開催期間:2018年6月30日13:00~16:00、夏越大祓式/17:00~18:00※渡御は雨天中止
交通アクセス:JR桜井線・近鉄「天理駅」から「苣原(チシャハラ)行」・「六郷(リクゴウ)小学校前行」・「国道針行」のバス約8分「石上神宮前」~徒歩5分
主催:石上神宮
料金:境内散策自由
問合せ先:石上神宮0743-62-0900
http://www.isonokami.jp/
所在地:〒632-0014奈良県天理市布留町384
開催期間:2018年6月30日13:00~16:00、夏越大祓式/17:00~18:00※渡御は雨天中止
交通アクセス:JR桜井線・近鉄「天理駅」から「苣原(チシャハラ)行」・「六郷(リクゴウ)小学校前行」・「国道針行」のバス約8分「石上神宮前」~徒歩5分
主催:石上神宮
料金:境内散策自由
問合せ先:石上神宮0743-62-0900
http://www.isonokami.jp/
大神神社夏越の大祓2018
半年間のうちに知らず知らずに身についた罪と穢れを人形に移して、茅の輪をくぐり心身ともに祓い清める「夏越の大祓」が、大神神社の祈祷殿前斎庭で執り行われます。斎主をはじめ祭員、参列した人々とともに、八の字になるように「茅の輪」をくぐります。
所在地:〒633-8538奈良県桜井市三輪1422
開催期間:2018年6月30日15:00~
交通アクセス:JR桜井線「三輪駅」から東へ徒歩5分、または近鉄大阪線「桜井駅」からバス「三輪明神参道口」~徒歩10分
料金:境内散策自由
問合せ先:大神神社0744-42-6633
http://www.oomiwa.or.jp/
所在地:〒633-8538奈良県桜井市三輪1422
開催期間:2018年6月30日15:00~
交通アクセス:JR桜井線「三輪駅」から東へ徒歩5分、または近鉄大阪線「桜井駅」からバス「三輪明神参道口」~徒歩10分
料金:境内散策自由
問合せ先:大神神社0744-42-6633
http://www.oomiwa.or.jp/
矢田寺あじさい園開園2018
矢田寺の2万5000平方mの境内には、紫陽花庭園や見本園があり、例年6月上旬から7月上旬まで、約60種1万株のあじさいの見頃にあわせて開園されます。6月1日から30日には、本堂内陣と地蔵菩薩立像および重文の仏像などを拝観できる「本堂特別拝観」が行われるほか、堂内の閻魔大王並びに十王像などが拝観できる「閻魔堂特別開扉」も実施されます(入堂はできません)。6月10日から下旬まで茶席が開放され、裏千家流と宗偏流によるおうすも楽しめます(有料)。※JR大和路線「法隆寺駅」から「矢田寺前」までの臨時バス運行(日程未定)
所在地:〒639-1058奈良県大和郡山市矢田町3549
開催期間:2018年6月1日~7月10日8:30~17:00
交通アクセス:近鉄「郡山駅」から「矢田寺前行」の奈良交通バス「矢田寺」~徒歩10分、またはJR大和路線「大和小泉駅」から「近鉄郡山駅行」の奈良交通バス「横山口」~徒歩20分
料金:【入山料】大人500円、小学生200円 ※本堂特別拝観は別途必要、閻魔堂特別開扉は無料
問合せ先:矢田寺0743-53-1445
http://www.yatadera.or.jp/
所在地:〒639-1058奈良県大和郡山市矢田町3549
開催期間:2018年6月1日~7月10日8:30~17:00
交通アクセス:近鉄「郡山駅」から「矢田寺前行」の奈良交通バス「矢田寺」~徒歩10分、またはJR大和路線「大和小泉駅」から「近鉄郡山駅行」の奈良交通バス「横山口」~徒歩20分
料金:【入山料】大人500円、小学生200円 ※本堂特別拝観は別途必要、閻魔堂特別開扉は無料
問合せ先:矢田寺0743-53-1445
http://www.yatadera.or.jp/
2018年4月28日土曜日
梛神社
梛神社は、京都府京都市中京区壬生にある神社。通称は「元祇園社」。境内には大正期に遷座した式内大社の隼神社が鎮座する。
○祭神
祭神は次の通り。
主祭神素戔嗚尊
配祀神次の3柱のほか数柱。 宇賀御魂命
伊弉冉命
誉田別尊
○歴史
社伝では、貞観11年(876年)に京での疫病流行により播磨国広峰(広峰神社)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という[1]。その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会の起源であるとしている[1]。また、このことから梛神社は「元祇園社」と呼ばれるという。明治までは小祠であったが、明治7年(1874年)と昭和4年(1929年)の復興により現在の形が整えられたという。
○隼神社
隼神社は、梛神社境内にある神社。式内社(大社)。
・祭神
主祭神 建甕槌神(たけみかづちのかみ)
配祀神 経津主神(ふつぬしのかみ)
・歴史
概史
創建は不詳。
国史では『日本三代実録』において、貞観2年(860年)から貞観16年(874年)にかけて「後院隼神」の神階が無位から従四位上まで昇叙された旨の記載がある[2]。また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「京中坐神三座 並大」のうちに「左京四条坐神一座 月次新嘗 隼神社」として、式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『三代実録』当時に四条に所在した後院は朱雀院(右京三条から四条)であることから、この隼神社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている。朱雀院の復元研究においても院の南西角に鎮守として石神明神・隼社があったことが明らかとなっており、当時の隼社の位置は四条大路と皇嘉門大路交点の北東角、すなわち現在の中京区壬生花井町の南西部分と推定されている。その後、『延喜式』編纂時までには左京四条坊内坊城小路に移されたと見られ、以後同地で推移したとされる。江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ:皮膚病の一種)の平癒のために信仰されたという。その後大正7年(1918年)に現在地の梛神社境内に遷座した。旧鎮座地には石碑が建てられている。なお、奈良県奈良市にも隼神社の鎮座が知られる。同社の社伝では、平安遷都に伴い勧請されて平安京中の隼神社になったとするが、詳らかではない。
・神階
六国史における神階奉叙の記録。いずれも「後院隼神」と表記される。
貞観2年(860年)6月15日、無位から従五位下 (『日本三代実録』)
貞観7年(865年)6月4日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)
貞観10年(868年)11月17日、従五位下から従四位下 (『日本三代実録』)
貞観16年(874年)8月4日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)
・祭事
年間祭事は次の通り。
月次祭 (毎月1日・15日・17日)
歳旦祭 (1月1日)
元始祭 (1月3日)
節分祭 (2月2日・3日)
祈年祭 (2月17日)
氏神祭 (5月第3日曜)
夏越祓、茅の輪くぐり (6月30日)
隼神社例祭、火焚祭 (11月第3日曜)
新嘗祭、勤労感謝祭 (11月23日)
大祓式 (12月31日)
○現地情報
所在地京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2
交通アクセス鉄道 阪急電鉄京都本線 大宮駅 (西へ徒歩約4分)
京福電気鉄道嵐山本線 四条大宮駅 (西へ徒歩約4分)
バス 京都市営バスで「壬生寺道」バス停下車
○祭神
祭神は次の通り。
主祭神素戔嗚尊
配祀神次の3柱のほか数柱。 宇賀御魂命
伊弉冉命
誉田別尊
○歴史
社伝では、貞観11年(876年)に京での疫病流行により播磨国広峰(広峰神社)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という[1]。その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会の起源であるとしている[1]。また、このことから梛神社は「元祇園社」と呼ばれるという。明治までは小祠であったが、明治7年(1874年)と昭和4年(1929年)の復興により現在の形が整えられたという。
○隼神社
隼神社は、梛神社境内にある神社。式内社(大社)。
・祭神
主祭神 建甕槌神(たけみかづちのかみ)
配祀神 経津主神(ふつぬしのかみ)
・歴史
概史
創建は不詳。
国史では『日本三代実録』において、貞観2年(860年)から貞観16年(874年)にかけて「後院隼神」の神階が無位から従四位上まで昇叙された旨の記載がある[2]。また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「京中坐神三座 並大」のうちに「左京四条坐神一座 月次新嘗 隼神社」として、式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『三代実録』当時に四条に所在した後院は朱雀院(右京三条から四条)であることから、この隼神社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている。朱雀院の復元研究においても院の南西角に鎮守として石神明神・隼社があったことが明らかとなっており、当時の隼社の位置は四条大路と皇嘉門大路交点の北東角、すなわち現在の中京区壬生花井町の南西部分と推定されている。その後、『延喜式』編纂時までには左京四条坊内坊城小路に移されたと見られ、以後同地で推移したとされる。江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ:皮膚病の一種)の平癒のために信仰されたという。その後大正7年(1918年)に現在地の梛神社境内に遷座した。旧鎮座地には石碑が建てられている。なお、奈良県奈良市にも隼神社の鎮座が知られる。同社の社伝では、平安遷都に伴い勧請されて平安京中の隼神社になったとするが、詳らかではない。
・神階
六国史における神階奉叙の記録。いずれも「後院隼神」と表記される。
貞観2年(860年)6月15日、無位から従五位下 (『日本三代実録』)
貞観7年(865年)6月4日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)
貞観10年(868年)11月17日、従五位下から従四位下 (『日本三代実録』)
貞観16年(874年)8月4日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)
・祭事
年間祭事は次の通り。
月次祭 (毎月1日・15日・17日)
歳旦祭 (1月1日)
元始祭 (1月3日)
節分祭 (2月2日・3日)
祈年祭 (2月17日)
氏神祭 (5月第3日曜)
夏越祓、茅の輪くぐり (6月30日)
隼神社例祭、火焚祭 (11月第3日曜)
新嘗祭、勤労感謝祭 (11月23日)
大祓式 (12月31日)
○現地情報
所在地京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2
交通アクセス鉄道 阪急電鉄京都本線 大宮駅 (西へ徒歩約4分)
京福電気鉄道嵐山本線 四条大宮駅 (西へ徒歩約4分)
バス 京都市営バスで「壬生寺道」バス停下車
北国銀行(旧山口銀行)京都支店
烏丸通りにあるこの建物は、山口銀行の京都支店として建てられたものです。その後は北国銀行京都支店でしたが、現在は撤退してflowing KARASUMA(インテリア関連のお店)というテナントビルになりその後DEAN & DELUCA 京都という店になっています。2015年3月5日にオープンして現在もそのレストラン炉して利用されています。辰野金吾の作品としてはこじんまりとした建物ですが、彼の特徴である赤レンガに白ラインの入ったファサード。ただし縦のラインも強調されています。鉄筋コンクリート造り2階建。
旧山口銀行(旧北国銀行)
1916(大正5)年
設計:辰野・片岡建築事務所
施工:不明
所在地:京都府京都市中京区烏丸通蛸薬師下ル手洗水町645(烏丸通蛸薬師南西角)
旧山口銀行(旧北国銀行)
1916(大正5)年
設計:辰野・片岡建築事務所
施工:不明
所在地:京都府京都市中京区烏丸通蛸薬師下ル手洗水町645(烏丸通蛸薬師南西角)
平野國臣殉難の地
駒札によると・・・
平野國臣殉難の地
幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑されたところである。この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。 国臣は、生野の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。同年7月19日禁門の変(蛤御門の変)の兵火の中で幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか37名にのぼった。なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行ったところと言われ、付近に記念碑がある。
京都市
六角獄舎(今の刑務所)があったようです。六角獄舎とは次のようなもので巣。
六角獄舎は平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄である。正式名は三条新地牢屋敷。移転を繰り返して宝永5年(1708年)の京都大火以降に中京区六角通りに移転されてからは六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになった。
○歴史
宝暦4年(1754年)、医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所が六角獄舎である。解剖には死刑囚が用いられた。幕末の混乱の中、井伊直弼の安政の大獄による政治犯や過激な尊皇攘夷派志士らが多く捕らえられて処刑されるようになる。しかし反面、尊皇攘夷思想の強い囚人が集まったため牢内で囚人達に尊皇論を説いたり同志と知り合ったりなどという事もあったらしい。元治元年7月19日(1864年8月20日)に始まった禁門の変に伴い生じた火災(どんどん焼け)は、京都市中に広がり六角獄舎にも及ぶ恐れが生じた。管理を任されていた京都町奉行の滝川具挙は過激な志士達の脱走を恐れて囚人解き放ちをせず、いまだ判決が定まっていなかった生野の変首謀者・平野国臣、天誅組の変の水郡善之祐(河内)乾十郎(大和)など囚人33人を斬罪に処してしまう。しかし六角獄舎に火は回って来なかった。これについて、安政の大獄で捕らえられていた村井正礼が記した手記『縲史』に当時の生々しい記録が残る。さらに、先月の池田屋事件の折に捕縛されていた古高俊太郎をはじめとする尊皇攘夷志士らも斬罪。この件は新選組の仕業と疑われるようになる。明治以後、監獄から保護施設として改築された。斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が埋め立てられてはいるが跡地に現存しており、密かな心霊スポットになっている。
こういう経緯があって近所に近代医学発祥の地という石碑もある。
所在地:京都府京都市中京区六角通大宮西入ル因幡町
平野國臣殉難の地
幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑されたところである。この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。 国臣は、生野の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。同年7月19日禁門の変(蛤御門の変)の兵火の中で幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか37名にのぼった。なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行ったところと言われ、付近に記念碑がある。
京都市
六角獄舎(今の刑務所)があったようです。六角獄舎とは次のようなもので巣。
六角獄舎は平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄である。正式名は三条新地牢屋敷。移転を繰り返して宝永5年(1708年)の京都大火以降に中京区六角通りに移転されてからは六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになった。
○歴史
宝暦4年(1754年)、医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所が六角獄舎である。解剖には死刑囚が用いられた。幕末の混乱の中、井伊直弼の安政の大獄による政治犯や過激な尊皇攘夷派志士らが多く捕らえられて処刑されるようになる。しかし反面、尊皇攘夷思想の強い囚人が集まったため牢内で囚人達に尊皇論を説いたり同志と知り合ったりなどという事もあったらしい。元治元年7月19日(1864年8月20日)に始まった禁門の変に伴い生じた火災(どんどん焼け)は、京都市中に広がり六角獄舎にも及ぶ恐れが生じた。管理を任されていた京都町奉行の滝川具挙は過激な志士達の脱走を恐れて囚人解き放ちをせず、いまだ判決が定まっていなかった生野の変首謀者・平野国臣、天誅組の変の水郡善之祐(河内)乾十郎(大和)など囚人33人を斬罪に処してしまう。しかし六角獄舎に火は回って来なかった。これについて、安政の大獄で捕らえられていた村井正礼が記した手記『縲史』に当時の生々しい記録が残る。さらに、先月の池田屋事件の折に捕縛されていた古高俊太郎をはじめとする尊皇攘夷志士らも斬罪。この件は新選組の仕業と疑われるようになる。明治以後、監獄から保護施設として改築された。斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が埋め立てられてはいるが跡地に現存しており、密かな心霊スポットになっている。
こういう経緯があって近所に近代医学発祥の地という石碑もある。
所在地:京都府京都市中京区六角通大宮西入ル因幡町
武信稲荷神社
武信稲荷神社は、京都府京都市中京区にある神社。必勝、命名、名付けに利益がある。
○祭神
宇迦之御魂大神
佐田彦大神
大宮能売大神
○歴史
859年2月、藤原良相によって創祀された。藤原武信が当社を厚く信仰したため武信稲荷と呼ばれるようになった。2011年に境内の改修がおこなわれた。
○行事
1月1日-歳旦祭
1月15日-どんと焼き
2月3日-節分祭
2月最初の午の日-初午祭
5月第2日曜日-例祭(さつき祭り)
8月最終日曜日-子供みこし巡行
11月第2日曜日-御火焚祭
○逸話
境内に平重盛が植えた榎の大木があり、そこに坂本龍馬がおりょうにあてて伝言を書き残し、その伝言がもとで二人は再会できたという。2010年に、宮司である仲尾宗泰が書いた本(仲尾宗泰 2010)が徳間書店より出版された。
○交通
阪急京都本線 大宮駅より徒歩(約650m)。
京福電気鉄道嵐山本線 四条大宮駅より徒歩(約600m)。
山陰本線 二条駅より徒歩(約800m)。
京都市営地下鉄東西線 二条城前駅より徒歩(約900m)。
○所在地
京都府京都市中京区三条通大宮西入る
http://takenobuinari.jp/
○祭神
宇迦之御魂大神
佐田彦大神
大宮能売大神
○歴史
859年2月、藤原良相によって創祀された。藤原武信が当社を厚く信仰したため武信稲荷と呼ばれるようになった。2011年に境内の改修がおこなわれた。
○行事
1月1日-歳旦祭
1月15日-どんと焼き
2月3日-節分祭
2月最初の午の日-初午祭
5月第2日曜日-例祭(さつき祭り)
8月最終日曜日-子供みこし巡行
11月第2日曜日-御火焚祭
○逸話
境内に平重盛が植えた榎の大木があり、そこに坂本龍馬がおりょうにあてて伝言を書き残し、その伝言がもとで二人は再会できたという。2010年に、宮司である仲尾宗泰が書いた本(仲尾宗泰 2010)が徳間書店より出版された。
○交通
阪急京都本線 大宮駅より徒歩(約650m)。
京福電気鉄道嵐山本線 四条大宮駅より徒歩(約600m)。
山陰本線 二条駅より徒歩(約800m)。
京都市営地下鉄東西線 二条城前駅より徒歩(約900m)。
○所在地
京都府京都市中京区三条通大宮西入る
http://takenobuinari.jp/
二条陣屋
二条陣屋は京都府京都市中京区にある伝統的建造物(町家)。建築物3棟と土地が国の重要文化財に指定されている(指定名称は「小川家住宅」)。
○概要
当住宅は、二条城の南方、洛中の西のはずれに近い、大宮通御池下る三坊大宮町にあり、大宮通の西側に屋敷地がある。屋敷地は表間口16メートル余、裏間口40メートル余、奥行40メートルで、表間口に比して裏間口と奥行が大きく、京の町屋の中でも最大級の規模を有する。主屋は木造2階建(一部3階)、桟瓦葺き。商家であるとともに、大名の宿泊所である公事宿(くじやど)を兼ねた特異な住宅である。外観上の特色は、防火のため外面をすべて漆喰で塗籠めとし、窓も虫籠窓(むしこまど)しか開けないことで、一般の京町屋とは異なった外観となっている。建立年代については、天明8年(1788年)の大火以後、18世紀末頃と推定される。
○文化財指定
当住宅は1944年(昭和19年)に国の重要文化財(当時の国宝保存法に基づく旧国宝)に指定された(指定名称は「小川家住宅」)。民家建築としては、大阪府羽曳野市の吉村家住宅(1937年指定)に続いて2番目の指定である。主屋、北土蔵、西土蔵の3棟が重要文化財に指定されている。1980年には土地1,272.32平方メートルが重要文化財に追加指定された。指定時の官報告示では、主屋の構造規模は以下のように記載されている。
居室部 桁行13.9m、梁間15.4m、切妻造段違、南面及び東面庇付
客室部 桁行8.9m、梁間14.7m、切妻造、北面及び西面各突出部及び庇付、東面庇附属
取合部 桁行5.9m、梁間8.9m、切妻造、南面及び北面庇付、東面居室部、西面客室部に接続
二階建、客室部一部三階、桟瓦葺
○小川家
当住宅の居住者である小川家の出自については、通説では伊予今治城主の小川祐忠(土佐守)の末裔であるとされる。祐忠は豊臣秀吉の没後、武士をやめて近江高島郡今津に住んでいたが、その子の千橘が、寛文10年(1670年)に伯父を頼って上洛し、萬屋平右衛門を名乗って米両替商を営んだという。その後、7代目平右衛門の時から薬種商を兼業したという。二条城に近いこの界隈には町奉行所、京都所司代などの役所が所在したことから、小川家ではいつの頃からか、これらの役所を訪れる諸国の大名などを宿泊させるようになり、「陣屋」の称が生じたという。なお、小川祐忠を当家の祖とすることについては古文書の裏付けを欠き、確証はないとする説もある。また、小川家の祖については奈良の春日社の神官の出であるとする別伝もある。
○建築
当住宅は前述のように奥行が深く、小部屋を多数設けていて、間取りは複雑である。もとは大宮通に面して、つし2階(厨子2階)付きの店舗棟が存在したが、これは大正天皇の大典の際に取り壊され、その奥に建つ居室部と客室部が現存している。ただし、居室部南側の玄関や台所の部分も大正期に改造を受けている。東西に細長い主屋の手前(東側)が居室部、その西奥に接続するのが客室部で、それぞれの部分には以下の諸室が設けられている。
居室部1階 内玄関、土間、台所、板間、玄関の間(6畳)、女中部屋(長5畳)、居間(6畳)、囲いの間(5畳)、北の間(3畳)、茶室(2畳)、仏間(2畳)
居室部2階 前六畳(6畳)、前三畳(3畳)、菊の間(3畳と4畳半)、雁の間(6畳)、囲の間(4畳半)、茶室(2畳)
客室部1階 八影の間(6畳)、お能の間(8畳)、大広間(15畳)、春日の間(6畳)、皆如庵(1畳台目茶室)、水屋(2畳)、脱衣場(3畳)、湯殿
客室部2階 赤壁の間(6畳と8畳)、蘇鉄の間(苫船の間、8畳)、長五畳(5畳)、三階居間(3畳)、三階茶室(3畳)(「三階居間」と「三階茶室」は、他の部屋よりやや高い位置にある。)
大広間(15畳)は、主屋西端のもっとも奥まったところに位置する。北側に床の間を設け、その右に床脇(天袋、違棚付き)、左に地袋を設ける。さらに地袋から矩折りの西側には付書院がある。天井は桐材の格天井である。以上のように、床、棚、付書院を備えた書院造を基調としつつ、長押に打たれた磁器製の釘隠、室境の桑材の欄間に施された捻梅(ねじりうめ)の透彫など、随所に数寄屋風の意匠がみられる。天井裏には武者溜があり、そこから室内の様子を窺えるようになっているが、下から見上げると明かり取りの天窓にしか見えない。天袋の絵は狩野永真筆、地袋の漆絵は小川破笠の作といわれている。
大広間の西にある「お能の間」は8畳間であるが、畳を上げるとその下は檜板張りになっており、能舞台として使用できるようになっている。床下には音響効果を高めるため、4つの甕がいけられている。室の東側と西側の障子は、段襖と称する特殊なもので、紙張の部分と板張の部分とが交互に段替わりになっている。これは、演能時や夜間には板張の部分をずらして紙張の部分を覆うことによって普通の板戸に変化する。脇の廊下は能舞台の橋掛の役を果たし、壁には橋掛と同様、松が描かれている。大広間から廊下を隔てて北側にある「春日の間」(6畳)は、床の間の壁貼付絵として三笠山を描く。これは小川家の出自が春日神官であったという家伝にちなむものである。2階の西側のもっとも奥にある「蘇鉄の間」(8畳)は「苫船の間」とも呼ばれ、天井の形状など、室全体が屋形船に見立てられている。以前はこの室の下に池があったという。この建物は全体に防火、防犯を重視した造りになっている。外壁は前述のとおり軒裏まで漆喰で塗籠め、窓は虫籠窓に土戸とするが、これらは防火上の配慮である。垂木先には鉤状の金具が取り付けられており、隣家が火災の場合にはここに濡れ筵を掛けて延焼を防ぐ。邸内には12か所の井戸があり、各井戸は相互に銅製の樋で繋がっていて、1つの井戸から大量の水を汲み出しても枯れない仕組みになっている。防犯面の工夫としては、前述の武者溜のほか、1階湯殿前廊下の吊り階段(平素は吊り上げておく)、1階仏間奥の隠し階段、大広間付近の二重になった廊下などがある。
○所在地
〒604-8316京都市中京区三坊大宮町一三七番地
http://nijyojinya.net/
○概要
当住宅は、二条城の南方、洛中の西のはずれに近い、大宮通御池下る三坊大宮町にあり、大宮通の西側に屋敷地がある。屋敷地は表間口16メートル余、裏間口40メートル余、奥行40メートルで、表間口に比して裏間口と奥行が大きく、京の町屋の中でも最大級の規模を有する。主屋は木造2階建(一部3階)、桟瓦葺き。商家であるとともに、大名の宿泊所である公事宿(くじやど)を兼ねた特異な住宅である。外観上の特色は、防火のため外面をすべて漆喰で塗籠めとし、窓も虫籠窓(むしこまど)しか開けないことで、一般の京町屋とは異なった外観となっている。建立年代については、天明8年(1788年)の大火以後、18世紀末頃と推定される。
○文化財指定
当住宅は1944年(昭和19年)に国の重要文化財(当時の国宝保存法に基づく旧国宝)に指定された(指定名称は「小川家住宅」)。民家建築としては、大阪府羽曳野市の吉村家住宅(1937年指定)に続いて2番目の指定である。主屋、北土蔵、西土蔵の3棟が重要文化財に指定されている。1980年には土地1,272.32平方メートルが重要文化財に追加指定された。指定時の官報告示では、主屋の構造規模は以下のように記載されている。
居室部 桁行13.9m、梁間15.4m、切妻造段違、南面及び東面庇付
客室部 桁行8.9m、梁間14.7m、切妻造、北面及び西面各突出部及び庇付、東面庇附属
取合部 桁行5.9m、梁間8.9m、切妻造、南面及び北面庇付、東面居室部、西面客室部に接続
二階建、客室部一部三階、桟瓦葺
○小川家
当住宅の居住者である小川家の出自については、通説では伊予今治城主の小川祐忠(土佐守)の末裔であるとされる。祐忠は豊臣秀吉の没後、武士をやめて近江高島郡今津に住んでいたが、その子の千橘が、寛文10年(1670年)に伯父を頼って上洛し、萬屋平右衛門を名乗って米両替商を営んだという。その後、7代目平右衛門の時から薬種商を兼業したという。二条城に近いこの界隈には町奉行所、京都所司代などの役所が所在したことから、小川家ではいつの頃からか、これらの役所を訪れる諸国の大名などを宿泊させるようになり、「陣屋」の称が生じたという。なお、小川祐忠を当家の祖とすることについては古文書の裏付けを欠き、確証はないとする説もある。また、小川家の祖については奈良の春日社の神官の出であるとする別伝もある。
○建築
当住宅は前述のように奥行が深く、小部屋を多数設けていて、間取りは複雑である。もとは大宮通に面して、つし2階(厨子2階)付きの店舗棟が存在したが、これは大正天皇の大典の際に取り壊され、その奥に建つ居室部と客室部が現存している。ただし、居室部南側の玄関や台所の部分も大正期に改造を受けている。東西に細長い主屋の手前(東側)が居室部、その西奥に接続するのが客室部で、それぞれの部分には以下の諸室が設けられている。
居室部1階 内玄関、土間、台所、板間、玄関の間(6畳)、女中部屋(長5畳)、居間(6畳)、囲いの間(5畳)、北の間(3畳)、茶室(2畳)、仏間(2畳)
居室部2階 前六畳(6畳)、前三畳(3畳)、菊の間(3畳と4畳半)、雁の間(6畳)、囲の間(4畳半)、茶室(2畳)
客室部1階 八影の間(6畳)、お能の間(8畳)、大広間(15畳)、春日の間(6畳)、皆如庵(1畳台目茶室)、水屋(2畳)、脱衣場(3畳)、湯殿
客室部2階 赤壁の間(6畳と8畳)、蘇鉄の間(苫船の間、8畳)、長五畳(5畳)、三階居間(3畳)、三階茶室(3畳)(「三階居間」と「三階茶室」は、他の部屋よりやや高い位置にある。)
大広間(15畳)は、主屋西端のもっとも奥まったところに位置する。北側に床の間を設け、その右に床脇(天袋、違棚付き)、左に地袋を設ける。さらに地袋から矩折りの西側には付書院がある。天井は桐材の格天井である。以上のように、床、棚、付書院を備えた書院造を基調としつつ、長押に打たれた磁器製の釘隠、室境の桑材の欄間に施された捻梅(ねじりうめ)の透彫など、随所に数寄屋風の意匠がみられる。天井裏には武者溜があり、そこから室内の様子を窺えるようになっているが、下から見上げると明かり取りの天窓にしか見えない。天袋の絵は狩野永真筆、地袋の漆絵は小川破笠の作といわれている。
大広間の西にある「お能の間」は8畳間であるが、畳を上げるとその下は檜板張りになっており、能舞台として使用できるようになっている。床下には音響効果を高めるため、4つの甕がいけられている。室の東側と西側の障子は、段襖と称する特殊なもので、紙張の部分と板張の部分とが交互に段替わりになっている。これは、演能時や夜間には板張の部分をずらして紙張の部分を覆うことによって普通の板戸に変化する。脇の廊下は能舞台の橋掛の役を果たし、壁には橋掛と同様、松が描かれている。大広間から廊下を隔てて北側にある「春日の間」(6畳)は、床の間の壁貼付絵として三笠山を描く。これは小川家の出自が春日神官であったという家伝にちなむものである。2階の西側のもっとも奥にある「蘇鉄の間」(8畳)は「苫船の間」とも呼ばれ、天井の形状など、室全体が屋形船に見立てられている。以前はこの室の下に池があったという。この建物は全体に防火、防犯を重視した造りになっている。外壁は前述のとおり軒裏まで漆喰で塗籠め、窓は虫籠窓に土戸とするが、これらは防火上の配慮である。垂木先には鉤状の金具が取り付けられており、隣家が火災の場合にはここに濡れ筵を掛けて延焼を防ぐ。邸内には12か所の井戸があり、各井戸は相互に銅製の樋で繋がっていて、1つの井戸から大量の水を汲み出しても枯れない仕組みになっている。防犯面の工夫としては、前述の武者溜のほか、1階湯殿前廊下の吊り階段(平素は吊り上げておく)、1階仏間奥の隠し階段、大広間付近の二重になった廊下などがある。
○所在地
〒604-8316京都市中京区三坊大宮町一三七番地
http://nijyojinya.net/
東華菜館
東華菜館は、京都市の北京料理店である。本店は下京区の四条大橋西詰南側、洛北店は左京区下鴨本通北山下ルにある。
○概要
本店の建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計、1926年竣工で、登録有形文化財である。また、同店のエレベータは1924年OTIS製で、神戸市の商船三井ビル、松尾ビルのものとともに日本に現存する最古のエレベータである。このエレベータは手動式で、L字状に2箇所の出入り口を有している。
○略歴
1892年頃-牡蠣料理店「矢尾政」開店。
1907年頃-西洋料理併営。
1926年-「矢尾政」新店舗竣工。
1927年-「矢尾政」新店舗開店。
1945年-「東華菜館」開店。
1993年-洛北店開店。
2016年-8月4日、本店の地下1階の変電室の一部が焼ける火事が発生。
住所:京都府京都市下京区四条通大橋西詰
アクセス:阪急京都線河原町駅/地下鉄烏丸線四条駅それぞれから徒歩1分
http://www.tohkasaikan.com/
○概要
本店の建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計、1926年竣工で、登録有形文化財である。また、同店のエレベータは1924年OTIS製で、神戸市の商船三井ビル、松尾ビルのものとともに日本に現存する最古のエレベータである。このエレベータは手動式で、L字状に2箇所の出入り口を有している。
○略歴
1892年頃-牡蠣料理店「矢尾政」開店。
1907年頃-西洋料理併営。
1926年-「矢尾政」新店舗竣工。
1927年-「矢尾政」新店舗開店。
1945年-「東華菜館」開店。
1993年-洛北店開店。
2016年-8月4日、本店の地下1階の変電室の一部が焼ける火事が発生。
住所:京都府京都市下京区四条通大橋西詰
アクセス:阪急京都線河原町駅/地下鉄烏丸線四条駅それぞれから徒歩1分
http://www.tohkasaikan.com/
壬生中屯所旧跡八木邸
八木邸は新選組の屯所として使われた、郷士八木家の邸宅。八木家は但馬国で八木安高により起こった。源頼朝より今の家紋(三つ木瓜)を拝領したと伝っている。室町時代に京の壬生に移し、江戸の浪士組の宿となる。
所在地:京都市中京区壬生梛ノ宮町24
http://www.mibu-yagike.jp/
所在地:京都市中京区壬生梛ノ宮町24
http://www.mibu-yagike.jp/
壬生寺
壬生寺は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の仏教寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺、心浄光院と号した。
○歴史
園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる。江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。
○境内
現在の本堂は1970年(昭和45年)の再建である。境内には他に大念仏堂(狂言舞台、重要文化財)、近藤勇銅像、壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。
○文化財
・重要文化財
木造地蔵菩薩立像(唐招提寺旧蔵、平安時代)
錫杖(しゃくじょう)
紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)
壬生寺大念仏堂(狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
・焼失した重要文化財
木造地蔵菩薩半跏像 旧本尊、鎌倉時代
木造四天王立像 鎌倉時代
金鼓 正嘉元年(1257年)銘 -「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと
以上3件は1962年の火災で焼失した。
・重要無形民俗文化財
壬生狂言
壬生六斎念仏踊り(指定名称は「京都の六斎念仏」)
・行事
壬生狂言毎年節分と春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財に指定されている。公開は2月の節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照壬生六斎念仏踊り年中行事として、かつては毎年8月9日の精霊迎え火、16日の精霊送り火、23日の地蔵盆に壬生寺で上演されていたが、現在は9日にのみ実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照地蔵盆時の出開帳壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵の石仏を貸し出す、俗称「レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。京都でも新興住宅地などでは地域の地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合は宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺の場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである。
○所在地
京都府京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31
http://www.mibudera.com/
○歴史
園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる。江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。
○境内
現在の本堂は1970年(昭和45年)の再建である。境内には他に大念仏堂(狂言舞台、重要文化財)、近藤勇銅像、壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。
○文化財
・重要文化財
木造地蔵菩薩立像(唐招提寺旧蔵、平安時代)
錫杖(しゃくじょう)
紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)
壬生寺大念仏堂(狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
・焼失した重要文化財
木造地蔵菩薩半跏像 旧本尊、鎌倉時代
木造四天王立像 鎌倉時代
金鼓 正嘉元年(1257年)銘 -「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと
以上3件は1962年の火災で焼失した。
・重要無形民俗文化財
壬生狂言
壬生六斎念仏踊り(指定名称は「京都の六斎念仏」)
・行事
壬生狂言毎年節分と春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財に指定されている。公開は2月の節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照壬生六斎念仏踊り年中行事として、かつては毎年8月9日の精霊迎え火、16日の精霊送り火、23日の地蔵盆に壬生寺で上演されていたが、現在は9日にのみ実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照地蔵盆時の出開帳壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵の石仏を貸し出す、俗称「レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。京都でも新興住宅地などでは地域の地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合は宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺の場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである。
○所在地
京都府京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31
http://www.mibudera.com/
神泉苑
神泉苑は、京都市中京区にある東寺真言宗の寺院。本尊は聖観音・不動明王・弘法大師。二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。境内に「恵方社」として「大歳神:歳徳神」を祀るが毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なる(日本国内で毎年向きを変える「大歳神」は唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられる)。
○歴史
延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。史料に初めてその名が見られるのは『日本紀略』の記事であり、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容である。延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったとみられる。また、『日本後紀』には、嵯峨天皇が弘仁3年(812年)に神泉苑にて「花宴の節」を催したとあり、これが記録に残る花見の初出と考えられている。季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し空海が勝った。また空海以降も密教僧による雨乞いが何度も行われている。貞観5年(863年)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。貞観11年(869年)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったと言われている。尚、現在でも京都を中心に祭典時に鉾を立てる神社が幾つか存在する。この鉾は剣鉾(けんぼこ)と言う。中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小した。神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われた。筑紫の僧覚雅(快雅)が朝廷の許しを得て慶長12年(1607年)より元和年間(1615~1624年)に掛けて復興を図った。弘法大師との縁によりこの時より東寺真言宗の寺院(寺領四十石)となった。都名所図会で紹介される神泉苑は覚雅(快雅)による復興後である。神泉苑の境内には弁財天も祀られているが貞享2年(1685年)の京都案内誌「京羽二重」(水雲堂狐松子著)の中では弁財天廿九ヶ所の霊場のひとつとなっている。
天明8年(1783年)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。
昭和10年(1935年)に国から文化財として「史跡」に指定される。
平成26年(2014年)には善女竜王勧請1200年記念事業として法成池の水を55年振りに抜いて善女竜王社本殿等の解体・修復を行っている。
伝承では源義経と静御前が出会った場と言われ、また神泉苑の池が京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来であるとの説もある(異説あり)。二条城の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑がある。これは京都市営地下鉄東西線に関わる工事の際に判明したものである。京都新聞は戦時中、1面コラムの名前を「神泉」としていた。おそらく神泉苑に由来すると思われる。
○境内
本堂
方丈
善女竜王社
恵方社
弁天堂(増運弁財天)
鎮守稲荷社(矢劔大明神)
鐘楼
法成就池、法成橋
平安殿
○文化財
境内-国の史跡
木造不動明王坐像-重要文化財
○年中行事
2月2日に星祭り、3日に節分祭が行われる。
5月2日-3日に神泉苑祭が行われる。前後して5月1日から5月4日にかけて、苑内の狂言堂で大念仏狂言が催される(平成26年(2014年)から、狂言の公開のみ11月の第1金曜から3日間に変更された)。京都では、壬生寺、清凉寺、引接寺(千本閻魔堂)と並ぶ念仏狂言の寺である。
7月24日の祇園祭・還幸祭では夕方18時30分頃に中御座の御神輿が渡御し迎え太鼓が奉納される。
平成26年(2014年)から、11月の第1金曜日から金土日の3日間、苑内の狂言堂で大念仏狂言が催される。
12月31日に住職による祈祷の後「歳徳神(としとくじん)」の方違えが行われる(例年22時30分前後)。
※現在の狂言堂のある場所は昭和中期まで「神泉幼稚園」として幼稚園の教室があったが都市中心部の子供の減少に伴い廃園となった。
○アクセス
JR西日本山陰本線(嵯峨野線)・京都市営地下鉄東西線二条駅より東へ徒歩で約10分
京都市営地下鉄東西線二条城前駅下車、西へ徒歩で約2分
阪急電鉄京都線大宮駅、又は京福電気鉄道嵐山本線四条大宮駅から北へ徒歩で約10分
京都市営バス「神泉苑前」、京都バス「神泉苑」下車すぐ
※参拝者用駐車場は無し。東側の大宮通にコインパーク数か所有り
京都市中京区御池通神泉苑町東入る門前町166
http://www.shinsenen.org/
○歴史
延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。史料に初めてその名が見られるのは『日本紀略』の記事であり、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容である。延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったとみられる。また、『日本後紀』には、嵯峨天皇が弘仁3年(812年)に神泉苑にて「花宴の節」を催したとあり、これが記録に残る花見の初出と考えられている。季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し空海が勝った。また空海以降も密教僧による雨乞いが何度も行われている。貞観5年(863年)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。貞観11年(869年)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったと言われている。尚、現在でも京都を中心に祭典時に鉾を立てる神社が幾つか存在する。この鉾は剣鉾(けんぼこ)と言う。中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小した。神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われた。筑紫の僧覚雅(快雅)が朝廷の許しを得て慶長12年(1607年)より元和年間(1615~1624年)に掛けて復興を図った。弘法大師との縁によりこの時より東寺真言宗の寺院(寺領四十石)となった。都名所図会で紹介される神泉苑は覚雅(快雅)による復興後である。神泉苑の境内には弁財天も祀られているが貞享2年(1685年)の京都案内誌「京羽二重」(水雲堂狐松子著)の中では弁財天廿九ヶ所の霊場のひとつとなっている。
天明8年(1783年)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。
昭和10年(1935年)に国から文化財として「史跡」に指定される。
平成26年(2014年)には善女竜王勧請1200年記念事業として法成池の水を55年振りに抜いて善女竜王社本殿等の解体・修復を行っている。
伝承では源義経と静御前が出会った場と言われ、また神泉苑の池が京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来であるとの説もある(異説あり)。二条城の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑がある。これは京都市営地下鉄東西線に関わる工事の際に判明したものである。京都新聞は戦時中、1面コラムの名前を「神泉」としていた。おそらく神泉苑に由来すると思われる。
○境内
本堂
方丈
善女竜王社
恵方社
弁天堂(増運弁財天)
鎮守稲荷社(矢劔大明神)
鐘楼
法成就池、法成橋
平安殿
○文化財
境内-国の史跡
木造不動明王坐像-重要文化財
○年中行事
2月2日に星祭り、3日に節分祭が行われる。
5月2日-3日に神泉苑祭が行われる。前後して5月1日から5月4日にかけて、苑内の狂言堂で大念仏狂言が催される(平成26年(2014年)から、狂言の公開のみ11月の第1金曜から3日間に変更された)。京都では、壬生寺、清凉寺、引接寺(千本閻魔堂)と並ぶ念仏狂言の寺である。
7月24日の祇園祭・還幸祭では夕方18時30分頃に中御座の御神輿が渡御し迎え太鼓が奉納される。
平成26年(2014年)から、11月の第1金曜日から金土日の3日間、苑内の狂言堂で大念仏狂言が催される。
12月31日に住職による祈祷の後「歳徳神(としとくじん)」の方違えが行われる(例年22時30分前後)。
※現在の狂言堂のある場所は昭和中期まで「神泉幼稚園」として幼稚園の教室があったが都市中心部の子供の減少に伴い廃園となった。
○アクセス
JR西日本山陰本線(嵯峨野線)・京都市営地下鉄東西線二条駅より東へ徒歩で約10分
京都市営地下鉄東西線二条城前駅下車、西へ徒歩で約2分
阪急電鉄京都線大宮駅、又は京福電気鉄道嵐山本線四条大宮駅から北へ徒歩で約10分
京都市営バス「神泉苑前」、京都バス「神泉苑」下車すぐ
※参拝者用駐車場は無し。東側の大宮通にコインパーク数か所有り
京都市中京区御池通神泉苑町東入る門前町166
http://www.shinsenen.org/