古くから名水の井戸として知られ、昔は寒暑にも枯れることなく、清水がこんこんと沸き続けたという。別名山下水とも言われ、能因奉仕の歌でも、「あし引の、山下水に影みれば、眉しろたへに、我老にけり」と詠まれている。天和2(2682)年、樋口氏が自宅と井戸の不審を行った際、顕彰分を井戸の内側に刻んだが、長い年月で文字は風化し清水も枯れ、石組みだけが古い時代をしのばせてくれる。
所在地:大阪府高槻市別所本町
2014年12月28日日曜日
能因塚
この塚は能因法師墳とも言われている。この塚は平安時代中期の歌人能因法師の墓と伝えられる。能因は名を橘永愷といい、都で官人としてつとめながら、歌道の第1人者であった藤原長能に学んだ。30歳の頃出家し、能因と改めた。晩年、女流歌人である伊勢姫が隠棲したこの古曽部の地に居を構え、歌道に専念し、古曽部入道とも呼ばれた。能因はここを拠点として各地を旅し、「都をば、霞とともに、立ちしかど、秋風ぞ吹く、白河の関」等、優れた作品を多数残している。能因塚は、東西16メートル・南北25メートル、高さ約1.8メートルの墳墓である。南正面の碑は、1650(慶安3)年、高槻城主永井直清により立てられた。碑文は林羅山の手になるもので、能因の事跡が刻まれているが、風雨にさらされ、下部は磨耗している。能因塚の周辺には、「文塚」「花の井」「不老水」など、能因ゆかりの遺跡が点在している。文塚は、能因の和歌の草稿を埋めた所といわれている。
所在地:大阪府高槻市古曽部町3
所在地:大阪府高槻市古曽部町3
天神山遺跡
標高50-100mの天神山丘陵上にひろがる弥生時代中-後期の集落跡であり、住居跡や墓地とともに多くの土器、石器、分銅形土製品などが出土した。住居跡のない丘陵中央の尾根からは、袈裟襷文(けさだすきもん)のある約60cmの銅鐸が出土している。
所在地:大阪府高槻市天神町一丁目・二丁目
所在地:大阪府高槻市天神町一丁目・二丁目
昼神車塚古墳
天神山(ひるがみ山)丘陵の南端、天満宮とは府道を跨いで残る前方後円墳。古くから天満宮境内であったが、府道建設で分断されている。6世紀中頃の造営と推測されており、規模は全長60メートル、前方部幅40メートル、後円部径35メートル。古墳からは多数の埴輪も出土した。当地は埴輪技術集団である土師氏の拠点であることに加え、この古墳の埴輪が近くの巨大古墳・太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪と同じ窯で焼成されたと分かっており、当地氏族の両古墳への関与が明らかとなっている。
所在地:大阪府高槻市天神町一丁目
所在地:大阪府高槻市天神町一丁目
闘鶏山古墳
闘鶏山古墳は、三島古墳群に属する、大阪府高槻市にある古墳時代前期の前方後円墳。未盗掘の竪穴式石槨が2基、発見されている。2002年12月19日、国の史跡に指定された。
○概要
闘鶏山古墳は、北摂山系南斜面にある奈佐原丘陵の標高84メートルの地点にある。今城塚古墳をはじめとする約500基の古墳を有する三島古墳群に所属しており、古墳時代前期の4世紀前半に造営された、三島古墳群の中でも前期の古墳であると見られている。「闘鶏」の名は、日本書紀仁徳62年の記事にも記載されている闘鶏野氷室に由来している。闘鶏山古墳の南側には闘鶏野神社があり、また古墳周辺の地名に氷室の名が残っている。古墳は丘陵の狭い尾根沿いに、前方部を南側に向けて造られている。全長86.4メートル、後円部の直径約60メートル、前方部、後円部ともに2段の段築がなされ、二段目のテラスや埋葬施設がある後円部墳頂部まで、墳丘全面に葺石がほどこされているが、埴輪は見られない。後円部の南東側に古墳本体と接して石が敷かれている部分があり、古墳の祭祀が行われたものと見られている。また、多くの土師器片が見つかっており、後円部の墳頂には土師器の壺が並べられていたとの説もある。埋葬施設として、後円部に2基の竪穴式石室が確認されている。中央部にある第一主体と、そのすぐ北西側にある第二主体ともに未盗掘であることがわかっている。
○土壇状遺構
闘鶏山古墳の前方部の前面に、南北約17メートル、東西約16メートルの方形をした土壇状遺構が発見された。古墳本体と同じく土壇全面が石で覆われていた。土壇の中央部には東西4.6メートル、南北が2.8メートルの穴が掘られており、そしてすり鉢状に掘られた穴の底部はいったん平坦になり、そこから更に東西約3.5メートル、南北約1メートルの穴が掘られていた。このような2段になって掘られた穴は2段墓坑と呼ばれる埋葬施設と見られ、闘鶏山古墳被葬者と関係の深い人物が葬られたものと推定される。
○未盗掘の石槨
闘鶏山古墳の第一主体は、南北14.5メートル、東西10~11メートルと墳頂部の大部分を占め、第二主体は第一主体の北西部分にあって、南北8メートル、東西5メートルである。2002年の調査で第一主体、第二主体とも未盗掘で、埋葬当時の状態をとどめていることが判明した。第一主体は古墳の主軸と平行して作られており、墳頂から天井石まで約2メートルとかなり深い場所にある。天井石の上は厚さ10~15センチの粘土で被覆されている。石槨は多くの20~30センチ×40~70センチ、厚さ4~6センチの板状の石を、合掌状に積み上げて作られており、天井石とともに徳島県吉野川流域産の結晶片岩が使用されている。石の隙間からファイバースコープを通して石槨内を覗いたところ、棺は前期古墳では一般的な割竹形木棺で、棺材の一部は腐朽せずに残っていると見られる。被葬者の周囲には朱が撒かれており、頭蓋骨も朱に染まった形で確認された。副葬品としては三角縁神獣鏡2面、方格規矩四神鏡、碧玉製の腕飾り、南海産の貝製品、石製品、銅鏃、鉄刀などが確認できた。また三角縁神獣鏡のうちの一枚は、京都府木津川市の椿井大塚山古墳で発掘された鏡と同型のものであることが判明した。また、石槨の端部には甲冑の一部と見られる鉄製の小札が多数見つかっている。第二主体は墳頂から天井石まで約1メートルとやや浅く、石槨の石材としては第一主体と同じ結晶片岩とともに、少量の石英斑岩が用いられている。棺はやはり割竹形木棺で、第一主体よりも多くの棺材が残されている。副葬品としては鉄刀が確認されている。
○石槨発掘の検討
石槨内は第一主体、第二主体ともに湿度が高く、全体に水滴が見られ遺物を濡らしており、また木の根の石槨内進入が第一主体、第二主体とも確認されている。その上、第一主体では板状の結晶片岩を積み上げた側壁からの石の落下とそれに伴う遺物の損傷も見られ、未盗掘であるとはいえ、遺物の保存状態は万全とは言い難い現状である。当初、石槨内の発掘を行わず保存を予定していた闘鶏山古墳であるが、現状保存に失敗した高松塚古墳の教訓もあり、石槨の実物大模型を作成して発掘を検討することとなった。2010年3月、高槻市教育委員会が本格的な発掘調査に乗り出す方針を固めたと報じられた。2010年度中に発掘方法を検討し、2011年度以降に着手する見込みとされている。
○所在地
大阪府高槻市氷室町
この古墳は山の中にあり、かつフェンスで囲われた敷地内にあるようです。ですので撮影できませんでした。
○概要
闘鶏山古墳は、北摂山系南斜面にある奈佐原丘陵の標高84メートルの地点にある。今城塚古墳をはじめとする約500基の古墳を有する三島古墳群に所属しており、古墳時代前期の4世紀前半に造営された、三島古墳群の中でも前期の古墳であると見られている。「闘鶏」の名は、日本書紀仁徳62年の記事にも記載されている闘鶏野氷室に由来している。闘鶏山古墳の南側には闘鶏野神社があり、また古墳周辺の地名に氷室の名が残っている。古墳は丘陵の狭い尾根沿いに、前方部を南側に向けて造られている。全長86.4メートル、後円部の直径約60メートル、前方部、後円部ともに2段の段築がなされ、二段目のテラスや埋葬施設がある後円部墳頂部まで、墳丘全面に葺石がほどこされているが、埴輪は見られない。後円部の南東側に古墳本体と接して石が敷かれている部分があり、古墳の祭祀が行われたものと見られている。また、多くの土師器片が見つかっており、後円部の墳頂には土師器の壺が並べられていたとの説もある。埋葬施設として、後円部に2基の竪穴式石室が確認されている。中央部にある第一主体と、そのすぐ北西側にある第二主体ともに未盗掘であることがわかっている。
○土壇状遺構
闘鶏山古墳の前方部の前面に、南北約17メートル、東西約16メートルの方形をした土壇状遺構が発見された。古墳本体と同じく土壇全面が石で覆われていた。土壇の中央部には東西4.6メートル、南北が2.8メートルの穴が掘られており、そしてすり鉢状に掘られた穴の底部はいったん平坦になり、そこから更に東西約3.5メートル、南北約1メートルの穴が掘られていた。このような2段になって掘られた穴は2段墓坑と呼ばれる埋葬施設と見られ、闘鶏山古墳被葬者と関係の深い人物が葬られたものと推定される。
○未盗掘の石槨
闘鶏山古墳の第一主体は、南北14.5メートル、東西10~11メートルと墳頂部の大部分を占め、第二主体は第一主体の北西部分にあって、南北8メートル、東西5メートルである。2002年の調査で第一主体、第二主体とも未盗掘で、埋葬当時の状態をとどめていることが判明した。第一主体は古墳の主軸と平行して作られており、墳頂から天井石まで約2メートルとかなり深い場所にある。天井石の上は厚さ10~15センチの粘土で被覆されている。石槨は多くの20~30センチ×40~70センチ、厚さ4~6センチの板状の石を、合掌状に積み上げて作られており、天井石とともに徳島県吉野川流域産の結晶片岩が使用されている。石の隙間からファイバースコープを通して石槨内を覗いたところ、棺は前期古墳では一般的な割竹形木棺で、棺材の一部は腐朽せずに残っていると見られる。被葬者の周囲には朱が撒かれており、頭蓋骨も朱に染まった形で確認された。副葬品としては三角縁神獣鏡2面、方格規矩四神鏡、碧玉製の腕飾り、南海産の貝製品、石製品、銅鏃、鉄刀などが確認できた。また三角縁神獣鏡のうちの一枚は、京都府木津川市の椿井大塚山古墳で発掘された鏡と同型のものであることが判明した。また、石槨の端部には甲冑の一部と見られる鉄製の小札が多数見つかっている。第二主体は墳頂から天井石まで約1メートルとやや浅く、石槨の石材としては第一主体と同じ結晶片岩とともに、少量の石英斑岩が用いられている。棺はやはり割竹形木棺で、第一主体よりも多くの棺材が残されている。副葬品としては鉄刀が確認されている。
○石槨発掘の検討
石槨内は第一主体、第二主体ともに湿度が高く、全体に水滴が見られ遺物を濡らしており、また木の根の石槨内進入が第一主体、第二主体とも確認されている。その上、第一主体では板状の結晶片岩を積み上げた側壁からの石の落下とそれに伴う遺物の損傷も見られ、未盗掘であるとはいえ、遺物の保存状態は万全とは言い難い現状である。当初、石槨内の発掘を行わず保存を予定していた闘鶏山古墳であるが、現状保存に失敗した高松塚古墳の教訓もあり、石槨の実物大模型を作成して発掘を検討することとなった。2010年3月、高槻市教育委員会が本格的な発掘調査に乗り出す方針を固めたと報じられた。2010年度中に発掘方法を検討し、2011年度以降に着手する見込みとされている。
○所在地
大阪府高槻市氷室町
この古墳は山の中にあり、かつフェンスで囲われた敷地内にあるようです。ですので撮影できませんでした。
2014年12月27日土曜日
史跡嶋上郡衙跡
高槻・島本は古代の摂津国嶋上郡にあたり、ここを治めるために置かれた郡役所が、嶋上郡衙です。都や国の役所にならって、儀式の場・庁院(ちょういん)や税を納める正倉などが整えられていました。庁院の西側には郡寺(芥川廃寺)、北に位置する式内社・阿久刀(あくと)神社周辺には嶋上郡の郡司(長官)一族の住まいがありました。また山陽道をはさんで西方の郡家今城遺跡、南方の津之江南遺跡は、郡衙と盛衰をともにした遺跡と考えられています。
所在地:大阪府高槻市清福寺町・郡家新町・川西町一丁目
所在地:大阪府高槻市清福寺町・郡家新町・川西町一丁目
古曽部窯跡
古曽部窯は、江戸時代後期から明治時代末にかけて、古曽部町の五十嵐家4代の陶工が営んだ、いわゆる地方窯(ちほうよう)です。製品は古曽部焼として庶民はもとより、茶人や文人にも愛されました。ここで焼かれたのは、主として日用の雑器(飯茶碗・小皿・湯のみ・鍋など)でしたが、その合間には抹茶碗・水指・菓子鉢・香合・茶托などの茶器や、花瓶なども焼かれていました。荒々しく力強い初代、民芸的な2代など、作風は全体にひなびた味わいがあり、とくに茶器は京阪の文人に愛されました。料亭などの大量注文に応じて焼かれることも多く、それが古曽部焼の生産拡大や普及につながっていきました。窯跡近くで行われた発掘調査では、陶片や窯入れに使う窯道具が多量に出土しています。
所在地:大阪府高槻市古曽部町三丁目
所在地:大阪府高槻市古曽部町三丁目
慶瑞寺
慶瑞寺は、祥雲山と号して黄檗宗に属し、観世音菩薩を本尊とします。 持統天皇8年(694)、宇治橋架橋などで知られる僧道昭が創建し、法相宗に属して景瑞寺と呼ばれていたと伝えられています。江戸時代初期には、景瑞庵と呼ばれ荒廃していましたが、寛文元年(1661)頃、普門寺の龍溪が再興しました。 境内には、後水尾法皇の歯や仏舎利を納めた聖歯塔、龍溪の木像や遺品を納めた開山堂があります。寺宝として、後水尾法皇の勅書をはじめ、後光明天皇の綸旨(りんじ)や隠元・龍溪などの真筆が伝えられています。 昭和61年に本堂から見つかった木造菩薩坐像は、8~9世紀頃の作とみられ、重要文化財に指定されています。
所在地:大阪府高槻市昭和台町2-25-12
所在地:大阪府高槻市昭和台町2-25-12
教行寺
高槻市にある浄土真宗の寺である。東本願寺大谷派に属し、1476(文明8)年に本願寺8世蓮如が創建したという。当時は富田道場と呼ばれ、本照寺と並び一向宗の北摂不況の拠点となった。その後、蓮如の子蓮芸が入山してから、寺は発展した。1532(天文元)年、細川晴元と一向一揆により、京都の山科本願寺と共に富田道場も焼き払われた。その後、細川氏と本願寺が和睦、1536年に富田道場最高が認められた。富田道場は教行寺と解消されたが、その由来は、蓮如が当寺で親鸞の著書「教行信証」を書写したことによるとされる。
所在地:大阪府高槻市富田町6-10-1
所在地:大阪府高槻市富田町6-10-1
引札屋
築70年の木造家屋を改装、坪庭や昭和初期の外観に郷愁が漂い懐かしい。中には4つのお店、ギャラリーなどがあり、池田のお土産やグッズがほぼ揃っている。町中の小さな観光案内所としても帰農している。「引札」とは18世紀頃に生まれたチラシのこと。
所在地:大阪府池田市栄町6-17サカエマチ一番街内
最寄駅:阪急宝塚線池田駅西口から北へ徒歩10分サカエマチ一番街内です。
所在地:大阪府池田市栄町6-17サカエマチ一番街内
最寄駅:阪急宝塚線池田駅西口から北へ徒歩10分サカエマチ一番街内です。
本照寺
本照寺は高槻市内にある浄土真宗の寺である。本照寺は本願寺派に属し、本願寺7世存如によって1427(応永34)年に創建され、光照寺と証した。1646(正保3)年に、本願寺13世良如の弟円従が寺に入り、本願寺の1字を得て本照寺と改めた。以降、本照寺は「富田御坊」と呼ばれ、高槻・茨木地域の同派の本山となり、隆盛をきわめた。1789(寛政元)年の火災で本堂等を焼失したが、1799年に本堂が再建された。現存する表門や書院はその当時のものである。境内には、「富寿栄の松」と呼ばれる樹齢およそ700年の老松があったが、1968(昭和43)年に枯死し、今は枝を支えていた石柱が、往時を偲ばせている。
所在地:大阪府高槻市富田町4-4-27
所在地:大阪府高槻市富田町4-4-27
普門寺
普門寺は高槻市にある臨済宗妙心寺派の寺である。釈迦如来象と十一面千手千眼自在菩薩像を本尊とする。明徳年間(1390~94)に、現在の本照寺がある所に、説厳が創建したと伝えられている。1561(永禄4)年管領細川晴元が出家して寺に入り、現在の堂宇が建てられた。のちの室町幕府14代将軍足利義栄が、1566年から2年間、織田信長によって四国に追われるまで滞在したことから、別名、普門寺城と呼ばれた。寺はその後衰退したが、1617(元和3)年に龍渓が入山し、方丈や諸堂を建立し、中興した。1655(明暦元)年に龍渓の招きにより、明の高僧隠元が長崎から普門寺に迎えられ、山城の宇治に黄檗山万福寺を開山するまで、約6年間とどまった。境内の庭園(国名勝)は、観音補陀落山の庭と呼ばれる江戸時代初期の枯山水庭で、玉淵の作とされる。北方の阿武山を借景に、枯滝を組んだ池泉式である。庭園北西側には、この地で没した細川晴元の墓と伝える宝篋印塔がある。方丈(国重文)は、1982(昭和57)年の解体修理により、建造当初の姿に復元された。方丈には、隠元の筆になる「獅林」の大きな衝立や狩野安信の水墨画が伝わっている。
所在地:大阪府高槻市富田町4-10-10
所在地:大阪府高槻市富田町4-10-10
靱海産物市場跡
鰹節、干鰯などの干魚を商う海産物市場で、豊臣の時代には海産物の市場はひとつで、今の北浜のあたりにありましたが、江戸時代のはじめ、元和4年(1618)には、生魚と干物などを扱う市場に分かれて、生魚の市場が本町のあたりに移りました。元和8年(1622)には、干物などを扱う市場も、この靱の地に移ってきました。
所在地:大阪府大阪市西区靱本町2-1(靱公園西園なにわ筋側)
所在地:大阪府大阪市西区靱本町2-1(靱公園西園なにわ筋側)
大阪市電創業の地
大阪市電創業の地
明治36年9月に開業した大阪市電の第1期線築港線は、西区九条町(花園橋西詰)から築港埠頭までの約5キロ間で、このあたりに花園橋停留所がありました。平成元年9月大阪市建立
所在地:大阪府大阪市西区千代崎2丁目8-10
明治36年9月に開業した大阪市電の第1期線築港線は、西区九条町(花園橋西詰)から築港埠頭までの約5キロ間で、このあたりに花園橋停留所がありました。平成元年9月大阪市建立
所在地:大阪府大阪市西区千代崎2丁目8-10
永代浜跡
靭公園のこの付近一帯は、江戸時代以来、塩干魚、鰹節などの海産物の市場として靭の中心をなしていました。これらの商人が荷揚げの便をよくするために、寛永元年(1624)海部堀川(かいふほりかわ)を開削し、阿波堀川とこの川をつなぐ永代堀の屈折点を永代浜(えいたいはま)と称し、海産物の荷揚場として賑わいました。
所在地:大阪府大阪市西区靭本町2-1(靭公園西園)
所在地:大阪府大阪市西区靭本町2-1(靭公園西園)
2014年12月22日月曜日
靭尋常小学校跡
明治6年5月開校の西大組第6番小学校は、のち靭東小学校と改称 同11年3月、靭西小学校(第7番小学校)と合併して、靭小学校として発足した。 爾後(じご)、高等科の併設、校地の拡張、校舎の増改築など幾多の変遷をへて、昭和17年3月校区の統廃合により隣接西船場校下に編入され廃校となる。校舎はその後、靭商業学校、同家政女学校等種々の教育施設に転用されていたが、昭和49年6月建物の老朽化の為、撤去解体されるに至る.
昭和54年11月靭小学校同窓会建立
所在地:大阪府大阪市西区靭本町1丁目(靭パークサイドコーポ内)
昭和54年11月靭小学校同窓会建立
所在地:大阪府大阪市西区靭本町1丁目(靭パークサイドコーポ内)
雑魚場魚市場跡
この地は古くは鷺島と呼ばれた砂州で漁船の出入りの便がよく、元和年間(1815~24)に魚市が立ち、堂島米市場・天満青物市場を加え、大阪三大市場と呼ばれた。「ザコバの朝市」は、大阪名物の1つとして親しまれ、1931(昭和6)年、大阪市中央卸売市場に吸収・合併されるまで、活況を示した。
所在地:大阪府大阪市西区江之子島1-8
最寄駅:大阪市営地下鉄中央線・千日前線阿波座駅徒歩4分
所在地:大阪府大阪市西区江之子島1-8
最寄駅:大阪市営地下鉄中央線・千日前線阿波座駅徒歩4分
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