寛永年間(1624~1643)に堺の豪商・谷正安が創建、沢庵宗彭が開山した臨済宗大徳寺派の寺。明治末期まで、境内に「五葉松」があったことから、「松の寺」とも呼ばれていた。寺は第二次世界大戦で焼失し、昔の面影はないが、谷正安の依頼によって描かれた67才時の沢庵肖像(国の重要文化財)や「釈迦二声聞像」(しゃかにせいしょうもんぞう:堺の重要文化財)などが残っている。また、境内には、大阪府指定の名勝のひとつである庭園が。庭全体を平らとする平庭式の枯山水様式の庭園で、土塀寄りに石組を配置し、手前に広い白砂空間をとるという江戸時代の様式がその特徴だとか。空襲に焼け残った石組をもとに整備されたこの庭園からは、作庭当時の姿を偲ぶことができる。
所在地:〒590-0954大阪府堺市堺区大町東4丁2-7
TEL:072-232-2131
少林寺
少林寺は、堺市堺区にある臨済宗大徳寺派黄梅院末に属する寺院。山号は萬年山。
○歴史
1330年に挑源宗悟が開山した。寺号は、開甚大檀越小林修理亮法の姓をとリ「小林寺」としたが、のちに菩提達磨の少林寺にならって「少」の字に改めた。本尊は釈迦牟尼佛、鎮守白蔵主稲荷明神。1906年には禅通寺を合併した。その鎮守である今池弁財天をまつる。かつての寺の境域は、現在の寺地町・少林寺町を合わせ両町の海浜にまで達していたが、寺地の多くを織田信長に没収され次第に衰退していった。しかしその後も、豊臣秀吉が石田三成と小西行長に命じて境内竹木の伐採を禁止するなど、小さな寺ながら名刹の扱いを受けていた。1381年に塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠して「霊狐」を得る。そして狂言大蔵流の始祖・霊狐の所作を狂言に作り、『釣狐』として上演した。それ以後、狂言や歌舞伎関係者は『釣狐』を上演する際は少林寺に參詣し、技芸の上達上演の成功を祈願。寺内の逆芽竹を1本祈祷してもらった上で持ち帰り、上演の時の杖に使用する慣習になっている。
○所在地
大阪府堺市堺区少林寺町東3-1-18
○交通アクセス
阪堺電気軌道阪堺線寺地町駅徒歩5分
○歴史
1330年に挑源宗悟が開山した。寺号は、開甚大檀越小林修理亮法の姓をとリ「小林寺」としたが、のちに菩提達磨の少林寺にならって「少」の字に改めた。本尊は釈迦牟尼佛、鎮守白蔵主稲荷明神。1906年には禅通寺を合併した。その鎮守である今池弁財天をまつる。かつての寺の境域は、現在の寺地町・少林寺町を合わせ両町の海浜にまで達していたが、寺地の多くを織田信長に没収され次第に衰退していった。しかしその後も、豊臣秀吉が石田三成と小西行長に命じて境内竹木の伐採を禁止するなど、小さな寺ながら名刹の扱いを受けていた。1381年に塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠して「霊狐」を得る。そして狂言大蔵流の始祖・霊狐の所作を狂言に作り、『釣狐』として上演した。それ以後、狂言や歌舞伎関係者は『釣狐』を上演する際は少林寺に參詣し、技芸の上達上演の成功を祈願。寺内の逆芽竹を1本祈祷してもらった上で持ち帰り、上演の時の杖に使用する慣習になっている。
○所在地
大阪府堺市堺区少林寺町東3-1-18
○交通アクセス
阪堺電気軌道阪堺線寺地町駅徒歩5分
産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人である。この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小橋命に関わる伝承は多い。
所在地:大阪市天王寺区小橋町3-1
最寄駅:JR環状線、近鉄奈良線、地下鉄千日前線「鶴橋」下車、
千日前通りを西へ約300m、北に入る
所在地:大阪市天王寺区小橋町3-1
最寄駅:JR環状線、近鉄奈良線、地下鉄千日前線「鶴橋」下車、
千日前通りを西へ約300m、北に入る
大村益次郎殉難碑
文政7年(1824)周防に生まれた。弘化3年(1846)23歳のとき来坂、適塾に入り僅か1年で塾頭になっている。明治2年(1869)兵部大輔(ひょうぶだいゆう)に任ぜられ、近代陸軍兵制の確立に努力した。しかし不平士族の反感をうけ、同年9月京都で襲撃された。そのとき右脚に重傷をおったが、京都では適切な治療をうけられず、現在の碑の近くにあった浪華仮病院(大福寺から当所へ移転、同頂参照)で右脚切断の手術をうけたが、すでに手後れで敗血症のため死亡した。切断された脚は遺志により、師緒方洪庵夫妻の傍ら(北区竜海禅寺)に葬られている。
大阪市中央区法円坂二丁目 国立大阪病院南東角
市バス「大阪国立病院前」下車すぐ
大阪市中央区法円坂二丁目 国立大阪病院南東角
市バス「大阪国立病院前」下車すぐ
打上古墳群
打上の周辺には、古くから多くの古墳があったといわれています。江戸時代の『河内名所図会(観光ガイドブックのようなもの)』には、「八十塚同村にあり由縁不詳、八十は其数の多きをいふ」と紹介されています。打上には、高塚・ほり塚・ぬめり塚・から塚などという「塚」の名前のついた地名が多くみられます。これらのことから、かつて打上には多くの塚(古墳)が存在していたことがうかがえます。しかし、ほとんどの古墳は、耕地などをつくるために消滅してしまったようです。明和小学校前バス停横にある多くの花崗岩の巨石は、かつてこの付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられます。
寝屋川市打上
寝屋川市打上
落柿舎
落柿舎は、嵯峨野(京都府京都市右京区)にある草庵。
○概要
松尾芭蕉の弟子、向井去来の別荘として使用されていた草庵で、去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」がある。古い家の周囲には40本の柿の木があったという。庭の柿を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている。 1691年(元禄4年)4月から5月までここに松尾芭蕉が滞在して嵯峨日記を著した。野沢凡兆(ぼんちょう)、凡兆の妻の羽紅(うこう)、去来が訪ねてきて一つの蚊帳で5人が一緒に寝たりしている。 現在の庵は俳人井上重厚による再建である。場所も建物も芭蕉の時代のそれとは異なっている。平成20年12月1日から平成21年9月末まで庵の大規模な修復工事が行なわれた。タンポポの『嵯峨野さやさや』の2番で「雨の落柿舎 たんぼ道」の歌詞で歌われている。
○所在地
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町2
○交通アクセス
JR山陰線 嵯峨嵐山駅 徒歩20分
○概要
松尾芭蕉の弟子、向井去来の別荘として使用されていた草庵で、去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」がある。古い家の周囲には40本の柿の木があったという。庭の柿を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている。 1691年(元禄4年)4月から5月までここに松尾芭蕉が滞在して嵯峨日記を著した。野沢凡兆(ぼんちょう)、凡兆の妻の羽紅(うこう)、去来が訪ねてきて一つの蚊帳で5人が一緒に寝たりしている。 現在の庵は俳人井上重厚による再建である。場所も建物も芭蕉の時代のそれとは異なっている。平成20年12月1日から平成21年9月末まで庵の大規模な修復工事が行なわれた。タンポポの『嵯峨野さやさや』の2番で「雨の落柿舎 たんぼ道」の歌詞で歌われている。
○所在地
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町2
○交通アクセス
JR山陰線 嵯峨嵐山駅 徒歩20分
野宮神社
野宮神社は、京都市右京区の嵯峨野にある神社である。祭神は野宮大神(天照皇大神)。旧社格は村社で、現在は神社本教の被包括法人となっている。鳥居は樹皮がついたままの「黒木の鳥居」で、古代の鳥居の形式を伝えている。
○祭神
本殿--野宮大神(天照皇大神)
境内社
愛宕大神(本殿右)
白峰弁財天(本殿左)
白福稲荷大明神(本殿より右側の摂社)
大山弁財天(本殿より右側の摂社)
野宮大黒天(ののみやだいこくてん:本殿左)
○歴史
伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王の中から新たな斎王が卜定され、嵯峨野の清らかな場所を選んで作られた野宮に入って一年間潔斎した後に伊勢神宮へ向かった。その時の行列を「斎王群行」といい、現在では毎年10月の例祭において「斎宮行列」としてその様子を再現している。野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。斎王の制度は南北朝時代の後醍醐天皇の代を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、戦乱の中で衰退した。後に後奈良天皇、中御門天皇らの命により再興され、皇室からの厚い崇敬を受けた。境内には苔を用いた美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」がある。また、源氏物語「賢木」の巻にも現れ、謡曲「野宮」の題材ともなっている。
○施設
境内社の野宮大黒天は縁結びの神として有名で、大黒天に参詣し、その横の「お亀石」をさすれば願いが叶うと言われている。
○祭礼
嵯峨祭(5月第3・4日曜) - 愛宕神社と合同
斎宮行列(10月第3日曜)
○交通
京福電鉄嵐山本線「嵐山駅」下車、徒歩約10分
京都府京都市右京区嵯峨野々宮町1
○祭神
本殿--野宮大神(天照皇大神)
境内社
愛宕大神(本殿右)
白峰弁財天(本殿左)
白福稲荷大明神(本殿より右側の摂社)
大山弁財天(本殿より右側の摂社)
野宮大黒天(ののみやだいこくてん:本殿左)
○歴史
伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王の中から新たな斎王が卜定され、嵯峨野の清らかな場所を選んで作られた野宮に入って一年間潔斎した後に伊勢神宮へ向かった。その時の行列を「斎王群行」といい、現在では毎年10月の例祭において「斎宮行列」としてその様子を再現している。野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。斎王の制度は南北朝時代の後醍醐天皇の代を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、戦乱の中で衰退した。後に後奈良天皇、中御門天皇らの命により再興され、皇室からの厚い崇敬を受けた。境内には苔を用いた美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」がある。また、源氏物語「賢木」の巻にも現れ、謡曲「野宮」の題材ともなっている。
○施設
境内社の野宮大黒天は縁結びの神として有名で、大黒天に参詣し、その横の「お亀石」をさすれば願いが叶うと言われている。
○祭礼
嵯峨祭(5月第3・4日曜) - 愛宕神社と合同
斎宮行列(10月第3日曜)
○交通
京福電鉄嵐山本線「嵐山駅」下車、徒歩約10分
京都府京都市右京区嵯峨野々宮町1
天龍寺
天龍寺は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
○歴史
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。また、2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵しているが、中世のものは度々の火災で原本を失ったものが多く(案文・重書案などの副本の形で残されている)、後に関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多数移されたこともあって、「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める」とまで言われている。これに対して近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。ともに、中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。
○伽藍
境内東端に勅使門、中門があり、参道は西へ伸びている。これは、通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。参道両側に塔頭(山内寺院)が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、僧堂、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。
勅使門-四脚門。寺内最古の建物である。
法堂-禅寺の中心堂宇としては珍しい、寄棟造単層の建物で、1900年(明治33年)の再建。本尊釈迦三尊像を安置する。天井画の雲龍図は明治時代、鈴木松年によって描かれたが、傷みがひどかったため、1997年(平成9年)加山又造により八方にらみの龍の雲龍図が描かれた。
大方丈-1899年(明治32年)の建築。
小方丈-1924年(大正13年)の建築。
多宝殿-1934年(昭和9年)の建築。近代の建築だが、鎌倉時代頃の建築様式を用いている。後醍醐天皇の木像を安置する。
○文化財
・特別名勝・史跡
庭園 - 特別名勝及び史跡の指定範囲は、前庭と方丈裏庭。前庭は、勅使門から放生池を経て法堂に至る境内中心部を指す。方丈裏庭は曹源池(そうげんち)を中心とした池泉回遊式庭園で、夢窓疎石の作庭。
・重要文化財
絹本著色夢窓国師像 徳済の賛あり
絹本著色夢窓国師像 暦応庚辰仲秋の自賛あり
絹本著色夢窓国師像 木訥叟(夢窓)自題あり
絹本著色観世音菩薩像
絹本著色清涼法眼禅師像・雲門大師像
木造釈迦如来坐像
遮那院御領絵図
往古諸郷館地之絵図
応永鈞命絵図
東陵永?墨蹟(「?」は「王扁」に「與」)
北畠親房消息
臨川寺領大井郷界畔絵図
○映画と天龍寺
天龍寺は明治の活動大写真の時代から、京都の映画人に愛され、映画のロケ地に数多く使われた。現在では映画のロケは断っているが、撮影所や嵐山電車からの近さ、武家屋敷のようなたたずまいや、近くに渡月橋や峡谷もあり、変化の多い風景から大正時代には毎日一、二組がロケをするほどだった。明治45年に日活が創立されると、1月、2月には必ず大雪になるというので、毎年のように尾上松之助主演の「忠臣蔵」雪中討入りの場面がここで撮影された。戦時中は出征も戦没もすべて神社優先となり、寺院は経済的に苦しくなり、稲垣浩監督は天龍寺から「たまにはロケをしてくださいよ」と頼まれたことがあったという。戦後、『柳生武芸帖』(稲垣浩監督)での三船敏郎と鶴田浩二の大チャンバラや、『大岡政談 完結篇』(伊藤大輔監督)での、大河内傳次郎の丹下左膳が死の決心をする悲愴な場面はここで撮られている。
○所在地・アクセス
京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68
京都市営バス嵐山天龍寺前下車すぐ、京福電鉄嵐山駅下車徒歩1分
○歴史
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。また、2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵しているが、中世のものは度々の火災で原本を失ったものが多く(案文・重書案などの副本の形で残されている)、後に関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多数移されたこともあって、「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める」とまで言われている。これに対して近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。ともに、中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。
○伽藍
境内東端に勅使門、中門があり、参道は西へ伸びている。これは、通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。参道両側に塔頭(山内寺院)が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、僧堂、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。
勅使門-四脚門。寺内最古の建物である。
法堂-禅寺の中心堂宇としては珍しい、寄棟造単層の建物で、1900年(明治33年)の再建。本尊釈迦三尊像を安置する。天井画の雲龍図は明治時代、鈴木松年によって描かれたが、傷みがひどかったため、1997年(平成9年)加山又造により八方にらみの龍の雲龍図が描かれた。
大方丈-1899年(明治32年)の建築。
小方丈-1924年(大正13年)の建築。
多宝殿-1934年(昭和9年)の建築。近代の建築だが、鎌倉時代頃の建築様式を用いている。後醍醐天皇の木像を安置する。
○文化財
・特別名勝・史跡
庭園 - 特別名勝及び史跡の指定範囲は、前庭と方丈裏庭。前庭は、勅使門から放生池を経て法堂に至る境内中心部を指す。方丈裏庭は曹源池(そうげんち)を中心とした池泉回遊式庭園で、夢窓疎石の作庭。
・重要文化財
絹本著色夢窓国師像 徳済の賛あり
絹本著色夢窓国師像 暦応庚辰仲秋の自賛あり
絹本著色夢窓国師像 木訥叟(夢窓)自題あり
絹本著色観世音菩薩像
絹本著色清涼法眼禅師像・雲門大師像
木造釈迦如来坐像
遮那院御領絵図
往古諸郷館地之絵図
応永鈞命絵図
東陵永?墨蹟(「?」は「王扁」に「與」)
北畠親房消息
臨川寺領大井郷界畔絵図
○映画と天龍寺
天龍寺は明治の活動大写真の時代から、京都の映画人に愛され、映画のロケ地に数多く使われた。現在では映画のロケは断っているが、撮影所や嵐山電車からの近さ、武家屋敷のようなたたずまいや、近くに渡月橋や峡谷もあり、変化の多い風景から大正時代には毎日一、二組がロケをするほどだった。明治45年に日活が創立されると、1月、2月には必ず大雪になるというので、毎年のように尾上松之助主演の「忠臣蔵」雪中討入りの場面がここで撮影された。戦時中は出征も戦没もすべて神社優先となり、寺院は経済的に苦しくなり、稲垣浩監督は天龍寺から「たまにはロケをしてくださいよ」と頼まれたことがあったという。戦後、『柳生武芸帖』(稲垣浩監督)での三船敏郎と鶴田浩二の大チャンバラや、『大岡政談 完結篇』(伊藤大輔監督)での、大河内傳次郎の丹下左膳が死の決心をする悲愴な場面はここで撮られている。
○所在地・アクセス
京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68
京都市営バス嵐山天龍寺前下車すぐ、京福電鉄嵐山駅下車徒歩1分
大覚寺
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている。
○歴史
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所(さが ごしょ)とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
○伽藍
皇室ゆかりの寺院である大覚寺には、宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものが多い。伽藍の中軸線上には南から勅使門(唐門)、御影堂、心経殿が建ち、御影堂の東に五大堂、西に宸殿、宸殿の北側に正寝殿が建つ。これらの建物の間は屋根付きの廊下で結ばれている。伽藍の中心部に位置しているのは、本堂にあたる五大堂ではなく、嵯峨天皇ほかの歴代天皇が書写した般若心経を収める心経殿である点が注目される。
宸殿(重要文化財)‐東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は名高い(襖絵のオリジナルは収蔵庫に収められ、現在ここにある襖絵は複製である)。前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。
御影堂‐入母屋造、桟瓦葺き。伽藍の中心部に位置し、北側に建つ心経殿の拝殿のような役割をしている。この建物は大正天皇の即位式に使用された饗応殿を下賜され、大正14年(1925年)、後宇多法皇600回忌を機に大覚寺へ移築されたものである。堂内の中心部は北側に建つ心経殿の拝所となり、その左右に大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇、弘法大師(空海)、後宇多法皇、恒寂法親王の像を安置する。
五大堂‐大覚寺の本堂。境内東側に位置する。天明年間(1781-1789年)の建立。当初は伽藍の中心部(御影堂前の現在、石舞台がある位置)にあったが、大正14年(1925年)、御影堂が移築された際に現在の位置に移動した。元来この堂の本尊であった鎌倉時代作の五大明王像は収蔵庫に移され、現在は松久朋琳・松久宗琳が昭和50年(1975年)に完成した五大明王像を本尊として安置している。堂は写経道場として用いられており、堂の東側の縁からは大沢池を望むことができる。
心経殿‐御影堂の北に建つ。大正14年(1925年)建立の鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。内部には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。建物は国の登録有形文化財に登録されている。
正寝殿‐重要文化財指定名称は「客殿」。桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれる。「上段の間」(御冠の間)には玉座があり、後宇多院が院政を行った部屋を再現したものである。障壁画は狩野山楽および渡辺始興の筆。
霊明殿‐総理大臣を務めた斎藤実が昭和3年(1928年)、東京の沼袋(現・中野区沼袋)に建てた日仏寺の本堂だったもの。昭和33年(1958年)、当時大覚寺門跡であった草繋全宜(くさなぎぜんぎ)が移築した。縁板まで含め総朱塗りとした建物で、阿弥陀如来を本尊とする。
貴賓館‐秩父宮の御殿として大正12年(1923年)、東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現・国会前庭)に建立されたもの。昭和46年(1971年)、大覚寺に下賜された。非公開。
庭湖館‐江戸時代中期、大沢池畔に建てられた休憩所を明治元年(1868年)に移築したもの。非公開。
このほか、伽藍東側の大沢池周辺には護摩堂、大日堂、聖天堂、五社明神などの小堂や、昭和42年(1967年)建立の心経宝塔(多宝塔)などが建つ。
○大沢池と名古曽の滝
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽の滝」とともに1923(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されている。嵯峨院の園池を引き継ぐものと推定されているが、これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤を築することで北西側からの流れをせき止めて築造された人工の池として知られる。この池はまた周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたことが知られている。平安時代前期の名残をとどめ、日本最古の庭池とされている。昭和56年から始まった発掘調査によって、この2石は当初の位置にあるものの、その他の石は後代の手が加わっていると推定されている。また滝の南方には素堀に近い蛇行溝が開削されて大沢池へ注いでいたことが調査でわかっていて、これは自然の流れを模して造られた庭園の遣水施設で、嵯峨天皇が譲位を契機として冷然院からこの新院へと遷御した時期に最大幅約12メートル、深さ約1メートル規模拡張され、拡張と同時に流末に水位調節のために石組み溝が新たに設けられ、これによって流路全体がせき止められて池状のたまりとなっていたこと、このことから改修時期には供給される水量が減少し、池の注ぎ口に設けられた溝もやがて埋没し、流水方向に直交して低い土手が築かれてここに帯状に玉石敷が造られると同時に施設の西側に景石が添えられ、この施設によって流路は大きくせき止められて広大なたまりを形成しオーバーフローして大沢池に注ぎ込むこととなっていたものと考えられている。
○文化財
・国宝
後宇多天皇宸翰御手印遺告 - 「宸翰」は天皇自筆の意。後宇多天皇(法皇)が、大覚寺の興隆を願って書きおいた遺言の自筆草稿で、紙面に天皇の手形が押されている。
後宇多天皇宸翰弘法大師伝 - 真言密教に帰依した後宇多天皇が、自ら正和4年(1315年)に書いた弘法大師伝の自筆本。
・重要文化財
正寝殿(客殿)
宸殿
絹本著色五大虚空蔵像
絹本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
大覚寺障壁画 116面(附122面)
木造不動明王坐像・軍荼利明王立像・大威徳明王像(附:一夢信孝関係資料41点)
木造五大明王像 5躯
太刀 銘□忠
後宇多天皇宸翰悉曇印信口決2帖・悉曇印信文5帖
後宇多天皇宸翰奥砂子平口決
後宇多天皇宸翰灌頂印明 6巻
後宇多天皇宸翰灌頂私注 上 正和三年奥書
後宇多天皇宸翰護摩口決
後宇多天皇宸翰伝法灌頂作法
後宇多天皇宸翰伝法灌頂初後夜供養法次第 2帖
後宇多天皇宸翰宝珠抄
後宇多天皇宸翰高雄曼荼羅御修覆記 延慶二年正月十九日とあり
後宇多天皇宸翰伝流抄目録並禅助消息3通 1巻
金剛界伝法潅頂作法
袈裟印 禅助筆
孔雀経音義 上中下 3帖
秘鈔(128巻)23結
後深草天皇宸翰消息(正安二年三月六日花押)
花園天皇宸翰消息 七月廿五日とあり
○史跡
御所跡
○名勝
大沢池附名古曽滝跡
○アクセス
京都市営バス・京都バス大覚寺下車すぐ
京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
○歴史
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所(さが ごしょ)とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
○伽藍
皇室ゆかりの寺院である大覚寺には、宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものが多い。伽藍の中軸線上には南から勅使門(唐門)、御影堂、心経殿が建ち、御影堂の東に五大堂、西に宸殿、宸殿の北側に正寝殿が建つ。これらの建物の間は屋根付きの廊下で結ばれている。伽藍の中心部に位置しているのは、本堂にあたる五大堂ではなく、嵯峨天皇ほかの歴代天皇が書写した般若心経を収める心経殿である点が注目される。
宸殿(重要文化財)‐東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は名高い(襖絵のオリジナルは収蔵庫に収められ、現在ここにある襖絵は複製である)。前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。
御影堂‐入母屋造、桟瓦葺き。伽藍の中心部に位置し、北側に建つ心経殿の拝殿のような役割をしている。この建物は大正天皇の即位式に使用された饗応殿を下賜され、大正14年(1925年)、後宇多法皇600回忌を機に大覚寺へ移築されたものである。堂内の中心部は北側に建つ心経殿の拝所となり、その左右に大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇、弘法大師(空海)、後宇多法皇、恒寂法親王の像を安置する。
五大堂‐大覚寺の本堂。境内東側に位置する。天明年間(1781-1789年)の建立。当初は伽藍の中心部(御影堂前の現在、石舞台がある位置)にあったが、大正14年(1925年)、御影堂が移築された際に現在の位置に移動した。元来この堂の本尊であった鎌倉時代作の五大明王像は収蔵庫に移され、現在は松久朋琳・松久宗琳が昭和50年(1975年)に完成した五大明王像を本尊として安置している。堂は写経道場として用いられており、堂の東側の縁からは大沢池を望むことができる。
心経殿‐御影堂の北に建つ。大正14年(1925年)建立の鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。内部には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。建物は国の登録有形文化財に登録されている。
正寝殿‐重要文化財指定名称は「客殿」。桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれる。「上段の間」(御冠の間)には玉座があり、後宇多院が院政を行った部屋を再現したものである。障壁画は狩野山楽および渡辺始興の筆。
霊明殿‐総理大臣を務めた斎藤実が昭和3年(1928年)、東京の沼袋(現・中野区沼袋)に建てた日仏寺の本堂だったもの。昭和33年(1958年)、当時大覚寺門跡であった草繋全宜(くさなぎぜんぎ)が移築した。縁板まで含め総朱塗りとした建物で、阿弥陀如来を本尊とする。
貴賓館‐秩父宮の御殿として大正12年(1923年)、東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現・国会前庭)に建立されたもの。昭和46年(1971年)、大覚寺に下賜された。非公開。
庭湖館‐江戸時代中期、大沢池畔に建てられた休憩所を明治元年(1868年)に移築したもの。非公開。
このほか、伽藍東側の大沢池周辺には護摩堂、大日堂、聖天堂、五社明神などの小堂や、昭和42年(1967年)建立の心経宝塔(多宝塔)などが建つ。
○大沢池と名古曽の滝
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽の滝」とともに1923(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されている。嵯峨院の園池を引き継ぐものと推定されているが、これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤を築することで北西側からの流れをせき止めて築造された人工の池として知られる。この池はまた周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたことが知られている。平安時代前期の名残をとどめ、日本最古の庭池とされている。昭和56年から始まった発掘調査によって、この2石は当初の位置にあるものの、その他の石は後代の手が加わっていると推定されている。また滝の南方には素堀に近い蛇行溝が開削されて大沢池へ注いでいたことが調査でわかっていて、これは自然の流れを模して造られた庭園の遣水施設で、嵯峨天皇が譲位を契機として冷然院からこの新院へと遷御した時期に最大幅約12メートル、深さ約1メートル規模拡張され、拡張と同時に流末に水位調節のために石組み溝が新たに設けられ、これによって流路全体がせき止められて池状のたまりとなっていたこと、このことから改修時期には供給される水量が減少し、池の注ぎ口に設けられた溝もやがて埋没し、流水方向に直交して低い土手が築かれてここに帯状に玉石敷が造られると同時に施設の西側に景石が添えられ、この施設によって流路は大きくせき止められて広大なたまりを形成しオーバーフローして大沢池に注ぎ込むこととなっていたものと考えられている。
○文化財
・国宝
後宇多天皇宸翰御手印遺告 - 「宸翰」は天皇自筆の意。後宇多天皇(法皇)が、大覚寺の興隆を願って書きおいた遺言の自筆草稿で、紙面に天皇の手形が押されている。
後宇多天皇宸翰弘法大師伝 - 真言密教に帰依した後宇多天皇が、自ら正和4年(1315年)に書いた弘法大師伝の自筆本。
・重要文化財
正寝殿(客殿)
宸殿
絹本著色五大虚空蔵像
絹本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
大覚寺障壁画 116面(附122面)
木造不動明王坐像・軍荼利明王立像・大威徳明王像(附:一夢信孝関係資料41点)
木造五大明王像 5躯
太刀 銘□忠
後宇多天皇宸翰悉曇印信口決2帖・悉曇印信文5帖
後宇多天皇宸翰奥砂子平口決
後宇多天皇宸翰灌頂印明 6巻
後宇多天皇宸翰灌頂私注 上 正和三年奥書
後宇多天皇宸翰護摩口決
後宇多天皇宸翰伝法灌頂作法
後宇多天皇宸翰伝法灌頂初後夜供養法次第 2帖
後宇多天皇宸翰宝珠抄
後宇多天皇宸翰高雄曼荼羅御修覆記 延慶二年正月十九日とあり
後宇多天皇宸翰伝流抄目録並禅助消息3通 1巻
金剛界伝法潅頂作法
袈裟印 禅助筆
孔雀経音義 上中下 3帖
秘鈔(128巻)23結
後深草天皇宸翰消息(正安二年三月六日花押)
花園天皇宸翰消息 七月廿五日とあり
○史跡
御所跡
○名勝
大沢池附名古曽滝跡
○アクセス
京都市営バス・京都バス大覚寺下車すぐ
京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
化野念仏寺
化野念仏寺は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。山号は華西山。化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。
○歴史
伝承によれば弘仁2年(811年)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。
○行事
千灯供養 - 地蔵盆の時期、8月23日、24日に行なわれる。
水子供養 - 毎月24日に行われる。
○交通アクセス
「清滝行」京都バスを「鳥居本」バス停で下車、徒歩5分
京都府京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17
○歴史
伝承によれば弘仁2年(811年)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。
○行事
千灯供養 - 地蔵盆の時期、8月23日、24日に行なわれる。
水子供養 - 毎月24日に行われる。
○交通アクセス
「清滝行」京都バスを「鳥居本」バス停で下車、徒歩5分
京都府京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17